タイトルにある通り、この記事は、周りに惑わされては、そんな優柔不断の自分が嫌いだった過去の自分へのメッセージとなっている。
一言で私の学生時代を言うなら、他力本願、優柔不断、嫌々マンだと思う。
学校では、そんなやり方じゃダメだろ、とか、それの何がいいの?とか、周りの価値観に噛み付いては、自分の考えを棚に上げていた。
そして、世の中や、親、学校の先生に不満はあれど、それがどうゆう感情なのかや、なんでそんな風に思うのかが、説明できないからと、機嫌を損ねては、周りの人間に八つ当たりしていた。
そんな私だったのだが、ある本と出会って、自分の中に別の人格が生まれた(あえてこの言い方をする)
下にその本のリンクを載せておくので、興味があれば読んでみるのもいいと思う。
ただ、嫌々マンの自分は、本を読む作業ですら、自分には関係ない、とか、億劫と感じるだろうから大切な部分を簡単にまとめる。
それは、自分にとって譲れるものと、譲れないものの境界をはっきりさせることだ。
もちろん、これには正解はないし、いきなり考えろと言われても、出てこないと思う。
しかし、何が正しくて、何が正しくないのかをはっきりさせておかないと、他人の言葉が正しく聞こえてしまって、一生他人の言いなりになってしまう。
そして、決して道のりは短いわけではないが、時間軸は未来から現在、現在から過去へと流れているからこそ、譲れる/譲れないの境界線を持っている将来の自分は、
今の自分で変わる。
これを読んでいる今こそ、一番ヒマだし、一番変わりたいと思っているはずだ。
今こそ正義なり。
最後に
私は、最近ある女性から手紙を頂いたのだが、最初は全く相手の神経が理解できなかった。
なぜ、今の時代にわざわざ手紙を書くのだと、そして、なんか重いなと。
だが、相手の立場になって物事を理解する、考える、と言う習慣を始めてみたので、
この件に割り当ててみたら、手紙の面白さに気づけたと思う。
それが、今回これを書こうと思ったきっかけなのだが、
手紙には、相手の反応は必要ない。
ゆえに、作る側は、自分にとって好都合のことだけを考えることができるし、
独りよがりなことを書いたとしても、それに気づかない。
あえて誇張するが、こんなに批判はするものの、時おり、そうゆう押し付けや、伝え方と言うのが、むしろ大切だと思う時がある。
あなたは、どんな手紙が欲しいだろうか。
日本語や話がおかしいところには、温かい目で見ていただけると嬉しいです。
今後も是非ともご贔屓に。