私と彼女の Wonderful Days

私と彼女の Wonderful Days

父親が日本人でない「日本人」の私、父親が日本人で「フランス人」の彼女。
東日本大震災を機にフランスに帰国した彼女が再来日…私達は共に日本でのnew lifeを始めた。
互いにトラウマを抱え、それでも笑って生きる、ハーフとハーフの一風変わった共同生活を綴ります。

                  Our greatest glory consists


                    not in never falling,


                 but in rising every time we fall.


                      

                                   Oliver Goldsmith


    

        我々の最大の栄光は決して倒れぬことでなく 倒れる度に立ち上がることである



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外国籍の友人と話していて訊かれる事。


「どうして日本人は『愛してる』と言わないの?」


私も昔から不思議だった事である。


日本では無い文化(というか伝統というか慣習?)だが、私の知っている範囲でだが外国籍の人たちがまず「愛してるよ」という言葉を聴くのは、乳幼児期に親から子供へ対してへである。

ソフィーも自分のフランスにいるご家族には「愛してるよ」と言うし、ご家族も勿論彼女にそう言うのが「普通」である。


私が恋人なり付き合っている人に、相手が日本人で「愛してるよ」と言うと、大抵とても驚かれる。

「そんな事を言う人だと思わなかった」と言われた事もある(「どういう人」だと思われてたんだろう…とちょっとショックであった)。


「好き」と言うなら、私は友達は皆「好き」だから、自分の恋愛対象の人はやはり「愛してる」が相応しい言葉だと思うので、そう言うだけである。


先日、ある人と話していて「愛してると言うなら、自分がその相手を守れる経済力とか責任が持てるようになるまでは言えない」という話を聴いた。

だから、経済力のない子供や今の自分には相手に「愛してる」なんて言う資格はない、と言うのだ。

実に「日本的」発想だな…と感じた(こう言うと「あなたは何人ですか?」と言われるが、国籍はれっきとした「日本人」である)。


私はその意見には反対だ。


「好きな人に好きって言うのは恥ずかしい」と言う日本人の友人・知人もいるが、私から言わせれば「愛してる人に愛してると言えない自分が恥ずかしい」、になる。


発達心理学で興味深い実験がある。


ハーリー・F・ハーロウ
19051981がアカゲザルを使って行った乳児期における「愛着」の実験である。

2つの違う条件で「代理母模型」を作り、檻の外部に「恐怖」を与える物を置いてどちらに「子供」が「愛着」を持つか、という実験である。


<条件1>「代理母模型」を針金製で作り、哺乳瓶をつけてミルクを飲ませる事を可能にする。

<条件2>「代理母模型」には哺乳瓶をつけずに、毛布で「子供」をただ暖かく肌触りが良くなる状況だけを作る。


さて、「子供」はどちらの「母親」に強い愛着を示すと思われるだろうか?


答えは<条件2>である。


「子供」は食べ物を与えてくれるから心理的愛着が形成されるのではなく、あたたかさやぬくもりがあって自分を守ってくれる対象に「愛着」が形成されるのである。


発達心理学者で精神分析家のエリク・H・エリクソンが提唱した「人格発達論」の中には、発達段階に応じて必要な「課題」と「重要な関係性」があり、乳児期には母性と呼ばれるものであったり親との関係から本人の安心感や信頼感を育てる「愛着の形成」が挙げられている。

乳児(赤ちゃん)にとって、健全な発達の傾向を伸ばすには、スキンシップや親からの愛情やぬくもりを与えて、安心感や愛着を形成する必要がある、という事である。


前述した「愛してると言う資格が無い」と言った人は、極めて性格が真面目である。

だから、守れもしないのに無責任に「愛している」と言ってはいけない、と言うのだ。


「一生愛し続けるよ」とか「絶対自分が守るから」と言う言葉は、守れない約束なら無責任に安易に言うべきでない、と言うのなら私も賛成する。

でも、子供だって人を愛するし、子供には大人と違う形の「愛」がある。

本当に愛しているなら、その時の気持ちとして「愛してる」は伝えるべきだ、と言うのが持論だ。


経済力が無ければ相手の生活は守れないかもしれない。

でも、そうして愛情を伝えたら何が守れるかというと、相手の「心」である。

自分はこの人に愛されてる存在なんだな…という、安心感である。


無責任になるのは、言動が伴わないからだろう。

簡単に軽い発言で「愛してるよ」と言って浮気をしていたり「愛情の伴わない行動」をしていては、信頼も安心感も相手には伝わらないし、むしろ不信感や猜疑心で不健全な人格を育ててしまう結果になる。


