アメブロで書いてきた民泊すさのわオーナーブログはnoteに引っ越しました。
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これからもよろしくお願いします。
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note すさのわ:朝ピアノ
https://note.com/susano_wa/n/na1447b6286a6
この記事を書いたのは4日前。
朝早く起きて、自分の時間を堪能している我ながら良い記事。
しかし、今朝は早起きも出来ず、普通の起床だった。
【原因】
晩ご飯の時、缶ビールを二本飲んでしまった・・・
献立がカレーでテンションが上がった・・・
寝る前にお菓子を少し食べた・・・
寝たのも12時を回っていた・・・
それはそうだわな。
そして今日ちょっと胃が重い・・・
原因もわかっているので改善だ。
明日からまた改善。
コロナ自粛からの大きな変化。
すっかり朝型の生活になった。
そこのところをnoteに書いています。
朝活をすると、一日の充実感が違う!
クリエイティブな毎日です!嬉しい。
朝型の生活 (7月10日)
https://note.com/susano_wa/n/n64477559d4bc
肩書のない人生 (7月10日)
https://note.com/susano_wa/n/n5296513fa607
帰郷物語part1 (7月11日)
https://note.com/susano_wa/n/ne2afcf16edc0
先日、島根県出雲市の出雲市民会館で無観客ライブ、YouTubeライブ配信をしてきました!
当日の様子等はnoteに記載しています!
ここ最近三つの記事をnoteに投稿しました。
よろしかったら、読んでみてください!
・天羽々斬、スサノオが切った大蛇とは? https://note.com/susano_wa/n/n7ef3f438f33e
・アマテラスと反転した世界 https://note.com/susano_wa/n/n3d8182629930
・一神教と多神教 https://note.com/susano_wa/n/n1fe604b57479
無意識を意識に上げる。
よく例えに用いられるが、外国には「風鈴」というもの、更に言うと「風鈴」という機能、概念が無いので、外国人は風鈴の音が耳に入ってこないことが多いらしい。おそらく他の雑音と共に溶けて耳に入っている。
我々日本人は「風鈴」というものをひとつの生活文化として知っているので、風に揺られ綺麗な音が鳴っていると、それを認識し涼しさを感じたりする。
こういった文化がバックボーンにないと、意識にも上がらないことがあるようだ。
そう考えると、聴覚というものも、画一的なセンサーのようなものではなくて、人それぞれ違うのだと思わされる。しかも受信機能の違いではなく、その人が有している概念の違いが大きいのだと。
おそらく、ここに意識と無意識の違いが大きく表れる。
意識に上がっているとは、既に概念にあるか無いかの違いが大きい。
常日頃どこに意識を合わせて生きているのか。人それぞれ、職業や役割、趣味趣向で千差万別。
なので無意識に気づくことは難しく、何かのきっかけや、ギャップが生じないと気づけない。
私たちも日常的に無意識にやっていた、とか思うし、無意識が自己を動かしていることなども認識している。
つまり、無意識が自己を動かしていることを意識はしている。
しかし、意識に上がってこないと、つまり概念化されていないと対象は認識されにくい。
これは何を表しているのかというと、何かが自己を動かしているけど、無意識に沈んでいるとその何かが分からないということだ。
つまり、分からないを生きている。
そして、何か問題が起きたり物事がうまく進まないとき、分からない状況が目の前に晒され、私たちはモヤモヤを抱える。
大体の場合、モヤモヤが晴れるのは、その原因が分かったり、見通しが立ったりする場合。おそらく無意識が意識に上がってきてコントロール下に置かれた時だ。
たとえば、具体的な悩みが解決されていくプロセスはこういう道筋を辿る。
今の私たちの仕事はこういうことに取り組んでいるケースが多い。
