りさーちゃーのたまご -6ページ目

りさーちゃーのたまご

研究者になり損ねた社会人のつれづれ日記です。へっぽこソフトしかかけないけど、社会人研究職を目指します。
適当なソフト、語学(英語、中国語)、マラソン、旅行、ときどき小言。

夢追い
 6.社会人期① -回顧- ← イマココ
 7
.社会人期② -進学- ← 増えた
 8.まとめ -自己実現とは-

のんびりしていたらこんな時期になってしまった。ちょっと急ぐ。

【配属】
 さくら舞う中、入社式。いよいよ社会人になるということでワクワクしていた。いつ配属が通達されるかという事前情報も一切なかったので気にしてはいたが、確か入社3日目ほどで通達があったと覚えている。
 面談ではこう言った。「先端的なロボット研究開発を行うことが私の夢。それを実現するフィールドとして御社がぴったりであった」と。しかし配属は、ロボットとは一切関係のない事業部であった。かけ離れているというレベルで関連が無かった。

【苦悩】
 目の前が真っ白になった。ハンマーで頭をぶん殴られたような瞬発的な衝撃から、私の社会人生活が始まった。その他もろもろ思うところも多くあり、どうしても心の折り合いをつけることが出来なかった。なぜ、こうなったと…。全く理不尽な罰ゲームを受けているような気分であった。電車で30分もすればある他の事業所では、正に私が志すロボットの先端的な研究をしている同期もいるのだ。あまりにショックで、「ロボット」という単語を聞くだけで動悸が乱れる有りさまである。
 せめて、やりたいことが出来ないなら高度な技術力を習得するなど、先端技術者としての素養を鍛え上げたかった。しかし、私は開発員とは言えど、業務内容的に、そことは異なる領域であった。そうこう時間が立つうちに、これまで培ったロボット工学の知識が見る見る衰えていく。まずい。
 
【人事】
 日々の生活が辛かった。どうしても自分がその事業部に配属されたのか、全くもって理解することが出来ず、2年が過ぎた。人事異動というものを本格的に目の当たりにしたのはその時だった。 本人が全く望んでいない部署へ異動となるケース、組織再編のため異動となるケース。これはある程度の規模の会社であれば共通することで、人材の配置はまずは組織の判断が最優先の懸案事項となる。当然だ、組織が存続するために、遊びで人材配置を決めるはずがない。その上で、個人の希望やスキルがもし合いそうなら検討する、というレベルの話しである。その我慢の対価として、会社から守られている部分がたくさんあるのだ。
 そんな環境の中、私ごときの若造が自己実現をしようなどとは、そもそもおこがましい話なのである。逆に言えば、組織に対して過度な期待をしてはいけないのだと、強烈に実感した。

 同時に何故自分が今の事業部に配属されているのかも少しは見えるようになってきた。先端的な研究をしている場所とは違い、極めてお客様と近い。自社の他の事業部と比較しても、圧倒的にお客様との距離が近いのだ。したがって、顧客思考を強制的に埋め込まれるわけである。また、当事業部はエンジニアリング主体の事業であり、その特性上プロジェクトマネジメント能力、応用力、事業提案力を要するので、仕事人として必要なヒューマンスキルと極めて効率的に刷り込むことが出来るというわけである。

 頭では分かる。分かっている。確かに、自分は過度に研究思考が強く、お客様が使う上でどうするかについて考えが浅かった。そこを見ぬいた人事の采配は正しいというのは、極めて合理的で、論理的には理解できる。事実、私は仕事をする中で眼から鱗のお客様事情をひしひしと実感する機会に恵まれている。
 だが、しかし、それでも、どうしてもロボットがやりたかったのだ…。