「言葉の重み」を理解して言うべき大切な言葉だと思っている。


外国籍の友人がよく言うのは「like」と「love」は全く別物なのに、なんで日本人は恋人でも家族にも「愛してる」って言わないんだ!?という意味である。

私もいつからか憶えていないが、そういう考えが自分の中にあった。

だが、私も決して親に「愛してるよ」と言われて育った訳ではない(哀しいかな親にそんな事はかつて一度も言われた事はない…)。


中学生の時。

同級生の男子学生に「好きなんだけど…」と言われて「?…私も好きだけど?」という発言をしてとんでもない事になってしまった。

私は友達だと思っていたから「友達なんだから私も好きだけど?それがどうしたの?」いう意味でそう返事をしたのだが、これは周りの同級生から「両想いなんだね!おめでとう!」と言われて意味が分からず、「どうしてそんな理屈になっちゃうんだ…?」と頭を抱えた。

それ以降、その手の発言にはとても気をつけるようになった。


外見でもしばしばそう言われるが、私はこういうところが本当に「日本人らしくない」のである。


でも、日本人でも子供の為に、自分が愛している人にその気持ちを伝える為に、その気持ちが嘘でないなら「愛してる」は言うべきだと思う。

「好き」と「愛してる」は、やはり気持ちとして別物なのだ。


「経済的に守れるようになったら『愛してる』と言えるようになりたい」とその人は言ったが、社会的に地位を得てそう言えるようになったとしても、もしリストラされたりして職を失ったらまた「愛してる」を大切な人に言えなくなってしまうだろう。

「~になったら言う」とか「~が出来るようになったら」という条件の方が変である。

そんな条件を課していたら、いつ言えなくなってしまうか分からないので相手の方が(言い方は悪いが)可哀相になってしまう。

経済的に生活が困窮していようが、「本気でその人を愛していて相手を守りたい」のなら、守れるように苦労して賃金の安いアルバイトをしてでも精一杯今いる立場でその人を守る努力をすればいい。

その気持ちは、きっと相手に伝わると思うから。


「愛している」相手が死んでしまったり、もう伝えられなくなってからでは、どんなに愛していてもその気持ちは相手に伝わらないし、伝える事は出来なくなるのである。


経験者は語る、のお話でありました。


愛している人がいるのなら、家族でも恋人でもいいから、どうぞその気持ちを伝えてください。


ある日ソフィーがフランスのニュース番組をインターネットで見た後、ある殺人を犯した犯罪者について話し出した。

その人は殺人を犯した後服役し、心理カウンセラーや精神医学者が「セラピー」を行い(日本でも犯罪者に対して社会復帰の為に精神的問題のカウンセリングなり「治療」が行われる事は勿論ある)、1年後に「普通」の社会生活を送る事を許され、学校に通うようになりその学校の学生を殺した、つまり殺人の再犯者になったという。

