タイトルが当たり前と言われれば、その通りのことで。。。
日本のことであれば日本語版の方にしかなかったり英語版に掲載があってもあまり詳しくなかったり、で、アメリカのことであれば英語版にしかないとか日本語版ではあまり情報がなかったり、まぁ、そのあたりは容易に想像がつくかと思います。
で、一応、8月なので戦争というか歴史関係で、最近やっぱりな、と思ったことをインドネシアの記事を例に説明してみます。
wikipdiaの日本語版では、インドネシアの日本占領時代は、独立した記事ではなく、インドネシア、インドネシア独立戦争、蘭印作戦の記事の中の項に記述がある形態となっています。→インドネシア関係記事の一覧
これに対して、英語版ではインドネシアの日本占領は、一つの独立した記事になっています。
Japanese occupation of the Dutch East Indies
内容を比較した結論から言うと、日本語版のwikiには、インドネシアの日本占領について、強制労働、慰安婦、独立運動の弾圧についての記述が全くない。
かといって、日本語版のwikiの内容と英語版に大きな矛盾があるということもなさそう。
日本軍が当初は、歓迎されたことも英語版には記述があるし、日本がインドネシアを占領した結果として、オランダの植民地体制が崩壊したことやインドネシア人による組織化を容認したことが、独立の下地になったことは、共通している。
また、ポツダム宣言受諾後に、日本人捕虜の虐殺があったことも英語版では、一つの記事になってたりします。Bulu prison massacre
日本のポツダム宣言受諾後に、インドネシア人との戦いが生じたのは、英語版では単に日本との戦いで死亡したとあるが、これは、インドネシア人が日本軍から武器を奪おうとして攻撃するのを防ぐためで、これは自衛のためかと思いますけど、、、
英語版を読んだ印象としては、植民地支配をしたオランダが日本に追い出されて、で、日本がこれに代わっただけ、というか、オランダより悪いのが来た感じもしなくはない。
日本語版だけを読んでると、アメリカによる日本占領が軍国主義の終了として(たぶん)肯定的に受け止められていることを連想してか、日本によるイネドネシア占領も、同じようなものだと思っちゃう人が多いんだろうな、というか、そういう風に思いたいから、そういう情報のみ見れるようにするんだな。
太平洋戦争が始まったときは、大多数の日本人は、アメリカとの国力の差を全く理解しておらず、鬼畜米英を一方的に信じていた人が多かったような気がします。現在も、海外との認識のギャップがあるという点では、あまり変わっていないんだなぁ、と思うし、そもそも触れている情報自体が全然違うことに気が付いていないんだなって思った次第。
細かいことは、少し長くなりますが、下に引用しました。
日本語版インドネシア独立戦争 2017年5月27日 (土) 13:22版から引用、太平洋線戦争の項
「その後日本軍は、オランダ植民地政府により軟禁されていたスカルノやハッタなどの民族主義運動の活動家を解放し、その後スカルノやハッタと協力体制を取り、さらにインドネシア人を現地官吏に登用したほか、「インドネシア」という呼称を公の場で使用することを解禁するなど、インドネシア人を差別し弾圧したオランダ人とは異なった政策を取った[7]。
さらに1943年10月には、日本軍の協力を得てインドネシア人指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本軍政下ではあったものの、インドネシア人はこれまでのオランダ統治下では決して得ることのできなかった権限を得ることとなったが、この頃までは石油資源の安定確保を目的として東インドを直轄の軍政地域とし、スカルノやハッタらインドネシア民族主義指導者の独立の要請は認めなかった。
しかし、日本の戦局が悪化してくると、1944年9月3日には将来の独立を認容する「小磯声明」を発表、さらに1945年3月に東インドに独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させた。同年8月7日スカルノを主席とする独立準備委員会が設立され、その第1回会議が18日に開催されるはずであったが、8月15日に日本が降伏したことによって[8]、この軍政当局の主導による独立準備は中止されることとなった。」
日本語版蘭印作戦 2017年8月4日 (金) 10:23版の影響の項から
「蘭印の資源地帯を確保するという日本軍の計画は成功を収めた。その後の戦争期間中、蘭印は日本の戦争経済を支える資源基地として機能した。レイテ沖海戦でも栗田艦隊はバンカ島で燃料の補給を受け出撃していった。さらに日本軍によるオーストラリア空襲の支援拠点としても機能した上、同地で運航していたオランダ領インド航空の所有機のうち、オーストラリアなどの連合国軍の支配地域へ逃亡できなかった多くの機体が日本軍によって捕獲され、現地の日本軍に組み込まれた。だが1945年初頭以降の大東亜戦争の最終局面では、海上護衛の失敗により内地との交通を絶たれ、豊富な資源を持つにもかかわらず蘭印はその戦略的価値を失った」
「蘭印では現地の反オランダ感情が強かったこともあり、アメリカ軍やイギリス軍により支援されていたフィリピンやマレーの抗日運動のような、一部の地元民による軍事的な抗日活動が少なかったこともあり、独立運動家の意を受けインドネシアとしての独立を念頭に置いた政策がしかれた。なお、その一環として現地人が日本軍による労働者募集を受けて軍需工場などで働く「労務者(ロームシャ)」として雇用された他、泰緬鉄道建設などにも動員されたが、事故などにより少なくない犠牲者を生み出してもいる。
日本軍による蘭印の占領は、長年の過酷なオランダの植民地支配に対する現地人による独立運動と母国の国力の低下によりすでに揺らぎ始めていたオランダの植民地支配を終焉させる決定的な一撃となった。日本の敗戦から2日後の1945年8月17日、スカルノやハッタら民族主義者はインドネシアの独立を宣言し、インドネシア独立戦争へと突入していった。この独立戦争には3,000人以上の旧日本軍兵士が参加しインドネシア独立に協力した。」
。」
英語版からは、一部を抜粋。日本語訳は、適当というかテキトーなので、参考程度に。
Japanese occupation of the Dutch East Indies
「In addition to the 100,000 European (and some Chinese) civilians interned, 80,000 Dutch, British, Australia, and US Allied troops went to prisoner-of-war camps where the death rates were between 13 and 30 per cent.[13]」
100,000人のヨーロッパ人と(いくらかの中国人)が抑留されたほか、オランダ人80,000人、イギリス、オーストラリア、アメリカ連合軍の軍人が捕虜収容所に送られたが、死亡率は、13~30パーセントに上った。
