武士は食わねどなんとやら

武士は食わねどなんとやら

お酒大好き、ラーメン大好き、甘い物大好き、間食、寝る前、何でもござれの歪んだ食生活で30年間過ごしてきた不健康男が、健康食品会社への転職をきっかけに、少しずつ健康な生活へとスライドしようと頑張っていく、その過程を報告していければと思います。

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滋賀県大津市のイジメによる自殺が話題、というより社会問題となっています。亡くなられた子供のご両親からの訴えに対し、市は「イジメと自殺との因果関係は認められない」と一度は発言したそうですが、その後、因果関係を認め、更に事実の追求に動き出しているという事だそうです。

なんともやりきれない気持ちになるニュースです。

まずは、イジメがあったという事実。いや、イジメがあったという事実に関してよりも、そのイジメの内容にショックを受けました。テレビやネットで散々報道されているのでここでは具体的な内容は書きませんが、耳を疑うような内容ばかりです。誰であっても、多かれ少なかれ、また大小はあれど、イジメに接した事はあるはずです。それは、加害者、被害者、傍観者、または苛められている子供を助けてあげるような形も含めて、という意味ですが。それでも今回のような酷いケースは、もの凄く稀なのではないでしょうか。

そして、もう1つ。学校側や市が、徹底的にイジメの事実を隠蔽しようとしていた事に対するやりきれなさです。学校側には点数のようなものがあり、イジメによる自殺などの事件が起こった場合、原点なのか加点なのか、それがある基準値を超えた場合に廃校になってしまうという話を聞いた事があります。では学校側は、廃校を恐れて隠蔽しようとしたのでしょうか?きっとそういう事もあるのでしょうが、学校が廃校になった所で、他の学校に配属されるだけでしょうから、そんなに重要視はしてなかったでしょうね。きっと、誰もが自分可愛さに真実を隠そうとしたのだと私は思います。とても簡単な話ですが、人は都合が悪くなると嘘をついてしまうものです。今回の事件が起こる前に、苛められていた少年は、学校に電話をして苛めの事実を泣きながら伝えたという事も分かっているそうですし、実際に現場に居合わせた先生が「ほどほどにしろよ」くらいの注意で済ませてしまったという事実もあるようです。そんな事が表沙汰に出てしまったら、もう教師としては生きていけませんね。

で、そういう事があった上での「因果関係は認められない」発言だった事に、私は珍しく非常に怒ってます。「苛めた側の子供達にも人権があるから」なんて言い訳もしたようですが、自分達の監督不行き届きで1人の子供を死なせてしまった上に、また子供を盾に保守に入ろうという根性が気に入りません。苛められていた子供が自殺をしたら、自殺の原因なんて間違い無くイジメです。少なくとも、無関係な訳がありません。それを「因果関係は認められない」と、どの面下げて言っているのか。自分の息子や娘がイジメを苦に自殺をしたとしても「因果関係は認められないから、今回はしょうがないや」と思えるのでしょうか?そんな訳ありませんね。この人達は、そこまで理解していながら、被害者の両親から目を逸らして、そんなふざけた発言をしているんです。

教師も市長も人間ですし、間違いはあります。ですがイジメが発生してしまったのは教師のせいでも市長のせいでもありません。間違ってしまったのは、イジメを認知した後の事であり、その先は絶対に間違えてはいけない所です。

イジメは起こります。軽度の物も含めれば、絶対に無くなりません。でも、悪質なイジメを減らす事はできます。自殺を無くす事はできます。今回も、イジメには教師側は気付いていたのですから。国語や算数を教えるのも重要ですが、本当の教育とは道徳教育だと私は考えています。それは、何も道徳の授業を中心にやった方が良いという意味ではなく、普段の授業、休み時間、休職時間、ホームルーム、放課後に、真摯に、愛情を持って生徒と過ごした時間が、道徳として生徒達の心に残っていくのだと思うのです。「ほどほどにしろよ」と伝えて、あとは知らんぷりしてしまった教師が、子供達に愛情を持って接していたとは思えません。その時にしっかりと叱って、しっかりと慰める事ができていれば、今回の事件は起こらなかったかもしれないのです。これが日常なら、誰も安心して子供を学校なんかに預けられなくなりますよね。

