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もりりんのブログ

旅好きでグルメ。最近、クラシック音楽に興味あります。ハンガリー舞曲を通しで聞けるコンサートないかな。ドナウ川クルーズで聞いたブラームスやリスト・・・・忘れられません^^

出生してから、小学校に入学する年齢になっても消息のわからない子供たちや小学校に入学できても、不登校(意図せざる)で先生とコンタクト不能なこどもたちが、いまだに!多数存在しているこの事実。明らかに、私たちの社会システムの欠点が現れているという現実。


子供たちの話ではないのですけれど、7年ほどまえに私は母を失いました。50代の始めに伴侶であった私の父を失い、以降、精神的不安定さからさまざまな問題を抱えながら以降20年にわたって入退院を繰り返しました。子供は私一人であるため、仕事しつつ母の介護という現実。当初のころは、母の親戚や友人の援助支援もあって負担は少なかったです。しかしながら、長年にわたる介護は、やがて孤立感をもたらし、母の関係者も徐々に老齢化し、以前のような援助はいただけなくなりました。幸いにも私の場合は、老人支援センターのケアマネージャーさんの応援もあり、ぎりぎりの状態で最悪の結果は回避できました。老人介護については、セーフティネットが張られ(それも各ケアマネさんや個人の努力によるところが多い)ましたが、一方、子供やシングルマザーに対する支援ははなはだ貧弱であるのは昨今の報道でもよく言われているところです。


私の経験から語らせてもらうならば、本当に困った場合には誰にもわからないままに孤立化してしまう!ということなのです。今の日本という国は、「助けて!」と心から声を出して叫べば誰かが助けてくれます!  問題は本当に困っている人は声をあげれない!ということなのです。


特に声を上げれない子供たちは、そういう意味で潜在的に誰もが社会的弱者なのです。社会的弱者の条件が発露した場合、顕在化されるのです。ならば、私たちの社会としての方向性は明確になってくるはずです。子供が出生してから児童と呼ばれる期間を過ぎるまで。即ち、子供が自力で判断できるまでの期間(具体的には12歳くらいまで?)は強制的に自治体なり国なりが子供の成育や健康について関与すべきです。具体的には、子供の健康診断や予防接種、栄養状態検査や学力チェック。就学支援や学校給食の補助と実施。これらを国家権力のもとに実施すべきだと思います。今でも、それらのことをやっているではないか?という疑問はあるでしょう。しかし、先ほどの私の趣意がここででてくるのです。困っている人を自ら助けるほどの長い手は、自治体も国も持っていないのだということ。


学校の先生が、不登校の子供の家庭訪問に行きます。親が、子供に会わせてくれません。そこから先は強制力はないのです。虐待を疑われる家庭があります。子供が不自然な怪我で受診しました。医師は児童相談所に通告します。しかし、そこから先は児童相談所の力量や予算人員の中で対応となります。もちろん緊急性の高い案件とわかれば即応もできましょうが、現在の機能ではできうることは限られます。


人権や個人の自由は大事ですが、子供を養育するのは親の義務であり・・・そして日本という国の義務でもあると考えます。そういう観点から、子供の健全な養育は国が介入できうるシステムにあると思っています。そこに、親の権利とか「しつけ」とかいう、虐待をする親の言い分を尊重する部分は排除するべきです。こういう考え方は、戦前の全体主義国家としての日本の悪い部分と考えるかたは多いかもしれません。しかし、戦前のとても貧しい日本という国において、子供は宝という思想は、一方で富国強兵や徴兵制の基盤になると同時に、社会福祉の一端を担っていた部分も否定はできません。もちろん、当時のレベルでの話しではありますが。


私の論旨です。つまり、児童相談所の機能の拡充と権限人材予算の拡大。あるいは、予算的な問題は、寄付の活用なでも含む。それと同時にシステム的に子供の養育に対する補助援助機構の創設。これになります。日本の公的機関は、基本、すべて受身です。申請があって認可する。事件があって出動する。要望があって検討する。これを子育てに関しては、個人の権利をある程度制限させても対応すべきだということです。声を上げれない子供たちを救う手段は、そこにしかないのではないでしょうか?