気になること、不安になることがあったときに、信頼できると思う人にそのことを話して、『気にしすぎないようにすればいいんじゃない』と言われると、『あー気にしすぎて、勝手に不安になってる』ってその人に思われているんだなぁと思えて、この人だからこそわかって欲しいと思っていた場合そんな風に言われたら、姿をくらましたくなったりする。
息子のトイレでの排便がうまく行かない。
坐薬して便意催す時にトイレに連れて行きたいけれどトイレを断固拒否して、絶対オムツで排便する。
便を出しやすくするために整腸剤や💩柔らかくする薬や慢性便秘の薬も使っているから、十分すぎるほど柔らかいはずなのに、自力排便は少ないことも心配。
保育園から帰宅して、夕飯→坐薬→待機→待機→待機→オムツに排便→お尻拭き→お風呂→ステロイド吸入→歯磨き→寝かしつけを3時間くらいの間にやり終えなくてはいけないのに、最近は帰宅後の手洗いをはじめ、何一つすんなりことが進まない。
それがとても辛い。
仕方ないのはわかってる、誰かが悪いわけじゃない。けど、辛いなぁと思う。
そして、これがいつまで続くのかなぁという先の見えなさへの不安がある。
不安に思うのは、息子が排便のことでハンデをできることなら負わずに生きていけるといいなぁと思う気持ちもあるけれど、もしかしたら、私が排便のことで今後も長い間心配したりケアしたりすることがしんどいから、私がしんどくなりたくないからそんなふうに先行きを不安に思っているのではないかと考えることもあって、そう思うと途端に自分が嫌な奴に思えてしまう。
私が考えすぎで気にしすぎなだけかもしれないけれど、不安になる気持ちも気になる気持ちもどうしたらいいのだろうと毎日悩む気持ちも紛れもなく私の気持ちで、その気持ちを誰かに理解してもらいたい、受け止めてほしいと思うことは、子供染みていることなのかなぁ。
未熟さゆえの思考なんだろうか。
息子が産まれてからの3年10ヶ月余り、生かすことを命題としながら、ストーマ管理、排便管理、体調管理は私がやらなくては誰がやるんだ!?という責任感と使命感と愛情に下支えされながらやってきたつもりだけれど、ふとした瞬間にその責任や自分の言動が与える得る息子への影響が重すぎて、とても1人では担えないと思い、誰かに縋りたくなり、『できることは頑張ってやってるじゃない、大丈夫だよ』と優しい言葉を求めたくなる。
自分の感情や機嫌を自分自身で処理できていない未熟者ということなのだろうけれど。
人は1人として同じ人はいないから、自分と同じ景色を見ていてほしいと思ってもそれは叶わないことなんだと頭ではわかっているけれど、子供の人生、命、その責任を粛々と淡々と受け止め続けることが私にとってはとても難しくて、共感してほしいと期待しては期待とは裏腹で絶望するを繰り返す負のループをいい加減断ち切りたい。
期待なんてしないで自立した大人と親として一人で生きていく覚悟を持たねばいけない。
息子が笑顔たくさんで生きていけるといいなぁ、私がその阻害要因にならんことを。
私たち夫婦の関係がその阻害要因にならんことを。