これはもちろん教師だけの話ではなく、両親からの教育も当然必要です。というより、本来はそっちがメインです。学校の先生が、自分を産んで育ててくれた両親以上に子供に影響を与えるなんて事は考えられません。本当かどうかは分かりませんが、今回の事件の主犯格の少年の母親は、学校の前で「うちの息子が被害者です」と書いたビラを配ったとか配らないとか。事実なら、バカも休み休み言えという感じです。子供が、他人の気持ちを考えずに自殺にまで追い込むほどのイジメをするようになってしまったのは、ほとんどは親の責任と言って良いと思います。家では良い子なの、なんて言っても、外での顔まで気付かなかったのが悪いです。この親にしてこの子ありってやつです。

そもそも、市も、学校も、いじめっ子も、その親も、想像力がありません。こんな事実はいくら隠したってばれます。ちょっと考えれば分かります。いじめっ子には、苛められている子供の気持ちを想像する力がありません。で、そのビラ撒き親に至っては、もう何だかよく分かりません。およそこちらが理解できる思考回路とは思えません。もしこの人達に人並みの良心と想像力(あるいは想像しようとする力)があれば、少しは結果が変わっていたのかと思うと、本当に本当に、やりきれない気持ちになってしまうのです。

ともあれ、やはり個人的に一番許せないのは、いじめっ子の連中です。今は頭の悪いただのバカガキなので何を言われても分からないでしょうが、もう少し善悪の区別がつくようになったら、事の重大さをかみ締めて、一生後悔しながら、一生罪を背負って、一生日の目を見る事無く生きていってほしいと私は思ってしまいます。心が狭いので。

そんじゃまた。
会社の先輩がよく話してくれる私が好きな言葉に「言葉は人を作る」というものがあります。意味は読んで字の如く、「自分の発する言葉が、その人自身を形成する」という意味です。

私は今の会社に入るまでは、あまり「言葉自体」に注意を払って人と話をした事がありませんでした。もちろん上司や先輩にはそれなりに丁寧な言葉を使うように気を付けてはいましたが、例えば単語の選択にまで意識していた訳ではありません。友人や後輩に対しては、本当に何も考えず話をしていました。その為、それまでの自分が人様に対してどの様な言葉を使って話し、どの様な印象を持たれていたのかは分かりません。きっと、時には正しく、時には間違った、平均的な若者の言葉を使っていたのだと思います。

先日、都内のとあるラーメン屋のカウンターで食事をしていると、隣に座る大学生カップルの会話が耳に入ってきました。盗み聞きするつもりも無かったので詳しい話は分からなかったのですが、どうやら彼氏の授業なのかバイトなのかが想定外の連休になったらしく、それを聞いた彼女が「えー。いいなー。クソ羨ましい」と言っていました。「すごく羨ましい」ではなく「“クソ”羨ましい」です。びっくりして思わずチラッと横顔を見てしまったのですが、すごく綺麗で清楚な印象の女の子でした。そのギャップが面白く、言葉遣いが余計に気になり、いよいよ本格的に盗み聞きをし始めました。(おい)

その後も、店内のBGMで古い曲が流れると「この曲、クソ懐かしくない?」埼玉県について話が及ぶと「埼玉、クソ遠くね?」と、お気に入りの副詞(?)を繰り返す彼女。もう口癖なんでしょうね。きっと無意識に使っているのだと思います。友達との間で真似して使っているうちに口癖になったのか、彼女発信で流行らせようとしているのか、あるいはワンピースのサンジの影響を受けているのか。何にせよ、あまり良い言葉とは思えません。ましてや“食事中”です。あと本筋とは関係ないですが、埼玉近いじゃん(笑)一方、彼氏の方の言葉遣いはさほど気になりません。男女の程度の差こそあれ、比較的綺麗な言葉を使っていたと思います。

私が考えてしまうのは、彼女は、彼氏から、あるいは周りの人達から、一体どう思われたいのだろうか、という事です。もちろんどう思われようと私の知る事ではありませんが、個人的な意見としては、はっきり言ってせっかくの美貌が台無しです。まあこんな言い方をすると、じゃあ可愛くなかったら汚い言葉でも良いのか、とか、セクハラよ!最低!と思われそうですが、そういう意味ではもちろんなく。老若男女、カッコマンだろうがかわい子ちゃんだろうがブサイクちゃんだろうが、自分が発する言葉に注意する事で、周囲の人への影響、周囲の人からの見られ方がガラっと変わるという事を言いたいのです。

