ヴィーナスとセミ
ベランダの曇りガラスにパチンコ屋のネオンが透けこんでいる。その色彩のグラディエーションが不規則なリズムとなって鈍く濁った思考にシンクロしている。環七から間断なく唸るような喧騒が聞こえるが、耳元のチクタク音の方がよほど神経に障る。午後十時二十五分。あと5分で目覚まし時計が鳴るはずだ。そろそろ起きなければ…
永く浅い不連続な眠り。不機嫌で容赦のない眠り。日中はほとんど眠っている。意味のない、記憶に残らない夢を見たという記憶。のどの渇きと空腹。怠惰と無気力。一抹の罪悪感と漠然とした焦り。いつもの共通した感覚だ。狭いアパートにここからの出口は見当たらない。
目覚ましのセットをはずし、部屋の灯りをつけ、覚悟を決めてベッドから這い上がる。冷蔵庫のミネラルウォーターを流し込む。自律神経が活動を開始。シャワーを浴びると皮膚の瑞々しい感覚が甦った。あと10分。
買い置きのコンビニおにぎり。ひとつはイクラ、もうひとつはツナマヨ。ろくに噛まず飲み込むように、残った水で流し込む。
換気を終えると準備完了。あと5分。テンションもあがり始めた。落ち込んだ気分ではうまくいかない。短くてもテンションを保て! 頭を回転させろ!
机のマウスをつかむとPCのスクリーンセーバーが止まり、デスクトップが現れる。ブラウザーアイコンをダブルクリック。
意味ありげなFLASHが走る。「ようこそヴィーナス・オンステージへ」
ブラウザーを起動すればこのサイトにアクセスする設定になっている。
サイトのトップページにオンライン中のヴィーナスたち、つまりチャットレディーがサムネイルで表示されている。素顔をカミングアウトしている子もいるが、ほとんどは上半身やボディ・パーツなどをサムネイルに利用している。
彼女らは自宅やアパート、場合によっては学生寮や勤務先のオフィスからブロードバンド回線でここのサーバーにアクセスしている。動画カメラは必携。ほとんどマイクも備えている。
このサイトにヴィーナスとして登録している女の子はサイトの報告を信じるなら2000名以上。そのうち現在31名がオンライン中。この時間帯の馴染みの女の子に混じって新人も数名いる。既に2ショット中がモモ、あおい、ミサキ、ルル、猫、ナナコ。彼女らは人気があるから、なかなか相手をしてもらえない。運よく一瞬の待機状態に遭遇してチャットできたとしても2ショットに持ち込むまではそれなりのスキルが必要だ。モタついたり、気に入ってもらえなければ、他の奴に持っていかれてしまう。上客になるにはやはり場数を踏むことだ。それなりの労力と時間とお金をかけてはじめていい目がみられる。
11時。約束の時間だ。ASKAはまだ出てこない。ブラウザーの更新ボタンを10秒毎に押す。4回目の画面リロード中に彼女のサムネイルを見つけた。やっぱり時間厳守。すごく生真面目な女の子だ。それでいてどこか物憂げな横顔に神秘な雰囲気を湛えている。こんな女の子、他にいない。絶対どこにもいない。すかさず、ASKAをクリック。チャットモードに突入する。順調!
JIN > Hello ASKA!
ASKA> こんばんは。JINちゃん。
いつもどおりキーボード・チャットからのスタート。JINとはこのサイトに登録したユーザー名だ。
ASKA> また会えてすごく嬉しい。
JIN > ぼくもそうだよ。逢えるのを待ってた
ASKA> いつも待ってもらってありがとう。
濃紺のキャミソールを着た上半身がスクリーンに映っているが、顔は隠れている。胸にはシンプルな造りだが特徴的なデザインのシルバーネックレス。
画質は上々。彼女の白い腕が滑らかに動く。サーバーの調子がいいのだろう。
JIN > ASKA 迷惑じゃない?
