かつてニュウファウンランド島のヒルティ村で行われ、幻想の内に壊れたビヂテリアン大祭に敬愛を込めて・・。これは架空の所信表明演説の台本です。
フード社会主義、この風変わりな言葉をお聞きして皆様方はどの様な印象をお持ちになったでしょうか。フードは食(FOOD)であり、風土でもあります。食の問題は我々にとって不可欠で最も重要な問題であります。社会主義と聞くと、歴史上に存在してきた人々の自由を奪う社会体制を想像してしまうでしょうが、これは強制のない社会契約を意味しています。基本的に人々の自由を尊重する考え方であります。
まず始めにこの思想の背景ですが、その中心となるのは幸福論であります。これは個々人の幸福のあり方を規定するものではありません。人それぞれに歩む道は多様にあり、それぞれの道を通じて人は心の調和を目指していると思われるからです。ただその難題に各々が立ち向かう為だけに、基盤となる社会的幸福が実現されなくてはならないと私達は考えます。
社会的幸福の目指すものは人間同士の調和、人間と自然との調和であり、これがあらゆる社会活動やテクノロジーの倫理となります。しかし、その倫理を立ち上げるのに、従来のヒューマニズムやエコロジーでない新しい調和のための道具を現代の人間はまだ持ち得ていないように思われます。おそらくは人間の認識を「客観」に開いていく実践が必要なのではないかという事で私達は農業という活動を再認識したいと考えます。
自然なるもの(環境である自然と人間の心の自然)を去勢し、コントロールしたうえで、人間の思考の内部領域におけるエコノミーやコミュニケーションが、人間を表象と商品の世界に閉じ込める、近代的思考のなれの果てがこの世界の非対称と閉塞感であり、これは豊かさというものを歪曲して社会を形成してきた結果の姿なのだと言えるでしょう。もはや私的利害のぶつかり合いでしかない資本主義の本性がむき出しになった世界で私達は経済戦争の戦略的な夢を描き続ける事が社会的幸福だとはたして言えるのでしょうか。
私達は合理的な思考能力とともに、世界を矛盾のままに捉える全体直感的な認識も持ち合わせています。そしてその非合理な矛盾のうちに私達は何ものにも去勢されない豊かな何かを直感しています。これは私達と生物構造的に変わらない古代の人間から、芸術や宗教のように表現され続けてきた事ですが、この認識はどこからやってくるのでしょうか。
それを私達は思考の外部領域と考えます。あらゆる表象の外側にある底なしの「客観」の世界です。その外部領域とのエコノミーやコミュニケーションを通じて、人間は倫理と調和を持った社会を形成できるのではないかと私達は考えます。
だから農業なのです。それは近代農業ではなく、「人類の、楽しい仕事」(ロバート・オーエン)としての農業です。農業は人間と自然の共同作業であり、人間には自然に対して細やかな配慮が必要とされます。人間は自然に労働を通じて語りかけ、自然はそれに応えて作物と共に人間に謙虚さや深い倫理を贈り返すことでしょう。そしてその謙虚さと倫理を持って、人間は合理と非合理の調和した相互扶助的な社会を創造するだろうというのが私達の思想であります。個人と公共、人間と自然との間に法だけによらない中間領域の創出としての農業、これは新たなる共同体との社会契約、里山的風景とテクノロジーが結びついた新たなる自然契約、食の直接性の取り戻しを目指すものであります。
以上が思想的背景でありますが、大雑把に言いますと、農業を労働の奴隷的状況から解放して私達の有志者皆で半農民となり、生存の基盤となる最低限の安全な食に市場通貨を媒介させないという目的のために私達は三つの具体案を掲げます。それを私達は修農制と修農成人式、そして農業参加契約制度と仮に名付けました。
これまで述べた思想の実践を、もはや意味を失いつつある成人式の新たなる通過儀礼として表現する為に、まず修農制、そして修農成人式を掲げます。これは所属する共同体の風土にもよりますが、基本的には現代の日本人の食の支柱である米作りに従事して素朴な農村生活を送り、最後に収穫祭(この司祭としてかつての「稲の王」としての天皇が望ましいと私達は考えます)を経て成人とみなされるというものであります。通過儀礼において、人間は理性的な社会秩序からいったん引き剥がされ、大いなる存在に飲み込まれて小さな個体性の幻想を破壊され、自らの中心に大いなる存在とのつながりを抱えて社会に再生する事によって、本当に意味のある生を歩む大人になるというのが古代的社会における実存哲学なのであります。これまでの成人式と同様に強制ではありませんが、これは日本人の客観認識を、形而上学的にではなく身体的な実践を通じて取り戻してみようという試みであります。
そして農業参加契約制度でありますが、これは修農制を経た成人を中核に、各々の所属する自治共同体において、個々人の自由な活動の大きな妨げにならない程度の作業の負担の代償として、共同体内の全ての人(契約といっても労働の不可能な人々も包摂する自発性を重んじる「ゆるい」共同体です)が、最低限の安全な食材、あるいは健康的な食事の提供を受けられるものであります。私達は、大食堂と農産物広場と大浴場が一体化した様な施設をイメージしています。さらには里山的風景に基づく住居の提供や無償診療所の設立など、生存に関わる最低限の事には市場通貨を媒介させない保護領域を創出し、その上で個々人の本来の才覚による自由な活動を推奨する、安心をベースにした新しい市場経済を目指すものであります。
古代的社会を生きる人達は、宇宙的なバランス、調和を最重視して彼らの文化様式を慎重に守り、無思想な文明には進まないという選択をした為に、文明世界に圧倒されてしまうという美しくとも悲しい歴史を歩んできました。私達は宇宙の根元を追求して人間の意識を裸にしていく文明を進みながらも、全体が調和している様な新しい方法を模索しなくてはなりません。その為にはまず、格差や寡占化を生み出すこれまでの資本主義のネガティブな側面に自由の風を吹き込む必要があると私達は考えます。
また、私達は外交に関して、独立すべきものと開くものとの線引きが重要だと考えます。独立すべきは生存保障に関わるものです。そしてそこに日本人が腑に落ちる思想がしっかりと根を下ろしている事が重要なのであります。日本人が固有の社会的幸福を目指して生きている事が、民族を超えた調和の智恵を世界に発信していく事だと私達は考えるからです。
風土に見合った食(FOOD)が工夫されて提供される公共の場を持つという事がいかに多くの問題を根元的に変えていくのか、想像に難くありません。それは日本人のメンタリティーに寛容とユーモアの精神を取り戻し、強張った世界における闘争ならぬ逃走を試みさせる事でしょう。そして慎ましく熱を帯びたその宗教性は宗教の枠組みを超え、生活芸術として昇華されるのであります。日本人はプリミティブな智恵を持って、はるかなる過去とはるかなる未来の夢を紡いでいく高貴な精神をまだ完全には失ってはいないだろうと私達は信じています。
どうもご静聴ありがとうございました。
これで演説は終了のようです。もうすぐ長かった夜も明けそうです。月光に包まれた優しい空間のように、か弱き幻想は陽光にかき消されてしまうのです。ではまたの夜にお逢いするとしましょう。