しかし、これが一人一人の人生とか生き方となるとなかなか難しい。
人生が壁にぶつからないと、なかなか考えない。自分事とならない。
自分事となると、そこを乗り越えるため、言語化していくことだと思う。
ここ最近、外の世界は自粛ムード。今世界は大きな変化の中にいる。
外との関りや関係を停滞する流れが起きれば、ただただ情報の世界に目をやるか、自己の内的世界へと目をやるかになると思う。
ここは大きな分かれ目。
日々変わっていく外の情報を追っかけるか、自分の内的世界に下りていくか。
二極化するかもしれない。
情報は追っかけていても切りがないので、ある程度にしておいて、僕は自己を振り返る時間にしよう。
ふくよかで自由で、生き生きとした思考の先に新しい時代の息吹を感じられるはずだ。
今起きている、世の中の変化は、きっと無意識からの発動。
今まで見えていたけど、聞こえていたけど観念が無いものとしていた事柄がどんどん認識されていく。
もしかして、新時代の風鈴の音が、鳴っているのかも知れない。
最近の世の中の変化に、これからのことを考えている人も多いと思う。
逆に何も考えず、嵐が過ぎ去るのを待っている人ような人もいるかも知れない。
自分はこういう世の中の変化は(景気の悪化)2020年のオリンピック後に起きるということを想定して動いていた。
それが半年前倒しになったような感覚だ。
日本では起きている現象自体は強くないので、仕事への影響が大きい人を除けば、この状態をどうみるか
という個人個人の価値観に委ねられている。
今後の、万が一のことを考え、コメを10Kg買っておいた。プチ備蓄的な感覚。
そしてその他なにか最低限の食料を買っておこうと考えたが、実際何も思いつかなかった。
普段は妻が食材を買って、料理もしているので、当たり前といえば当たり前。
とりあえず、コメと好きなコーヒーを多めに買っておいた。更に好きなビールを箱買いしようかとおもったが、それはやめた・・・
食材を買っておこうと思ったのも、まだ小さい子供が二人いるからで、そのことが優先だった。
子供たちが空腹に耐えられなかったらどうしよう?と考えた。
自分はコーヒーとビールがあれば何とかなると思ってたのか・・・?
食べること、自分にとって食べること。
僕は食後のコーヒーが大好きだ。あと、食前~食中のビールも。
もしかしたら、こっちがメインで食事をしているのかも知れない。
食べることも大事だけど、食卓を囲む時間が大切。
食べるものにはあまりこだわりはないけど、食事の時間は大好きな時間だ。
過去、一日二食にしていたこともある。朝を抜いたり、昼を抜いたり。
どちらにしろお腹が減って、活動が出来ないというようなことは無かった。
身体が軽くなっていい感じ。
食べ物を摂取するより、良い時間を過ごしたり、嗜好品を楽しむということが大切なんだと思う。
生きていくために、食べているというよりは、よりよく生きていくための一つの要素が食事なのかな。
食料のプチ備蓄を考えてたらそんなことを思った。
日本では流通が麻痺するようなことは起きにくいとは思う。
しかし、備えておくに越したことは無い。
こういった備えも改めて気付きを与えてくれるから面白い。
そして、今日も当たり前に食べれて、食卓を囲めることは幸せなことだ。
とにかく、ここにこだわってきた。自分の頭で考えて、納得し取った行動なら納得がいくからだ。
流されて決めた行動は、責任を他に転嫁しがち。そういったことをしたくない。
そういった思いから自分の頭で考えることを大事にしている。
そして、自分が人一倍、思考のバイアスがかかりやすいことも自覚している。
だからこそ、自分の考えが、正しいか、正しくないかの二元論にならないよう注意している。
正しいことを考えているわけではない。だからその考えを他者に否定されてもかまわない。
自分が考えた過程が大切だと思うし、そこに面白みもある。
その考えに至るまでに繰り返したインプット、アウトプットにこそ価値があると思う。
自分の頭で考えることを、生き方の主軸に置くと必然的に組織で働くことが合わなくなる。
例えば会社員になれば、組織の考えを第一に考えることが求められ、自分の考えなど二の次だ。
自分の頭で考え、生きていく、つまり仕事は独立して行うことになる。
そこから、独立という考え方になるが、独立・・・何からの独立だろう?
