六月の歌舞伎座は、昼の部、夜の部とも3階席で観る。いつものオペラグラスより倍率の高い双眼鏡を持っていく。中村萬壽・時蔵・梅枝の萬屋三代の襲名披露。それに、梅枝と中村獅童の二人の息子である陽喜・夏幹の初舞台が呼び物で、祝い幕も用意されて六月の歌舞伎座は祝賀ムードだ。観客は劇中での襲名口上や3人の子供たちの初々しい演技を十分に楽しんでいた。ただ、わたしの歌舞伎への関心はそこにはなく演し物が中心ー明治以降の作品ではなく江戸時代の作品ーなので、今回はチケット代を”節約”した。演し物のうち『妹背山婦女庭訓』は江戸時代の浄瑠璃狂言だけれど、文楽を含め何度も観ている。
 
 
年金プラスαで暮らしていると、月々の限られた財布の中から歌舞伎・文楽やコンサート、美術展、書籍、B級グルメ、旅行などにどのように”資金”を配分すれば、全体として最も高い満足が得られるか真剣に考えるようになる。コンサートで高いチケットを買った場合は、歌舞伎の方は”節約”。その逆もある。「こっちをどのランクでいくらに、すると、あっちは…」。そんな”作業”をやっていて「ああ、これは経済学の”限界理論”のささやかな実践だな」と気がついた。
 
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大学は経済学部だった。”限界理論”は、あるマージナルな領域で効用(=満足)が最大になる”最適解”はどこか、また、そのような均衡する”解(=答え)”が存在する条件は、といったことを数学も使って研究する精緻な経済理論で、勉強嫌い、学問嫌いのわたしには手に負えず、そんなことから経済学そのものに興味を失い、憎みさえした。
 そんなある日、伯父(森敦)が若き日の交友について書いたエッセイ(だったか?)を読んで、伯父の大の親友の檀一雄が東大(当時は帝大)の経済学部を卒業していることを知った(伯父は一高中退)。あの無頼派を代表する作家の檀一雄が経済!?。わたしは飛びついた。”檀流クッキング”ではないけれど、もしかしたら”檀流経済学”というような極意があって、それを会得すれば経済学が面白くて好きになるか、せめて、好きになる取っ掛かりを得られるのではないかと縋るような思いだったのである。
 わたしは、市ヶ谷にあった伯父の家に行き聞いた。
「檀さんって、東大の経済を出てるんだね」。
伯父は、一瞬訝しげな顔をしたあと「ウッフッフ」と笑って言った。
「檀は経済のことなんか何も知らんよ。最もフケイザイ(不経済)な男だよ」。
結局、わたしは経済学を好きになることはできず、檀一雄が好きになった。

さて、7月をどうするか。わたしは、わたしの幼稚な”限界理論”を駆使しながら考える。7月・8月はN響の定期公演はないけれど、来シーズンの席替えを申し込んでいるので、席のランクはどうしょう。歌舞伎座の7月公演は團十郎と幸四郎の宙乗りの競演だ。特に、昼の部の團十郎は『義経千本桜』に登場する十三の役を早変わりで演ずる。1階か2階か3階か、どのランクの席で観れば費用対効果を考えて満足度maxだろうか。大阪の国立文楽劇場では『女殺油地獄』を演る。大阪まで観に行くべきだろうか、美術展は何があったっけ、等々。

マクロ経済学でもない、ミクロ経済学でもない、乏しい財布の中身と相談しながら効用=満足の最大化を図る。わたしの”小銭経済学”である。   

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