ASKA> なにが?
JIN > いつもぼくばかりでさ 他のやつともチャットしたいだろう?
ASKA> ううん。そんなことないよ。JINちゃんがいてくれると思うから安心してログインできる
JIN > ほんと! ムチャクチャ嬉しい
ASKA> (*^.^*)
JIN > 二人になりたい
ASKA> いいよ。ちょっと待って。
2ショットモードに切り替わった。これで他の奴らは割り込んでこられない。
カメラの角度が変わり、ASKAが顔を出した。やや露光オーバーだったが、徐々に自動補正されていく。
「どう? 見える?」
鼻にかかった声がスピーカーから伝わった。彼女は音声モードに切り替わった。
JIN > うん。やっぱりキレイだ、ほんとキレイだ
ASKA> (*^.^*)
きめ細かく透き通るような白い肌。液晶スクリーンからでもその蜜蝋のような感触が伝わってくる。ボリュームのあるブラウンの髪は、一本一本が強くしなやかそうだ。ほぼノーメイク? 唇だけ薄くリップクリームを塗っているのかもしれない。
JIN > カメラを見つめて。
「ううん。なんだか照れくさいよ」
JIN > 頼むよ。お願いだから。
「弱いな。こんな感じでいい?」
ASKAは困惑気味な表情でこちらを見つめている。真正面からだとふたつの瞳はやや寄っているように見える。そのアンバランスさが危なげに見えて、かえって惹かれてしまう。放っておけない感じ。
JIN > ぼくをイメージできる?
「うん。なんとなく」
JIN > どんな風?
「穏やかでやさしい人かな」
JIN > やっぱ、そんな感じか。悪い気はしないけど…
「なあに?」
JIN > ありきたりでパッとしない。
「そう。どんな風に思われたいの?」
JIN > 刺激系のイケメン
他愛のないとりとめない会話がしばらく続いた。
JIN > ASKAの裸がみたい
「JINちゃん、もう。突然過ぎ。もうワンクッション挟んでくれなきゃ。でもJINちゃんの頼みだから聞いてあげる」
彼女はカメラから遠ざかり、全身が映る位置に立つと、丁寧に衣服を脱ぎ全裸になった。恥ずかしそうに乳房を隠そうとする手が愛おしい。女性として理想的な肉体。まさにヴィーナス。様々な性的な要求……相当サディスティックな要求にさえ、彼女は懸命にそして誠実に応えてくれた。そしてASKAは次第に感じ始めた。
横たわった彼女の大腿と臀部がスクリーンいっぱいに映し出されている。
打ち震える肢体から、その息遣いから、彼女は今オーガズムに達しているのだと確信できる。荒い息がマイクに吹き込む。
「ああ、JINちゃん。イッちゃった。今イッちゃったよ。JINちゃんもいけた?」
JIN > ほぼ同時だった 最高 気持ちよかった ありがとう
「わたしも最高によかった。ほんと、気持ちいい」
ASKAは本気で感じてくれて本当にいってしまったのだと思う。彼女は嘘をつかない。
JIN > あのさ 訊いていいかな?
「どうぞ。なんでも訊いて」
彼女の頬は紅く上気していた。両目は更に寄ってしまい、焦点を結んでいない。
JIN > そのネックレスのデザイン 変わってるね 昆虫かな?
「かわいいでしょ」
JIN > 微妙だな
「セミの幼虫なの。素数ゼミの幼虫。北アメリカにいるセミ」
JIN > ソスウって 数学の素数のこと?
「うん。その素数。17年間はじっーと土の中で暮らしているの。誰にも気づかれないように。だけど17年経つと突然地上に大発生して街をパニックにさせちゃうの。交通を乱したり、騒音で人を不眠にしたり、スタジアムを占拠して野球を中断させたりする」
JIN > 17が素数だから素数ゼミか
「13年周期のもいるらしい。どちらも素数でしょ。わたしは17年周期の素数ゼミが好き」
JIN > なぜ?
