今日は、一昨日と違って、大学で知り合った友達と一緒に市内観光をした。
訪れたことのない場所、普段は絶対寄らないような道に、足を進めた。
ちなみに、その人は私のようなものが隣で歩いていても良いのだろうか、と卑屈に考えてしまう程の美人だ。
しかも、美人に限って中身の文句のつけようのない人がいる。
一つ一つの行動に意味を感じられる。
この人はなんで、こんなにも当事者の気落ちがわかるのだろうか、とビックリする。
だが、1日を終えて思うことは、同じ動作でも、一人と二人で行うのは違うなだな、ということだ。
もちろん、考えるべきことはもっと別にあるような気もするのだが、、
自分一人の時の経験や、見つける発見というのは、あの人はどんな人なのだろう、とか、なんでこれはこうなるのだろう、などと少し数学的になる。
それは、言い換えれば、自分の好きなものであったり、既に持ち合わせている考え方を、実験室で何度も実験を繰り返すように、見つめ直したり、発展させるようなもののような気がする。焦点が考えや、世の中を見渡すレンズにある。
それに対し、他人とどこかに出かけるというのは、もっとなになにしておけばよかったな、と自分の行動に対しての後悔や、悔しさに焦点がシフトしていた感じがする。
これは、断然一人の時間の時間よりも、感情的になっていると思う。
SDG'Sが何ちゃらとか、〇〇の人権が大切だ、というのは、ある程度まで対外的にならないと理解できないのかも知れない。
ゲームをしている時など、タブレットで浪費されいる電力のこととか、部屋でつけられているエアコンの電気代のことですら考えたことがない。
自分一人で出かけた時は、特に何か特別なことをしないでも、よし、俺は今日部屋から出て、新しい人たちと交流したぞ、とむしろ肯定する立場にいるのにだ。
だが、これは、誰かと一緒にどこかに遊びに行くのは、実は結構ストレスモノだ、と言いたいわけではない。
むしろ、自分一人では到底考えられない、もしくは、出会えない発見であったり、気づきが偶然に導かれてきているのだから、それはすごく大切なモノだと思う。
果たして、その恩恵を享受して、成長した私はどんな人間になっているのだろうか。。
想像するのはいつの時だって楽しい。