「Many who lived in areas considered important to the war effort experienced torture, sex slavery, arbitrary arrest and execution, and other war crimes. Many thousands of people were taken away from Indonesia as forced labourers (romusha) for Japanese military projects, including the Burma-Siam and Saketi-Bayah railways, and suffered or died as a result of ill-treatment and starvation. Between four and 10 million romusha in Java were forced to work by the Japanese military.[22] About 270,000 of these Javanese labourers were sent to other Japanese-held areas in South East Asia, Only 52,000 were repatriated to Java, meaning that there was a death rate of 80%.[clarification needed]]」
戦争遂行に重要であると考えられた地域に住む多くの人々が、拷問、慰安婦、恣意的な逮捕及び処刑、その他の戦争犯罪を経験した。クウェー川鉄橋及びSaketi-Bayah 鉄道を含む日本軍の軍事事業のために、数千の人々が強制労働(労務者)のため故郷から連行され、劣悪な待遇や飢餓を経験したり、死亡した。ジャワ島では、4百万~1千万人が日本軍により強制労働に従事させられた。これらジャワ島からの労務者のうち約27万人は、日本占領下の他の東南アジアに連行されて、帰還したのはほんの5万2千人であった。これは、死亡率が80%であるということである。(要出典)
「Tens of thousands of Indonesians were to starve, work as slave labourers, or be forced from their homes. In the National Revolution that followed, tens, even hundreds, of thousands, would die in fighting against the Japanese, Allied forces, and other Indonesians, before Independence was achieved.[23][24] A later United Nations report stated that four million people died in Indonesia as a result of famine and forced labour during the Japanese occupation, including 30,000 European civilian internee deaths.[25] A Dutch government study described how the Japanese military recruited women as prostitutes by force in Indonesia.[26] It concluded that among the 200 to 300 European women working in the Japanese military brothels, "some sixty five were most certainly forced into prostitution." [27] Others, faced with starvation in the refugee camps, agreed to offers of food and payment for work, the nature of which was not completely revealed to them.[28][29][30][31][32]」
数万人のインドネシア人が、飢餓や奴隷的労働を経験したり、故郷から連行されたりした。その後の独立運動の際は、独立達成までの間に、日本、連合軍、その他のインドネシア人との戦いにより、数万~数十万のインドネシア人が戦死した。その後の国際連合による報告では、日本占領下での飢餓及び強制労働により、強制収容所で死亡した3万人のヨーロッパ人を含む4百万人がインドネシアで死亡したと報告した。オランダ政府による調査では、インドネシアで日本軍が女性を慰安婦として募集した手法が報告されている。報告書では、日本軍の慰安所には、200~300人のヨーロッパ人女性が存在して、65人はほぼ確実に慰安婦(強制売春)であるとしている。その他については、収容所での飢餓により、食料や賃金と引き換えに慰安所で働くことに同意したものであるが、その内容については完全に知らされていなかった。
「In 1943 the Japanese beheaded Tengku Rachmadu'llah, a member of the royal family of the Sultanate of Serdang.[37] In the 1943–1944 Pontianak incidents (also known as the Mandor Affair), the Japanese orchestrated a mass arrest of Malay elites and Arabs, Chinese, Javanese, Manadonese, Dayaks, Bugis, Bataks, Minangkabau, Dutch, Indians, and Eurasians in Kalimantan, including all of the Malay Sultans, accused them of plotting to overthrow Japanese rule, and then massacred them.[38][39] 」
1943年に日本は、王室Sultanate of Serdangの一員であるTengku Rachmadu'llahを処刑した。1943年~1944年の間のPontianak incidents(Mandor Affair)では、マレー人のエリート層、アラブ人、中国人、ジャワ人、Manadonese、ダヤク族、Bugis、バタック人、ミナンカウバ人、オランダ人、インド人、欧亜の混血人、マレー人スルタンをカリマンタン島において、日本の支配を転覆させようとしているとして、大量に逮捕した後に虐殺した。、