「4年も永く地中に留まっているじゃない。エネルギーが充分蓄えられるから、その分地上でのご乱交もお盛んなの。オスもメスもやりまくって2週間くらいで果てちゃうのよ」
JIN > 意外! ASKAは乱交好きなんだ
「嫌いじゃないかも。でもそうじゃなくって、短い命を一途に燃やすことに感心しちゃう。だってセミはそうやって命を繋いできたの」
JIN > まあ、そうだろうけど…
「頭の中で想像してみてね。暗くて湿っぽくて音のない穴ぐらでたったひとり、17年間をやり過ごすの。ひたすらその日が来るのを待って。ある日、その輝かしい明日は突然、訪れるの。ほんとうに想像を絶する経験。色鮮やかな光の世界に解き放たれて、それでもって自由の羽根を与えられて、誰彼となくセックスできるのよ。どんな気持ちがすると思う。こんなギャップを味わう生き物、他にいるかな」
JIN > うん 確かに悪くない コペルニクス的転換なんてものの比じゃない
「でしょ。だから素数ゼミが好き。儚くても構わない」
JIN > ぼくも素数ゼミのファンになるよ
JIN > あっ! まさかASKA、17歳?
「さあ。どうでしょう。内緒にしようっと」
JIN > おいおい まずいよ それ
「冗談だってば。心配しないで。JINちゃんは21歳だよね」
JIN > そうだよ
「大学生だよね」
JIN > いちおう ほとんど行ってないけど
「ひきこもり?」
JIN > 自分ではそうじゃないと思ってる たまに大学の授業に出るし コンパにも行く ほとんどはアパートで寝てるけど なんだかパワーが続かないんだ
「JINちゃんは寝たきりさんなんだね。あのね。わたし、実は歴としたひきこもりなの」
彼女は平然を装っていたが、肩が震えていた。
JIN > へぇ そうなんだ そんな風に見えないね
こちらも平然を装う。文字は震えたりしないが、タイピングが微妙にずれる。
「わぁ。カミングアウトしちゃった。イメージ、狂っちゃう?」
JIN > いや そうでもない でも驚いたかな
マイ・ヴィーナスがひきこもり!! 少し混乱。相当混乱。
「そう。なんでこんなこと、言っちゃったのかな。バカだね、わたし」
JIN > 家の中にずっといるの?
「少しだけならなんとか外に出られるけど。でも人と話せない。すごく消耗してしまうの。死んでしまいたくなるくらい」
JIN > ぼくもASKAも少しパワー不足なんだよ 充電が足りない
「どうすれば充電できるの?」
JIN > さあ 寝ていても駄目だな 充電には時間がかかるのさ
「時間ならもうたくさん費やしたと思うの。でも治らない」
JIN > ASKA 今はどうなの? ぼくとこうしてチャットしているとき どんな気分?
「楽しいよ。すごく楽しい」
JIN > ぼくもだ ASKAとこうしている時間だけ 充電されてる
「もしほんとうならメチャクチャ嬉しい」
JIN > このチャット・サイトはバーチャル? それともリアル?
「意味わかんないよ。なにが言いたいの?」
JIN > ASKAもぼくも生きてるよね 二人ともリアルな存在なんだよ 出合った場所はバーチャルだけど
「そうだけど…」
JIN > 会おうよ リアルな場所で
「JINちゃん。それは駄目だよ」
JIN > どうして? 直接会って試してみよう 他の人と同じように消耗してしまうのか それとも今と同じように感じあえるか
「すごく大胆。なんだか怖い」
JIN > ぼくも怖い
「わたし、外に出られない」
JIN > ぼくがASKAの家に行く 途中で引き返してしまうかもしれないけど
「JINちゃん。日が変わってしまう。もうオチるね」
JIN > もし気を悪くしたなら許して また明日会ってくれる?