人は、誰からも良く見られたいものです。だからお金をかけて髪を切りに行って、服を買って、化粧をして、ダイエットするのです。世の中に自分1人しか居なかったら、きっと誰も見た目なんて気にしません。結局、社会に生きるには、人と接しない事には成り立たないので、より良い関係を築く為に努力をするのです。言葉も同じです。しかも、言葉に気をつけるという事は、今すぐに、お金をかけずに始められる事です。それをしないという事は、とても勿体無い事だと思うのです。

もちろん私自信、まだまだ若者を気取っていますので、古い友人と会うと汚い言葉を使ってしまう事もあります。でも普段からできるだけ丁寧な言葉遣いに心がけたり、「おはよう」「こんにちは」「ありがとう」「ごめんなさい」という単語をちゃんと言うように気を付けているうちに、当たり前のように言える言葉が増えてきたような気がします。それまでは、周りの人からの見られ方、周りの人への印象を考えて矯正していったものが、今は自分のスペックになっていると実感できています。また、これまでの自分を振り返ると、都合の悪い事はオブラートに包んだり嘘をついたりして人に話してしまう事もあったのですが、一度話してしまった嘘は、次に話す時にはまるで本当の事のように上手に話せるようになっています。「言葉は人を作る」の意味が少し分かった気がしました。

では正しい言葉遣いとはどういうものなのでしょうか?
言葉は生き物です。毎日のように新しい言葉が生まれては消えていっているように思います。歴史の教科書に載っていたような時代に使われていた言葉が今は使われていないように、今使っている言葉は100年後は使われていないかもしれません。そういう意味では言葉というものに正解は無いのかもしれませんが、いつでも相手を尊敬し、誠意を持って接する事が、時代時代で良い言葉を使う為のコツだと思っています。とても「クソ羨ましい」という言葉が相手に誠意を持って使われた言葉とは私には思えないのです。

言葉に関する、もう1つ好きな言葉があります。

マザーテレサの言葉で、

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。


というものです。
私はこの言葉の一番最初で一番重要に見える「思考」の部分は、ある程度無視している所はあります。というのも、私は少し腹黒いので、心の底では悪い事も考えている為です。ですが、言葉に出す前に悪い気持ちを引っ込めます。時には腹を割って何でも話す事も必要ですが、いつでも何でもかんでも思った事を口にするのは下品な事だと考えているからです。私は神様では無いので、どうしても嫌いな人もいるし、言われた事に腹を立てる事もあります。その点、私にとって思考は気をつけようが無いんですね。だからこそ言葉に気をつけます。言葉は行動以下、習慣、性格、運命にも繋がれば、逆に思考にも影響するというのが、このマザーテレサの言葉に対する私の解釈です。

という事で、今後も自分の発する言葉には気を付けて、他人と仲良く。結果、それが心の健康にも繋がってくると思っています。

最後に。
上述のカップルと出会ったラーメン屋さんの味噌ラーメンは、とても美味しかったです。
ただ今の体重は67.5kg。言葉に気をつける事で、たとえ高カロリーのラーメンを食べたとしても、少しずつ体重は減るものなのです。という台無しな嘘をついて、本日の投稿とさせていただきます。

んじゃまた。
早速、と言うにはちょっと遅いですが、初めての記事を書いてみようと思います。

さて、給料日前でお金が無いのも大きいのですが、最近ちゃんと自炊ができてます。とは言っても、男の1人暮らしで作れるものなんてのは質も品数も大した事はなくて、大抵は何か1品を大量に作って、無くなるまでそれだけを食べ続けるという感じなのですが。

最近ハマって作っているのは、麻婆春雨。麻婆春雨は、子供の頃から大好きな食べ物の1つで、母親に頼んでよく作ってもらっていました。母親が作る麻婆春雨は永谷園のもので、それをお袋の味と呼んでよいものかどうかはよく分からないのですが、思い出の味には間違いないので、自分で作る際にも永谷園のものを好んで食べています。