そこはつまり、「責任を負わないという立場」からの独立なのだと思う。
社会にこの、責任を負わないという立場がたくさん発生したのはおそらく資本主義という考え方が広まった結果だろう。
資本主義は資本家と労働者とに二分する。資本家は資本(基本、お金)という形で事業に参画し、実質の決定権を持つ。
ここでは経営者と位置付けておく。
経営者は当然、リスクを負う。
その反対に労働者はその傘下におかれ、経営者の求める価値を増やしていくことになる。
増やすことが目的。増やしていけばその事業は継続する。
労働者は経営者から見れば、人的費用、つまり何もしなければマイナスを生む存在。なので労働者は少なくとも0、そしてプラスにしていかないと存在の理由が無い。そんな状況で価値を増やすために、労働をするが、事業が赤字になっても負債を抱えることは無い。この負債を抱えるのは元々経営者の役割だ。
労働者は経営者、つまり会社を選ぶ権利があり、会社が倒産すれば、別の会社に移ればいい。低リスクだ。
そういった仕組みから「責任を負わないという立場」はある意味、市民権を得て増えていったと思う。
スキルや資格を身に着けて、会社が倒産したとしても、別の会社に就職しやすい状況をつくる。これが労働者としての一番合理的な考えではなかろうか。
そして、労働者である限り、常に価値を増やすことを求められる。経営者は安い人件費で多くの価値を生んでいくことを考える。
労働者になると、つまり責任を負わないという立場になると、基本「増やすこと」を求められる。責任は問わないから増やしてくれと。
僕はこの、他から与えられた価値を「増やすこと」を卒業しようと思った。
ただ増やしていくことに価値を見出していくのなら、テクノロジーに負けてしまう。
また、自分が思う価値と増やしたい価値が経営側と合うとは限らない。
それが独立への大きな動機だった。
そして責任を負う立場になり、必然的に自分の頭で考えざるを得なくなった。
増やすためにどうするかではなく、そもそも何の価値を生むのか?
そこを考えることになる。
いわゆる創造性というやつだ。ここまで自分を追い込んだのかも知れない。
リスクを取り、創造していく力。ここを養っていく。
そのために何が必要かと考えた。
まず、リスクを取ること。リスクは未来への不安、失敗への恐怖と直結している。
そこと向き合うことだ。「失敗したらどうしよう?」この問いに向き合うことだ。
もう一つ「失敗とはどういう状態か?」ということも明確にしておくこと。
失敗が怖くて動けない、決められないという状況は誰にでもある。
しかし責任を取るということは失敗が怖くても決めるということだ。
まず、決める勇気を持つことだと思う。そして、決めて行動に移す。
行動に移せば結果は出る。結果を受けて、顧みてまた決める。
いわゆる「PDCAサイクル」みたいなことから始めるしかない。
はじめにP、計画が定まり、次にD、行動に移せればとりあえず動き出す。
ここはまだリスクを想定するところでもないし、思い付きをやってみようというところだと思う。
しかし、意外に思ったからやってみるという行動が鈍くなっていることに気が付いた。
長い間そういった行動をとってなかったからだ。
思考と行動が分離した状態。この状態を取り払うのが厄介だった。
この分離がまさにリスクを避ける生き方だったのだろう。
労働者の思考というか。まず、ここを脱却すること。
そのことに重点を置いた。
思い付き、思い付き・・・それがなかなか思いつかなかった・・・。
何か与えられたら、それに対して反応もするし、対応もする。案も思い浮かぶ。
しかし、思い付くこと・・・これがなかなか難しかった。
なので、とりあえずその時その時を好きに過ごした。今を生きてみた。
すると、目の前のもの、世界がよく見えるようになった。
忙しい、あれもしなきゃ、これもしなきゃと思っていた頃は見えてなかった世界が。
そして、それはいつも目の前にあった。
今、取りたてて何かをやらなければいけないわけではない。
大切なのは、ずっと目の前にあった世界にもう一度気付くこと。
子供の時のような感覚で世界に溶け込むこと。
考え考えた先にそこに辿りつくことが出来た。
いつでも、いま
どこでも、ここ
目の前に、新しいゲートが開かれていた。
今、2020年3月、春分の日を控えて、自分の生き方が問われていると感じています。
コロナショックから世界の様相が浮き彫りになり、一人一人の考え方を明確にしないと自分の判断も出来ないような状況になってきました。
そうしないとただ流されるままです。
今回の感染症は致死率が高いわけではないから、それそのものに大きな危険性は無いと思います。
しかし、感染拡大を防ぐという意味で国からは自粛の要請があり、それに合わせ世の中は動いています。
