世阿弥ーぜあみ | 閑話休題

 世阿弥ーぜあみ

 私は日本の芸術家のなかで、最高と認めるのは世阿弥である。

 父の観阿弥は鎌倉幕府が倒壊した年1333生まれで、飛鳥の山田寺の猿楽師であったがー、当時大和で一番勢力のあった興福寺の猿楽に参加するため、大和国内で一番勢力のあった興福寺の猿楽に参加するため、大和国結崎の有力寺結崎寺ゆうざきてらーに鞍替えして来た。27歳の時である。その2年後の貞治2年ー1363ー結崎の寺川の河原小屋で鬼夜叉ー後の世阿弥が生まれた。

 父の観阿弥もすぐれた能楽師であった。それまでの滑稽な笑わせる物真似的な猿楽から、古今の書を読んで時流に合った新曲をつくり、舞でも「天女の舞」「女曲舞-おんなくせまいーを取り入れ、新しい猿楽の想像に情熱を燃やし、次第に好評を博して行く。

 

 そして息子の鬼夜叉が世に出たキッカケは、僅か12歳の時<、京都今熊野で18歳の将軍足利義満の前で猿楽を舞い、絶賛を浴びてからであった。爾来義満の小姓として伺候し、義満の死ぬまでの30年間、能楽師として観世の能楽を完成させている。

 私が感心するのは、彼は生れが貧困だったのに、華美豪奢な室町の生活に流されず、ひたすら王朝文化の「みやび」と、室町時代から培われて来た「わび」「さび」の精神文化の粋を、新しい能楽の創造に取り入れたことであった。彼の美意識は「幽玄」であった。 

 世阿弥の言う幽玄とは、一子相伝の『風姿花伝書」によれば,「花やかなる色香」を指し、女舞=「鬘もの」にそれを求めた。特に老女ものに[凋める花の色なうて匂い残る」舞を最高とし、その頂点は「関寺小町」であるとされているが、演ずる人は少ない。

 

 世阿弥は義満が死んだ後は悲惨で、四代将軍義持に室町幕府から遠蹴られている。恐らく世阿弥が義満の小姓として、夜の席に侍り男色関係にあったことが、義持が毛嫌いした理由ではなかろうか。更に71歳の老境になってから、六代将軍義教により佐渡島に遠島されている。これも理由がはっきりしないが、恐らく義教が可愛がってた、世阿弥の養子音阿弥に、一子相伝の「風姿花伝書」を見せなかったことを聞き、義教の逆鱗に触れたことが原因だと想像できる。2年後には許されて大和に帰り、最後の余生を送った。

 

  世阿弥は能の世界において、舞と謡曲の新作つくりの不世出の天才であった。だだ一生の間に栄華とどん底を経験した者は他にあるまい。ただ「風姿花伝書」が遺されいてたことは、日本文化史にとってかけがえのない遺産となっている。

 

   

 

  世阿弥の生まれた大和結崎の碑     最高の老女舞「関寺小町」