FacebookやLINEではご報告したけれど
アメブロでしかつながっていないお友達も
いるので、こちらでもご報告と、あと
記憶が薄れないうちに、思い出せる事を。
先週の13日に母が亡くなりました。
1時55分。60歳でした。
10日に私と子ども達二人が
病院に駆け付けた時には、まだ意識は
はっきりしていて(多分私が来るまでお薬の
量を控えめにしてくれていたと思われる)
私が「ホスピスに移れるって婦長さんが
言ってたけど、移動するなら家に帰りたいね」って
言った時は「そりゃそうやわ~」って言ってた。
ゆみさんが近くによって、ばぁばって言ったら
ニコっと笑ってた。
ゆうとが冷蔵庫に入ってたチーズを食べて
下にこぼしたから、私が怒ったら、
「ゆうと!あかんで!」って言って、私には
「そんな怒らんでいい」って言ってた。
そいで、ゆうとがトイレ(大)に入ってたら、
「なんか臭いww」って言ってたし、
酸素マスクがうっとおしいらしくて、
さりげなく外してはニヤっとして楽ちん~って
顔をしたりしてた。
急に私をじっと見て「これでもういつ死んでもいい?」
って聞いてきたから、ドギマギしてしまって
「いいけど・・・自宅に帰ってゆっくりしてからに
しようやー」って言ってしまった。
この時に、どうして、「いいよ、もう楽になっていいんだよ。
今まで治療すごく頑張ってくれてありがとう」って
言わなかったんだろうと、すごく後悔してる。
この時が言ってあげる最後のチャンスだった。
悔やんでも悔やみきれない。
この日は、お水を飲ませてあげたり、
むくんだ足をマッサージしながら、
“これ母の病気が分かった時に習いに行ったなぁ。
役に立って良かったなぁ”と思ったりしてた。
11日は母の60歳の誕生日。
年金をもらうまでは死なん!!って日頃から
言ってた母だったから、この日まで頑張ったのかなぁ。
体調が許せば自宅に外出を・・・と用意していたけど
残念ながら動かせる状態にはなく。
もうこの日から、薬でうとうとしている状態。
話しかけるとうっすら目を開くし、
少し声を出したりするけど、言葉にはならず。
でも聞こえてはいると先生や看護師さんに
言われたので、家族で話しかけながら病室に付き添う。
お水はもう自分で飲めなくなってた。
一人になった時に、「お母さん、産んでくれて
育ててくれてありがとう。弟と妹も産んで育てて
くれてありがとう。今、すごく大ちゃんと茜ちゃんが
いて心強い。治療たくさん頑張ってくれてありがとう」
って言ってみた。聞こえていたかなぁ。
聞こえていたらいいけれど、もっと早くに言ってあげれば
良かった。そういう事ばっかり今は思う。
夕方に子ども達に疲れが見えたので自宅に帰宅。
12日 早朝5時前にその晩病室に付き添っていた
弟から電話があり、「脈が少なくなって血圧も低いので
病院に来てほしい」と呼ばれて、あわてて妹と向かう。
行ってみると、状態は悪いけれど、その状態で
落ち着いていた。もう目も開けなくなって、
ずっと眠っている感じ。しんどくなさそうだから
「しんどくないといいねぇ。頑張ったねぇ」と兄弟で言い合う。
すごく足がむくんでいるけど、マッサージすると
多少マシになるので、ちょいちょいマッサージ。
午後に自宅に戻り、大阪から持ち帰った仕事を済ませる。
もう一度病院に向かおうか?と思ったけれど、
叔母がその日は夜付き添うので、私と妹と弟は自宅で
待機することに。いつ呼び出しがあるか分からんから、
早めにお風呂に入って寝ようね~と言って21時に就寝。
子ども達にも家と病院の往復で疲れが見て取れる。
深夜1時50分頃、弟が「おばちゃんから電話あった」と
起こしにきたので、眠ったままの子ども達を積みこんで
車で向かう。この時は、また意識のない母の傍に
付き添うんだなぁ、と思ってた。
でも、病室についたら、なんか違和感を感じて。
??なんやろ?
って分からんかったら、弟が隣で「・・・酸素マスクが」って
言ったから、あぁそうだ、酸素マスクが外れてるんだ、
って思って、でもなんで?ってまだ分からなくて、
おばちゃんが「・・・もう。」って言った時にやっと、
あぁ、もう逝ってしまったんだと分かった。
私たち、兄弟三人とも間に合わんかった。
おばちゃんも、隣で寝ていたのに分からんかったくらい
すーっと眠ったまま逝ってしまった。
口元は少し微笑んでいて、
本当に眠っているみたいな顔だった。
しんどくなかったかなぁ。
何を考えながら逝ったんかなぁ。
家に戻って、自分ちで看取ってあげたかったなぁ、
って思う。どんだけ在宅医療の事調べても、
看取りの本を読んでも、実際に出来んかった。
それも後悔。後悔ばっかり。
あー。暗くなって来たし、
長くなったので一度ここで記事を終わります。
続きはまた今度。