人や物が動きコミュニケートすることで経済を回し、価値を受け取っていた私たち。
その動きを自粛するということは経済が滞り、価値の流動も起こりません。
現実、今直面しているのはそのことで、この停滞はコミュニティの停滞ともとれるし、その一員である私の停滞のような気もしてしまいます。
やっぱり、「はて困ったな」というのが正直なところです。
しかし、もう数年前からこれまでのような資本主義経済がこれからも続くわけないと思っていました。
2022――これから10年、活躍できる人の条件 (PHPビジネス新書)
2012年に発刊されたこの本。
2023年位には会社はなくなるだろう。
2020年位から日本経済は崖から転がるように落ち込む。
というようなことが書かれていました。
当時、この本はかなり正確に未来予想をしていると思い、何度も読みました。こういうシナリオを想定し生きてきたつもりです。
2012年当時は今の、このような状況はまだ想像しにくく、具体的にどういう道筋を歩むのかは分からなかったいうのが正直なところ。
当時は東日本大震災後の「復興」という大きなテーマが日本全体にあって、大変なことを経験したけど、前を向いて頑張ろうというような感情的な一体感がありました。
でも、これから時代の転換期を迎える。今までの延長で未来を考えることは危険だと、著者の神田昌典さんは言っていました。明治維新や太平洋戦争敗戦後に匹敵する、大転換が起きる。その想定で準備しましょう。そして転換後の世界はアジアが中心になり、日本が引っ張っていくんだと力強く書かれていました。日本の良さが発揮できる時代が来ると。そのメッセージに熱くなり、自分もその方向にアジャストしてきました。
そして、2020年がやってきました。2011年の震災はあくまで日本という単位でしたが、今回は世界。グローバル化が進んだ現在において、世界共通の脅威は瞬時に世界を飛び回ります。
あっという間に、世界中に伝播し、その影響で経済の流れが滞りました。このスピードも世界が距離的にも情報的にも近くなったことから来るんだと思います。
大げさではなく、世界が一変する。
感情論では突破できない局面を迎えているんだと思います。
こんな状況になり、改めてこれからの時代どう生きていくのか?考える機会になりました。
過去の延長で、前例から未来をイメージするのではなく、0から創造する。未来から創造する。もうここしかありません。
つまり「生き方を問われている」んだと思います。
もう、ここまで来ました。
生きること、生き延びること、死なないこと。
どう生きるのか?そんな根源的な問いをぶつけられています。
今、物資の買いだめなどが起こっている根本には、自分が家族が生き延びることが、最優先という考えがあると思います。もちろん自分を守る、家族を守ることは大事なことです。生存の本能です。
しかし、このような状況で起きる混乱は、この正当な本能と本能のぶつかり合いです。どちらも正しいのです。早く捕えておかないと無くなってしまうという恐れ。
この恐れです。
私たちは無くなってしまう恐れを手放せません。
今回、この恐れとしっかり向き合おうと思います。この恐れは本物なのか?自我はなぜにそこまで自分を守ろうとするのか?生き延びるために生きているのか?
この恐れは本来の私たちの生命とは、違うところから発せられていると思います。物質的価値観の上に乗せられ、私たちを動かす、失うことへの恐怖。失ったら無くなる。無くしたくないから執着する。この意識は肉体や物質的価値観から来ています。
はたして私たちはただ肉体として生きていく、生き延びる生命体なのでしょうか?
半分はそうでしょうが、半分は違うと答えたいです。
恐れに縮こまり、限りを感じて、自分を小さきものとしてみてしまう心。
一方、世界をこの手に、無限の可能性を信じ、クリエーションする心。
両方、持っていると思うのです。そう信じたいのです。
創造されたものを受け取っていると同時に、創造もしているんだという意識。
この二つを意識し、目の前の、今この時に触れてみます。
生命の根源や生きることに真正面からぶつかって、様々な矛盾に自ら飛び込んでいく。
こういった生き方の先に、きっと新しい時代が待っているんだと思います。
このようなことを考えさせられるきっかけになった今回の出来事。
この世界に生きている私たちが立脚している場所は本当はどこなのか。
ただただ資本主義機械の一部として回っていた私たちの存在をもうひとつ上の次元から眺めてみる。
そうしたとき、新たな自分に出会えるのではないかと思います。
それが大きな可能性です。
そこに向かうためにしっかり自分と向き合い、思考を深めることが大事だと思います。