昨日はtwitterのリンクから飛んで、亀井文夫「世界は恐怖する 死の灰の正体」という映画をみた。
http://video.google.com/videoplay?docid=4521927229940612236
1957年の作品。このころから着々と研究室では放射能の影響についての解明が進められてきた。数々の動物実験、そして人体実験を繰り返し、多くの命が犠牲になってきたのだ。ところがどうだろう、今の政府の事故対応は長年の研究がこれっぽっちも役に立っているとは思えない。よく政府や東電やメディアにたいして、「犯罪的」という言葉が飛び交う。「人殺し」という只ならない言葉もよく耳にするようになった。私たちのこうした言葉には力はなく、批判の矛先にあるそれらは反省をするそぶりもせずに、苦しい人たち、悲しんでいる人たちが振り絞って訴えた声は、かき消されるどころか完全に無視されているのだ。これが今の日本という国家。そこに住む人々を平気で見殺しにする国。
だからといって政治家やメディアをひとくくりにするのは良くない。そのなかに、権力にあらがい本当に体をはって訴え続けている人たちもいるのだ。また、「市民」と呼ばれる人たちのなかからも、自主的に人々の健康を守るために活動してくださっている方がいる。私は、大きく落胆する一方で、このような人たちに誘発されるように、生きることについて考えている。
根本的なこと。
息を吸って、息を吐いて、ご飯を食べて、それを消化して、排泄して。
私たちは与えられた時間を、精一杯生きるために存在しているんだろう、と思う。危ないからこれを食べてはいけない、外に出てはいけない、何をしてはいけない・・・。私たちは、地雷がそこら中に転がっていて、それをできるだけ避けなくてはならない、というサバイバルのような生活を、これから何十年も続けてあわよくば長寿をいきるのがよいのか?それとも、寿命が短くなることなど恐れず、流れ星のようにキラリと光ることを目指して生きるのがよいのだろう?そんな二択なんて意味がないとは思いながらも考えることを止めることができないでいる。
