講師紹介
プロフィール
森田留美 もりたるみ
幼い頃は 母が音楽家にさせようと思っていた。
3歳より大阪音大の塩田先生よりバイオリンを習い、
6歳で、お茶の水大学卒であった秋山先生にピアノを習う。
バレエの授業があった雲雀丘学園小学校に入学したことで、バレエに出会う。
バレエの先生が母を呼び出し「お嬢さんにはバレエの才能があります。
是非 私の友人のバレエ研究所に入れてあげて下さい」と言ってもらえワクワクした。
学校帰りに駅前の本屋さんにランドセルを預け、電車を乗り換えて玉川清子バレエ研究所に通う。
本屋さんへのお礼で沢山本を買って貰えたので、読書で自分の世界を広げていった。
ピアノもかなり進んだが、周りが学生コンにでる優秀な方ばかりで、自分にはピアノの才能がないと思い込んでいた。
小5年サンフランシスコバレエ団の大阪万博公演に参加するチャンスを得、15回以上群舞で出演、舞台の味をしめる。
♫〜 バレエとピアノに夢中 ♫〜
進学校であった神戸海星女子学院に進学する。
ピアノの先生になりたいと思いがつのる。
その後、才能教育研究会のピアノの生徒さんの演奏に感銘を受け、
中学からは音大の先生に師事し、基礎を徹底的に叩き込まれる。
中学でバレエを辞めさせられるも、高校でお小遣いでバレエを再開する。
ミュージカルにはまり、高校1年の時は"青い鳥"
高校2年で"ジーザス クライスト スーパースター"を 上演した。
作曲や編曲、教会オルガンを弾くようになる。
お年玉お小遣いをためた30万を頭金にしてグランドピアノを買ってもらう。
譜読みが得意で、毎日4〜5時間練習するも、手が小さいことがネックに。
その後、通学に片道3時間かかる 大阪芸大に進学後、ピアノを頑張る中、生徒さんにも恵まれ、すぐに教え始めるようになる。
♫〜♫〜♫ 大中恩先生 ♫〜♫〜♫
声楽は山田暢先生に師事。
先生は 「さっちゃん」を 作詞された阪田寛夫先生の姪にあたる方で 阪田先生と作曲家の大中恩の先生とは従兄弟同士 恩先生は「椰子の実」の 大中寅二先生のご子息さまにあたるかたで勲章も受けておられる。
暢先生のリサイタルにはおじさま方も 賛助出演され"暢ちゃんの為オリジナル曲"を阪田寛夫先生のハーモニカ 大中恩先生のピアノ 暢先生の歌で発表され、リサイタルは文化功労賞を受賞されて嬉しかった。
暢先生は「私は教えるプロ、必ず留美ちゃんもお客さまにお金を払って聴いて頂ける歌を歌える様になる。」とおっしゃったけれど 先生みたいに素晴らしく歌えるようになるなんて夢の様に感じた。
バイオリンの青木先生も 才能があると仰ってくださり、4年間 無料で沢山レッスンをして下さった。教育学部のオーケストラのコンマスを勤めた。
それを見かけた美術の教授が「バイオリンを弾く少女」の 絵のモデルのお仕事を下さったりもした。
舞台芸術学科のバレエのレッスンにも潜り込み先生公認で無料レッスンを受けさせて頂いていた。
芸大の4年間、ひたすら実力をつけたくて夢中で ピアノ、バレエ、バイオリン、声楽と幅広く芸術を習得した。
♫〜素晴らしい恩師との出会い♫〜
芸大に来日された ニューイングランド音楽大学のチョドス教授、ウィーン国立音楽大学のイエンナー教授のピアノのレッスンも選ばれて受講した。
21歳の時、ピアノの和田喜世子教授とご一緒に渡航、ウィーン国立音楽大学夏期セミナーに1ヶ月参加。
ピアノのレッスンをヘルマン シュベルトマン教授、ハンス グラーフ教授に受け、アレクサンダー コロ教授、ドゥティール教授による声楽のレッスンも受けた。
本場 ウィーンのフォルクスオパーのオペレッタに感動する。
120人の学生の内各10人が出られる卒業演奏会でピアノと声楽、それぞれソロで出演。
卒業論文 「フルートベングラーの芸術と生涯」は 永久保存に選ばれた。
喜歌劇楽友協会のオーディションを受け、合格し、研究員に。
3年目で、会員になる。
音楽教室に勤め、また自宅でもピアノを教え、40人ほどの生徒を抱えるようになる。
結婚後も 神戸の実家と大阪の自宅でレッスン。
♫宝塚トップスターとの出会い♫
23歳で、後 和央ようか の 芸名で 宝塚のトップスターになられた大川貴子さんのレッスンを担当する。
長女、男女の双子の長男 次女を出産後32歳の頃には生徒数30人に。
並行して舞台活動も充実。喜歌劇楽友協会で、年に3回の公演。
振り付け 演技指導も受け持ち
喜歌劇 "こうもり" "メリーウィドゥ"
ミュージカル"サウンド オブ ミュージック"
オリジナルミュージカル"ウーマン"等でソリストを務め
代表の向井氏の引退まで 32年所属した。
♫〜♫〜♫〜 海外へ ♫〜♫〜♫〜
20代後半より 元メトロポリタンオペラのヴォイストレーナーでいらした フィリップ エイムズ ファイン先生のヴォイストレーニングを20年間 大阪、ニューヨークに於いて受講した。
30代後半より3回ベルギーに勉強に行き ブルージュの音楽院において ツェガー氏、スカラ座で活躍されていたイーバ氏のレッスンを受け、毎回 最終コンサートに出演した。
平和の船 世界一周をするピースボートに 水先案内人(講師)として北回り、南回りあわせて 4回乗船、洋上 船内のミュージックサロンでコンサートを開催、又、 ミュージカル「サウンド オブ ミュージック」の指導、ボイストレーニング講座を開催した。
題や詩があったら即 ピアノで弾き歌いにするのが好きな事から
原爆詩をレパートリーに入れる事を平和学の岡本教授に勧められ、広島に通い 被爆者の方々のお話を伺う。
オリジナルで 栗原貞子氏の「ヒロシマというとき」「生ましめんかな」御庄博実氏の「灼かれる大地」オユンナ氏の「ヒロシマの少女の折り鶴」等を弾き歌いのレパートリーに入れ オペラ、オペレッタと組み合わせて ソウル、ニューヨーク、函館、釧路、 仙台、東京、長野、大阪、広島、長崎、各地でピアノで弾き歌う。
慈善家で大富豪、映画のプロデューサーでもある 精神医学の権威 ヘンリー・ジャレッキー博士のプライベート アイランド、イギリス領ヴァージン諸島のグアナ島でのジャレッキ博士の80才誕生日祝いパーティーでディナーショウをした。
韓国のシンキングアカデミーにおいてボイストレーニング講座を開催、チューリッヒ、フィラデルフィア、トリニダードトバゴ でも ミュージカル、オペレッタ、オペラ、韓国歌曲、日本歌曲を歌った。