お茶の世界では、「わび」「さび」と

いう言葉がよく聞かれます。

私自身、そのどちらも未だよく分かって

いませんが、今月号のWEDGEという

雑誌で、「日本の情感」というコラム

でヒントを得ました。

本文引用ここから
孤独を尊ぶ「さび」
わたしたちはよく「さびしい」とか
「さみしい」とか連発するが、では
そう口にする時、私たちは何を感じ
ているのだろう。包丁の錆などを
ふと思い出すと、分からなくなる
かも知れない。しかし、「さ」とは
「しか(然)」が約まったものだ。
「然り」と答える大名のせりふも
時代劇には登場するだろう。だから
いかにも本来の姿らしいことが
「さぶ」。
じつは鉄がさびることもそのひとつ
だった。鍛えに鍛えた刃はピカピカ
光って、切れ味もよさそうだが、
これは鉄本来の姿からみれば、わざ
とらしいのである。
鉄が酸に弱い本性そのままに「さび」
ていれば、それこそ鉄らしい。それ
が錆である。
いま「わざとらしい」といったが、
「わざ」を日本人はけして好ましい
とは思っていない。
「あいつの為業(しわざ)だ」と
いうのは罵倒に近い。
万事、自然を尊ぶ精神が基本である。
「さびしさに宿をたち出でて 眺む
れば いづこも同じ秋の夕暮」という
良暹法師の歌がある。
「孤独にさいなまれて外の景色を見る
と、すべて秋の夕暮だった」というの
だから、景色すら秋の夕暮れ「さびて」
何の援軍もなかった、と詠むのである。
身も景色も一色。ここに究極の秋の
夕暮れがあるとは「さび」の典型と
いえる。
また、「さび」の陶器がある。その
風姿は孤独以外にない。それが「さび」
だ。こんな美を愛でてきたのが日本人
だった。だからこの美の誕生の背景に
に「わび」と同じ歴史があるがある
ことも、よくわかる。同じ死の美学
といっても良いだろう。
これも戦国乱世を胎として生み出さ
れた、生命凝視の結果にちがいない。
引用ここまで)

と…。

どうやら、日本人の感覚は、

さみしい…

わびしい…

など、孤独感やあきらめに近い

自分たちにできる限界を悟ったような

部分があるようです。

あきらめたから、自分が今持っている

もののありがたさを感じられる…

そんな精神性なのでしょうか?

まだまだ勉強です。