「うん。じゃあ、おやすみなさい」ASKAはすごく落ち込んで見えた。
JIN > おやすみ ASKA
スクリーンがブラックアウトした。突然のログアウト。急激な孤独。なにか大きく間違った行動だったかもしれない。ASKAと二度と会えないのではないか。胸が痛い。強い焦燥。
なにも手に付かない。なにかしなければ気が変になってしまう。ASKAへのFANメールをクリックし、メッセージを直接打ち込む。
ASKAへ
いまとても落ち込んでいる。あんなこと言ってしまって後悔している。ASKAに会えなくなってしまうのが何より恐ろしい。ASKAを困らせてしまったこと、素直に謝りたい。
ただすごくまじめな気持ちだった。早急すぎたことは認めるけど。
素数ゼミのファンクラブに入会したばかりだけど、少し文句を言わせてほしい。
素数ゼミとぼくらとは、本当のところやっぱり違う。だって奴らは地中での17年間、ただの一度も孤独だったことはない。無数のトンネルを掘ってお互いに行き来しあい、よろしくやっている。だからセミになったときやりまくれるのさ。ASKAはこの重要な点を見落としているよ。
とても弁明になってないけど、ASKAを失いたくない。明日も逢いたい。どうしても。
BY JIN
送信ボタンを押したがますます焦燥が募った。さらにくだらないことを書いてしまった。しかし意外なことにASKAからの返信が即座に届いた。
JINちゃん
ファンメールをありがとう。それから謝らないで。JINちゃんが悪いとは思ってないから。
少しパニックってしまってオンラインでいられなくなってしまいました。ごめんなさい。でももう大丈夫。JINちゃんのいう通り、直接会いたい気持ちは、わたしの中にもあります。だってJINちゃんを充電してあげなくちゃね。でもしばらくヴィーナスにログインしません。だから明日は会えません。
その代わりといっては変だけど携帯のメアドをお知らせします。これからもどうぞよろしくお願いします。 ASKA
P.S. 素数ゼミの話、ホント? もしそうならますます好きになっちゃいます。
明日からASKAとチャットできない。それは痛い。でもメアドをゲットした。これって後退のようで進歩なのだろうか? 焦燥感は消えたがやっぱり途方にくれてしまう。
永く浅い不連続な眠り。不機嫌で容赦のない眠り。日中はほとんど眠っている。意味のない、記憶に残らない夢を見たという記憶。のどの渇きと空腹。怠惰と無気力。一抹の罪悪感と漠然とした焦り。いつもの共通した感覚だ。狭いアパートにここからの出口は見当たらない。
目覚ましのセットをはずし、部屋の灯りをつけ、覚悟を決めてベッドから這い上がる。冷蔵庫のミネラルウォーターを流し込む。自律神経が活動を開始。シャワーを浴びると皮膚の瑞々しい感覚が甦った。あと10分。
買い置きのコンビニおにぎり。ひとつはイクラ、もうひとつはツナマヨ。ろくに噛まず飲み込むように、残った水で流し込む。
換気を終えると準備完了。あと5分。テンションもあがり始めた。落ち込んだ気分ではうまくいかない。短くてもテンションを保て! 頭を回転させろ!
