たけしの日本教育白書2006 」を夜11時頃から見ました。

石原都知事&久米宏のコーナーでしたが、その前半は「&」じゃなくって「VS.」だった。それで、なかなかおもしろいじゃん、と見始めた。

久米宏が石原の顔を見るのもイヤ、といえば、石原が久米をさして(かつてニュース番組で)この人は専制君主をやっていた、と応酬。

久米が石原に、戦争前の緊張のある時代に戻ればよいというようなところが嫌いだといえば、石原は、そんなことは言ってない、と。そぉぉなんですか、石原さん(x_x)☆\(-_-メ)バキ

しかし、後半、石原の三男(良純サン、なんか好きですが)と四男を登場させたあたりから、腰くだけ。

これからの日本で必要なのは(石原のような?)父親の姿とかなんとか久米宏が言って、最後はシャンシャンと丸く収ま(め)る。議論のマナーが悪くても、司会が専制君主でも、やっぱり「朝まで生テレビ」か?w


そのあとは、全国の学校で採用されなかった大阪書籍「小学6年 国語」にある司馬遼太郎の「21世紀に生きる君たちへ」(いかにも司馬さんの文章>アタリマエ)を、課外授業で18時間やった先生と、20代半ばになった元生徒たちの「いま」を取材。


 二十一世紀に生きる君たちへ

装丁や本文デザインをやった知人からいただいて、書棚にあった。

この単行本は、写真を使った絵本のようになっている。

表題作以外に、小学5年生用に書き下ろされたらしい「洪庵のたいまつ」も掲載されている。

今夜のテレビで、司馬さんは表題作のために(大人の)単行本1冊分の時間を費やした、と紹介されていた。


この文章の中にある、やさしさ・おもいやり・・・は、絶対に間違ってはいない、と思う。

しかし、mixiなんかでは、議論にも歯止めがかかる教育関係のコミュもあったりして(管理人や投稿者が「みんな仲良く」とやるのです。ニフティのバトルを見てきた私にはアホらしくて、1週間ほどでウォッチングをやめましたが)、軽いやさしさとおもいやり、みんな仲良くシャンシャンシャンが蔓延してるなぁ、と思うのだった。それで、軽いやさしさとおもいやりをもってない人は無視しましょうってかw 

中途半端な仲良しごっこがイジメを作るという構造がわからんような優しさなんかイラン、と思うのですが、私は。



話がそれました。

石原VS久米が最後にシャンシャンになったわけだけど、太田光がもっと発言してたら、カレはずっと石原に喰らいついたままだったような気がしました。

たけしの最後の言葉、「悲しいという自分を上のほうから見るもう一人の自分をもとう」(主旨)とか、「死ぬことは選べるけど、生きることは選べない」(選べないことをやっていこう、という主旨の言葉が続いたと思う)とか、超まっとうでございます。ひょっとしたら、司馬さんのやさしさと思いやり、より?

お笑いから出た人たちのこのまっとうさは、現代の何を象徴しているのか、あるいはお笑いのもつどんな特性によるものなのかと、ミョーな疑問をもった今夜でありました。



で、考察いたしましたw

とくにイジメが問題になって以来、学校教育は「思いやりをもちましょう。仲良くしましょう」と、お題目のように唱えるばかりだった(今夜の小学校の先生は例外中の例外でしょう)。そういう教育を受けた多数の生徒たちのその後が、mixiで実証されてると思う。

反対に、教育や大人のうわっつらを直観的にわかって、「思いやりってなんだよぉ」「けっ、仲良くすりゃ、それでいいのかよ」と思う感性をもつ子供の中には、先生の言葉を鵜呑みにする生徒より「思いやり・やさしさ・仲良く」について気持ちがふくらんだ子供がいたんだろう。その気持ちのふくらみは、2ちゃんねる方向になることもあると思うが、太田光やたけしはその中で、お笑いという芸で自分を鍛えた人たちなのかなと思ったのでした。

お笑いの特性と彼らの思考の関係については、まだわかりませぇん。


蛇足だすが、mixiの会員は2ちゃんねる方向に流れることを極端に警戒してるんだと思うが、どっちもどっち。みんな仲良く、はどんなにうわっつらでも道徳的に非難されないから、これもタチが悪いんじゃないですかぁ。