【発起】
 指を加えていたって現状を打開出来るはずもない。やれることはやろうと一念発起する。まずは、同期を介して自分のやりたいロボットビジョンの研究チームの人に自分のことを知ってもらうべく、アポを取って研究紹介をした。反応は良いのだが、これで異動が実現するとは思わない。まずは知ってもらうだけでもいいのだ。その時に、ロボットのシミュレータを自作して実装力があることもアピールした。
 その過程で気がついた。楽しすぎるのだ。ロボットのシミュレータを作るとき、プライベートな時間を割いてはいたが、それが時間を忘れるほど楽しくて楽しくて仕方がないのだ。今の業務でも色々やりたいことをやらせてもらっている方だとは思うが、これほどのワクワク感を覚えることは、大変恐縮ながら修士で研究して以降、皆無であった。あの頃の感覚が呼び起こされる。
 もう、人事異動どうこうではない。ただ、ロボットがやりたい。仕事じゃなくてもいい。具体的なテーマが欲しい。可能性はないか…。そう、行き着いたのは、博士課程だ。そもそも、私はロボット博士になることが夢だった。修士の時はドロップアウトしたが、今はもう社会人である。自分で生計を立てているし、曲がりなりにも業務を計画的に遂行する力は学生の頃よりは身についている。また、今の時代なら社会人向けの博士課程プログラムも充実している大学院が多い。
 ただ、簡単な道ではない。そんなことを始めたら、修羅の道に突き進むことは明々白々である。業務と研究の分野が全く異なる場合、通常の業務をしながら、プライベートな時間は全て研究に費やすことになる。睡眠もろくに取れなくなるだろう。安くはない学費だってかかる。家族もいる。今までみたいに旅行や食事に行ってあげられなくなる。そんな生活になっても本当にいいのか?数日悩んだ上で、まずはいい大学があるか情報を集めることにした。
 もう夢中になって大学院を調べた。やはり社会人博士課程プログラムはあるものだ。だが、博士となると大学の偏差値や制度だけでは語れない。指導教員が肝となる。自分がどうしてもやりたいと思うテーマはもちろんだが、師匠と弟子の関係を築くようなものだ。教員と馬が合わなければ、課程の時間は捨てるようもの。ちょうど調べた時に気になった先生が展示会に出ているという情報を得る。行くしか無かった。業務とは一切の関わりはないので、さらっと有給を取らせてもらった。その辺は今の職場のいいところである。

 

夢追い
 6.社会人期 -回顧-
 7.まとめ -自己実現とは-

【-方向転換-】
 悟った。限界だった。これ以上自分には背負いきれない。もう、諦めようと…。見栄やプライドなんてものは捨てようと思った。指導教員に洗いざらい話そうと思ったが、どうやら海外出張。なぜこのタイミングで?
 次に研究室の学生に就活したいと話した。周りから何ヶ月も遅れてだ。驚かれたが、すぐに就職指導教員に相談するよう促された。そして、その教員に全てを話し、諭される。私には覚悟が無かったのだと。覚悟があれば脇目もふらず、一心不乱に取り組めるだろうと。周りが就職することに引け目を感じるようでは、その程度の意志だったのだと。
 言葉が出なかった。正に、言い得て妙である…。先生は続ける。まずは就職するのもいいだろう。やりがいのある仕事が出来るチャンスが有る。ただし、その場合は進学からは一切足を切れと。教員との面談を終え、30分程考えただろうか。進路を就職に切り替えると決めた。いや、決めたというよりは、もう腹では決まっていてあとは就職をしたらどうかという言葉を、他の識者から欲しかっただけなのかもしれない。
 何にせよ、その後の迷いは無かった。一心不乱に就職活動をした。もう5月も半ばで相当焦ってはいたものの、当初の異常な精神状態は徐々に安定していった。その過程で今の会社を選ぶに至った。この手でロボットの知能化を実現したいという夢を実現出来るフィールドとしてふさわしいと考えたからだ。そして、内定が出た。紆余曲折はあったが、身を滅ぼすことを回避できて良かったと心から安心した。
 そこからは、それこそまた一心不乱に研究に取り組んだ。それまで研究以外で足を突っ込んでいたこと全てから身を引き、研究に一本集中することにした。他に気にすることが無く、自分のやりたい研究に没頭できるということが、こんなにも豊かなことかと感動した記憶がある。

【-修了-】
 そして、修士論文を書き上げる。共同研究のデモの〆切が1月中旬という修論ダダかぶりのふざけたタイミングで打ち込まれたり、まぁ色々とレジェンド的なアクシデントが多々あったような気がする笑。
 とにもかくにも、もはや数えきれないくらいの失敗ばかりしながら、色々な経験を重ね、無事に修了し、希望していた会社の内定にありつけたのだから、大変恵まれた立場にはあったと思う。もう、あんな死ぬような思いはしたくないが笑。
 最後に幾つか学会論文を投稿し、ロシア(!)とウクライナ(!!)を周遊し、沖縄でバカンスを楽しみ、地元の温泉に浸かり、学生生活を締めた。多少無理はしたが、最後にやりたいことは全部やりきった。もう思い残すことはなかった。