机のマウスをつかむとPCのスクリーンセーバーが止まり、デスクトップが現れる。ブラウザーアイコンをダブルクリック。
意味ありげなFLASHが走る。「ようこそヴィーナス・オンステージへ」
ブラウザーを起動すればこのサイトにアクセスする設定になっている。
サイトのトップページにオンライン中のヴィーナスたち、つまりチャットレディーがサムネイルで表示されている。素顔をカミングアウトしている子もいるが、ほとんどは上半身やボディ・パーツなどをサムネイルに利用している。
彼女らは自宅やアパート、場合によっては学生寮や勤務先のオフィスからブロードバンド回線でここのサーバーにアクセスしている。動画カメラは必携。ほとんどマイクも備えている。
このサイトにヴィーナスとして登録している女の子はサイトの報告を信じるなら2000名以上。そのうち現在31名がオンライン中。この時間帯の馴染みの女の子に混じって新人も数名いる。既に2ショット中がモモ、あおい、ミサキ、ルル、猫、ナナコ。彼女らは人気があるから、なかなか相手をしてもらえない。運よく一瞬の待機状態に遭遇してチャットできたとしても2ショットに持ち込むまではそれなりのスキルが必要だ。モタついたり、気に入ってもらえなければ、他の奴に持っていかれてしまう。上客になるにはやはり場数を踏むことだ。それなりの労力と時間とお金をかけてはじめていい目がみられる。
11時。約束の時間だ。ASKAはまだ出てこない。ブラウザーの更新ボタンを10秒毎に押す。4回目の画面リロード中に彼女のサムネイルを見つけた。やっぱり時間厳守。すごく生真面目な女の子だ。それでいてどこか物憂げな横顔に神秘な雰囲気を湛えている。こんな女の子、他にいない。絶対どこにもいない。すかさず、ASKAをクリック。チャットモードに突入する。順調!
JIN > Hello ASKA!
ASKA> こんばんは。JINちゃん。
いつもどおりキーボード・チャットからのスタート。JINとはこのサイトに登録したユーザー名だ。
ASKA> また会えてすごく嬉しい。
JIN > ぼくもそうだよ。逢えるのを待ってた
ASKA> いつも待ってもらってありがとう。
濃紺のキャミソールを着た上半身がスクリーンに映っているが、顔は隠れている。胸にはシンプルな造りだが特徴的なデザインのシルバーネックレス。
画質は上々。彼女の白い腕が滑らかに動く。サーバーの調子がいいのだろう。
JIN > ASKA 迷惑じゃない?
ASKA> なにが?
JIN > いつもぼくばかりでさ 他のやつともチャットしたいだろう?
ASKA> ううん。そんなことないよ。JINちゃんがいてくれると思うから安心してログインできる
JIN > ほんと! ムチャクチャ嬉しい
ASKA> (*^.^*)
JIN > 二人になりたい
ASKA> いいよ。ちょっと待って。
2ショットモードに切り替わった。これで他の奴らは割り込んでこられない。
カメラの角度が変わり、ASKAが顔を出した。やや露光オーバーだったが、徐々に自動補正されていく。
「どう? 見える?」
鼻にかかった声がスピーカーから伝わった。彼女は音声モードに切り替わった。
JIN > うん。やっぱりキレイだ、ほんとキレイだ
ASKA> (*^.^*)
きめ細かく透き通るような白い肌。液晶スクリーンからでもその蜜蝋のような感触が伝わってくる。ボリュームのあるブラウンの髪は、一本一本が強くしなやかそうだ。ほぼノーメイク? 唇だけ薄くリップクリームを塗っているのかもしれない。
JIN > カメラを見つめて。
「ううん。なんだか照れくさいよ」
JIN > 頼むよ。お願いだから。
「弱いな。こんな感じでいい?」
ASKAは困惑気味な表情でこちらを見つめている。真正面からだとふたつの瞳はやや寄っているように見える。そのアンバランスさが危なげに見えて、かえって惹かれてしまう。放っておけない感じ。
JIN > ぼくをイメージできる?
「うん。なんとなく」
JIN > どんな風?