麻婆春雨の好きな所は、少量をご飯に乗せたつもりでも、びっくりするくらい広がる所です。貧乏性の私は、子供の頃から、少量のおかずでご飯を沢山食べるという事に情熱を燃やしてしまう癖があり、味が濃くて、少量で広がる麻婆春雨は、大げさではなく非常に感動的な食べ物なのです。

でもここで心配になる事があります。麻婆春雨って、お体には、どうなの?という事です。

というわけで、永谷園のHPで調べてみました。

まず、具。

春雨・たけのこ・豚ひき肉・きくらげ・赤ピーマン・にんじん

が入っているそうです。一応、炭水化物、たんぱく質、ビタミンなんかも摂れてますが、どれもごく少量しか入ってませんし、偏見かもしれませんが、レトルトの中に入ってる具材にそこまで栄養が残ってるとは思えません。製造工程で、どこかに飛んでってそうな気がします。

で、カロリー。カロリーは、1袋3食分で417kcal。大体3回に分けて食べるので、1食140kcalくらい。まあ、まあ、低カロリーで太らなそうな感じはしますが…。

でもやっぱりどのみち、これとご飯だけだと栄養不足になりそうな感じがします。だって、具は少量ずつしか入ってないんだから、春雨とご飯じゃ炭水化物だけですし。というわけで、具をたっぷり入れた麻婆春雨を自分で一から作ってみる事に。

用意した具は、春雨・豚ひき肉・きくらげ・にんじん・キャベツ・ニラ・生姜・ニンニクを、それぞれ大量に。調味料は、砂糖・醤油・酒・塩・こしょう・豆板醤・ごま油など。

作り方なんて当然知らないから、クックパッド先生に助けてもらいながら、大量に作ってみました。そしたら、何か全然市販の麻婆春雨と違うんですね。なんというか、見た目は透明感のある仕上がりになりました。しかも、豆板醤の量を入れすぎてしまったらしく(確信犯ではあったけど)、とびきり辛いです。小さじ2、とか書いてるのを完全に無視して、大きなスプーン山盛り2杯入れちゃってたので。ちなみに味は、やはり見た目と同様、市販の素で作ったものとは別物だったのですが、別物として食べれば、まあ美味しかったと思います。透明感に関しては、たぶん、味噌を入れるべきだったのかなあと思います。口当たりもツンツンしていたので、味噌でマイルドになれば市販のものに近付いたかもしれないです。

とは言え、なかなか栄養価の高い麻婆春雨の完成にはそれなりに満足できました。作りすぎたから、毎日朝昼晩に食べても3日は持ちます。果たしてこんなに連続で同じものばかり食べて、健康的にはどうなんだろうという気もしないでもないですが(てゆーか絶対ダメだと思いますが)、カロリー控え目だし汗もかいて代謝も上がって、ダイエット食としてはちょうどいいんじゃないのー?などと、若干自分に甘くなっちゃう程度にはハマってます。

一応、これが得意料理と呼べるまでは作り続けてみるつもりなので、当分麻婆春雨を食べる機会は増えそうなのですが、コンビニ弁当買って食べるくらいなら、ずっと健康的ですよね。なんせこっちは無添加だから。しかも経済的。

という話を同じく健康食品会社に勤める先輩に話してみたところ、案の定ダメ出しが。「同じものばっか食べてちゃダメだよ。できるだけ3食バラバラにして、1日20品目くらいは食べるようにした方がいいよ」と。「大丈夫です。僕、ごはんは16雑穀米にしてるんで、それだけで17品ですよね?」と反論はしてみたのですが、「それはズル。ごはんと、16雑穀、それで2品」と、ビシッと言われてしまったので、自炊の次の課題は「1日に食べる品目を増やす事」という事になったのでした。

なお、永谷園のHPによると、同社が麻婆春雨を発売したのは1981年という事で、なんと私と同い年という事になります。運命的な出会いのような気がするのに「そればっか食べてちゃダメ」という縛りが発生してしまった事に運命の皮肉を感じつつ、たまにしか会えないからこそ愛しいのだと無理やり自分を納得させて、次回の出会いを待ちたいと思います。

んじゃまた。