【-反省-】
 これだけの失敗をしておきながら反省をまとめてなかったら、何のためにブログを書いているのか分からないというものだ笑。

○調子に乗らない
 ・たかが一年の留学で、何故かくも調子に乗っていたのか、今となっては全く理解不能。
 ・留学という経験は確かに人生に影響を与えたが、それは人生の中の出来事の1つでしか無い。
○人に頼る
 ・自分ごときの若造は、常日頃から周りの先輩に頼りながら自己成長をさせてようやく人並み。
 ・悩んだら恥ずかしがらずに信頼できる人に相談すべし。恥なんてかいてなんぼ。
○目的を明確にする
 ・何か面白そうという好奇心は大事。でも、目的を明確にし、計画を立てて行動しないと必ず破綻する。
 ・更に、目的を達成するためのコストと効果を、自分の価値観としっかりぶつけてから実行に移すべき。

【-そして就職-】
 さぁ、自分は就職先でロボットの先端的な研究に取り組むのだと高いモチベを持って地元を離れた3月末。また私は衝撃を受ける笑。まだまだ、私ごときのぺーぺーには学びは足りないようだった。
夢追い
 4.大学院生期① -慢心-  ← イマココ
 6.社会人期 -回顧-
 7.まとめ -自己実現とは-

久々に振り返る。一番振り返りたくない時代である。

【修士2年-留学後-】
 留学から帰ってきたら、何やら自分が何でも出来るような(実に馬鹿げた)気分になっていた。留学経験がその後の人生に影響を与えたことは事実だが、どうも「カブレ」というものはやっかいである。
 そのやっかいな「カブレ」のせいで、前エントリは示したとおりアメリカの大学院に行くんだ!と躍起になっていた。
 更に、当時は自己啓発に過度に躍起になり、土日も問わず毎日学校に泊まり込んで勉強・研究をしていた。それが楽しかったのだ。ただ、やっかいは行動力に結びつき、産総研やITベンチャーのインターンや、学内ベンチャー、交換留学生同窓会の監事に足を突っ込んだりしながら、様々な経験が出来た。修士2年という立場も有効に活用し、練習と称して就職活動も行った。
 問題なのは、足を突っ込んだその数だった。完全にキャパを超えていた。ただでさえアメリカの大学院に進もうとすれば、少なくはない試験や情報収集をしなければならないのに、取り敢えず面白いと思うだけで優先度の高くないものにも首を突っ込みすぎたのかもしれない。

【修士3年-震災と挫折-】
 帰国して約1年。留学した1年間分の研究時間を取り戻すため、元々留年するつもりだった。留学中に給付型の奨学金がバラまかれたのがせめてもの金銭的救いであった。
 そんな修士3年生。まだ研究室泊まり込み生活を続けていた時に起きたのが、あの東日本大震災である。ここでは細かく語らないが、とにかく精神状態が乱れた。
 それでも、アメリカの大学院に進学することを目指し、勉強した。交通機関は麻痺し、学校も休校。時間はあった。TOEFL、GREの勉強をひたすら行っていた。だが、本丸のアメリカでの「ロボット研究室」を探すところで、ピタリと手が止まってしまった。分からないのだ、どれをやりたいのか。ただロボットをやりたいという気持ちだけが先行して、これというビジョンが無かった。
 そうなると大変だ。何を目的にアメリカに行くのか分からなくなる。じゃあ日本の博士に行くか?いや、そんなコスパの悪い世界はまっぴらだ。でも、アメリカに行こうにも先が見えない。こんな状態でアメリカに行ったら人生を棒にふるうかもしれない。ここまでやってきたのに?片や、就活している同期は自分で生計を立てていけるのに?でも、周りには大見得張ってアメリカ行くと言ってしまったし、今更辞めるなんて言いたくなかった。
 震災の影響があったのかは分からないが、異常な精神状態であった。ご飯が喉を通らない。暇さえあれば外を徘徊する。その行為が止まらないのだ。新幹線の中ですら歩みが止まらないのだ。尋常ではない恐怖に襲われた。もう、ダメだと。

という形で、この頃は声だけでかいブレブレ系な学生であったわけである。もう思い出すだけで頭が痛くなる。とんだ恥さらし野郎である。

そんな自分に対する戒めと反省は次節で述べることにする。