「穏やかでやさしい人かな」
JIN > やっぱ、そんな感じか。悪い気はしないけど…
「なあに?」
JIN > ありきたりでパッとしない。
「そう。どんな風に思われたいの?」
JIN > 刺激系のイケメン
他愛のないとりとめない会話がしばらく続いた。
JIN > ASKAの裸がみたい
「JINちゃん、もう。突然過ぎ。もうワンクッション挟んでくれなきゃ。でもJINちゃんの頼みだから聞いてあげる」
彼女はカメラから遠ざかり、全身が映る位置に立つと、丁寧に衣服を脱ぎ全裸になった。恥ずかしそうに乳房を隠そうとする手が愛おしい。女性として理想的な肉体。まさにヴィーナス。様々な性的な要求……相当サディスティックな要求にさえ、彼女は懸命にそして誠実に応えてくれた。そしてASKAは次第に感じ始めた。
横たわった彼女の大腿と臀部がスクリーンいっぱいに映し出されている。
打ち震える肢体から、その息遣いから、彼女は今オーガズムに達しているのだと確信できる。荒い息がマイクに吹き込む。
「ああ、JINちゃん。イッちゃった。今イッちゃったよ。JINちゃんもいけた?」
JIN > ほぼ同時だった 最高 気持ちよかった ありがとう
「わたしも最高によかった。ほんと、気持ちいい」
ASKAは本気で感じてくれて本当にいってしまったのだと思う。彼女は嘘をつかない。
JIN > あのさ 訊いていいかな?
「どうぞ。なんでも訊いて」
彼女の頬は紅く上気していた。両目は更に寄ってしまい、焦点を結んでいない。
JIN > そのネックレスのデザイン 変わってるね 昆虫かな?
「かわいいでしょ」
JIN > 微妙だな
「セミの幼虫なの。素数ゼミの幼虫。北アメリカにいるセミ」
JIN > ソスウって 数学の素数のこと?
「うん。その素数。17年間はじっーと土の中で暮らしているの。誰にも気づかれないように。だけど17年経つと突然地上に大発生して街をパニックにさせちゃうの。交通を乱したり、騒音で人を不眠にしたり、スタジアムを占拠して野球を中断させたりする」
JIN > 17が素数だから素数ゼミか
「13年周期のもいるらしい。どちらも素数でしょ。わたしは17年周期の素数ゼミが好き」
JIN > なぜ?
「4年も永く地中に留まっているじゃない。エネルギーが充分蓄えられるから、その分地上でのご乱交もお盛んなの。オスもメスもやりまくって2週間くらいで果てちゃうのよ」
JIN > 意外! ASKAは乱交好きなんだ
「嫌いじゃないかも。でもそうじゃなくって、短い命を一途に燃やすことに感心しちゃう。だってセミはそうやって命を繋いできたの」
JIN > まあ、そうだろうけど…
「頭の中で想像してみてね。暗くて湿っぽくて音のない穴ぐらでたったひとり、17年間をやり過ごすの。ひたすらその日が来るのを待って。ある日、その輝かしい明日は突然、訪れるの。ほんとうに想像を絶する経験。色鮮やかな光の世界に解き放たれて、それでもって自由の羽根を与えられて、誰彼となくセックスできるのよ。どんな気持ちがすると思う。こんなギャップを味わう生き物、他にいるかな」
JIN > うん 確かに悪くない コペルニクス的転換なんてものの比じゃない
「でしょ。だから素数ゼミが好き。儚くても構わない」
JIN > ぼくも素数ゼミのファンになるよ
JIN > あっ! まさかASKA、17歳?
「さあ。どうでしょう。内緒にしようっと」
JIN > おいおい まずいよ それ
「冗談だってば。心配しないで。JINちゃんは21歳だよね」
JIN > そうだよ
「大学生だよね」
JIN > いちおう ほとんど行ってないけど
「ひきこもり?」
JIN > 自分ではそうじゃないと思ってる たまに大学の授業に出るし コンパにも行く ほとんどはアパートで寝てるけど なんだかパワーが続かないんだ
「JINちゃんは寝たきりさんなんだね。あのね。わたし、実は歴としたひきこもりなの」
彼女は平然を装っていたが、肩が震えていた。
JIN > へぇ そうなんだ そんな風に見えないね
こちらも平然を装う。文字は震えたりしないが、タイピングが微妙にずれる。
「わぁ。カミングアウトしちゃった。イメージ、狂っちゃう?」
JIN > いや そうでもない でも驚いたかな
マイ・ヴィーナスがひきこもり!! 少し混乱。相当混乱。
「そう。なんでこんなこと、言っちゃったのかな。バカだね、わたし」
JIN > 家の中にずっといるの?
「少しだけならなんとか外に出られるけど。でも人と話せない。すごく消耗してしまうの。死んでしまいたくなるくらい」
JIN > ぼくもASKAも少しパワー不足なんだよ 充電が足りない
「どうすれば充電できるの?」
JIN > さあ 寝ていても駄目だな 充電には時間がかかるのさ
「時間ならもうたくさん費やしたと思うの。でも治らない」
JIN > ASKA 今はどうなの? ぼくとこうしてチャットしているとき どんな気分?
「楽しいよ。すごく楽しい」
JIN > ぼくもだ ASKAとこうしている時間だけ 充電されてる
「もしほんとうならメチャクチャ嬉しい」
JIN > このチャット・サイトはバーチャル? それともリアル?
「意味わかんないよ。なにが言いたいの?」
JIN > ASKAもぼくも生きてるよね 二人ともリアルな存在なんだよ 出合った場所はバーチャルだけど
「そうだけど…」
JIN > 会おうよ リアルな場所で
「JINちゃん。それは駄目だよ」
JIN > どうして? 直接会って試してみよう 他の人と同じように消耗してしまうのか それとも今と同じように感じあえるか
「すごく大胆。なんだか怖い」
JIN > ぼくも怖い
「わたし、外に出られない」
JIN > ぼくがASKAの家に行く 途中で引き返してしまうかもしれないけど
「JINちゃん。日が変わってしまう。もうオチるね」
JIN > もし気を悪くしたなら許して また明日会ってくれる?
「うん。じゃあ、おやすみなさい」ASKAはすごく落ち込んで見えた。
JIN > おやすみ ASKA
スクリーンがブラックアウトした。突然のログアウト。急激な孤独。なにか大きく間違った行動だったかもしれない。ASKAと二度と会えないのではないか。胸が痛い。強い焦燥。
なにも手に付かない。なにかしなければ気が変になってしまう。ASKAへのFANメールをクリックし、メッセージを直接打ち込む。
ASKAへ
いまとても落ち込んでいる。あんなこと言ってしまって後悔している。ASKAに会えなくなってしまうのが何より恐ろしい。ASKAを困らせてしまったこと、素直に謝りたい。
ただすごくまじめな気持ちだった。早急すぎたことは認めるけど。
素数ゼミのファンクラブに入会したばかりだけど、少し文句を言わせてほしい。
素数ゼミとぼくらとは、本当のところやっぱり違う。だって奴らは地中での17年間、ただの一度も孤独だったことはない。無数のトンネルを掘ってお互いに行き来しあい、よろしくやっている。だからセミになったときやりまくれるのさ。ASKAはこの重要な点を見落としているよ。
とても弁明になってないけど、ASKAを失いたくない。明日も逢いたい。どうしても。
BY JIN
送信ボタンを押したがますます焦燥が募った。さらにくだらないことを書いてしまった。しかし意外なことにASKAからの返信が即座に届いた。
JINちゃん
ファンメールをありがとう。それから謝らないで。JINちゃんが悪いとは思ってないから。
少しパニックってしまってオンラインでいられなくなってしまいました。ごめんなさい。でももう大丈夫。JINちゃんのいう通り、直接会いたい気持ちは、わたしの中にもあります。だってJINちゃんを充電してあげなくちゃね。でもしばらくヴィーナスにログインしません。だから明日は会えません。
その代わりといっては変だけど携帯のメアドをお知らせします。これからもどうぞよろしくお願いします。 ASKA
P.S. 素数ゼミの話、ホント? もしそうならますます好きになっちゃいます。
明日からASKAとチャットできない。それは痛い。でもメアドをゲットした。これって後退のようで進歩なのだろうか? 焦燥感は消えたがやっぱり途方にくれてしまう。