その人が通っていた学校の学生は勿論、教員にまで、彼の過去の犯罪歴は伏せられていたが、再犯によりそれは明るみになったそうだ。


<ソフィーの疑問と主張>

・何故、彼が殺人という重大犯罪を犯したという事実を誰も知らされなかったのか

・精神的・心理的問題により殺人を犯した彼に対して、セラピストが社会復帰をする事を安易に許可し過ぎである

・再犯を防ぐ為には事実は公にすべきだった

・彼の家族が社会復帰後の彼の問題をケアするべきだった

・自分や自分の家族がいる社会がそういう事実を知らされない事は恐ろしいし、彼が犯罪者であることは自分なら知っておきたいし知らされないのは許せない


<それを受けての私の意見>

・医者なり弁護士なりカウンセラーには守秘義務があり、犯罪者の社会復帰には人の先入観により困難が多いので、時に改名されるという事実もある

・しかし本当に「誰にも知らされなていなかった」というのが事実なら、それは確かに問題である

・殺人にまで至った彼の精神的・心理的な複雑である問題の「根治」は1年という短期間では不可能であると思う(セラピストの判断ミスという彼女の意見に同意)

・一般的に犯罪歴が公にされない場合でも、殺人犯の再犯を防ぐ為には社会復帰後のその人の生活の動向は専門家等が追跡調査していくべきであり、専門家が関わっていたのなら犯罪者の社会復帰にはその人の家族だけではサポートは難しいので、定期的な通院治療なりカウンセリングなどの形であっても彼のメンタル的ケアを継続すべきであった(アメリカでは重大犯罪者に対して体内埋め込み型のGPSをつけるべきだという議論も起きたが、これも問題はあると思う)


私達はテーマは様々でも、よく「議論」なり「話し合い」ということをする。

日本人は何故「議論」が苦手な(あるいはしたくない)人が多いのか、何故話し合えないのか、ということについても以前話したことがあった。


例えばテレビで「討論番組」というのがあるが、まさに「TVショー」になっている物をよく目にする。文字通り、その場合「ショー」であり、視聴者が面白おかしく観られるように司会者が煽ったり話をする人達も自己主張ばかりで他人の意見を聴かなかったり無視して「言いたい放題」になっているのである。「反論」するのであれば、相手の話なり意見を聴かないと「反論」というのは不可能である。結論なりまとめが無い事も多い。

はっきり言って、「議論」になっていないので「討論番組」を名乗らないでいただきたい。


この議題についてのソフィーとの話し合いも長時間に及んだ(私達の「日常会話」である…)。


個人的なこの議題の最終的な分析であるが。

ソフィーの主張は同じコミュニティに生きる個人として、功利主義(ベンサム提唱の「最大多数の最大幸福」という意味で)的観点から、「コミュニティ全体としての幸福量を最大限にする為にひとりの犠牲はやむを得ない」という立場と個人主義の観点からのものである。

私の立場は功利主義を全否定はしないが、あくまで「全ての道徳的責任は個人だけのものでなく、コミュニティ全体が集団構成員(社会の一員)としての連帯の責務を負う必要もある」というコミュニタリズム的立場を支持して議論をしている。


どちらかが正しいわけではない。

自分の立場・観点から自分の意見を主張し議論することが必要であると言いたいのだ。

私達は言い争いをしている訳ではない。ひとつの議題に対して議論しているのであり、これが終わった後はすぐに談笑に変わった。


どうして議論なり自分の意見を表明をしない人が多いのだろう。

「何も言わないのが意思表明」という人もいるが、それでは何も相手に伝わらないし、真意を的確に伝える事は不可能である。


最後に問題提起として、ひとつの詩を引用します。

どうぞ、これが目に留まった人は、この意味を「考えて」ください。



       『ちがう人間ですよ』

                   長谷川龍生

ぼくがあなたと

親しく話しているとき

ぼく自身は あなた自身と

まったく ちがう人間ですよと

始めから終りまで

主張しているのです

あなたがぼくを理解したとき

あなたがぼくを確認し

あなたと ぼくが相互に

大きく重なりながら離れようとしているのです

言語というものは

まったく ちがう人間ですよと

始めから終りまで

主張しあっているのです

同じ言語を話しても

ちがう人間だということを

忘れたばっかりに恐怖がおこるのです

ぼくは 隣人とは

決して 目的はちがうのです

同じ居住地に籍を置いていても

人間はちがうのですよと

言語は主張しているのです

どうして 共同墓地の平和を求めるのですか

言語は おうむ返しの思想ではなく

言語の背景にあるちがいを認めることなのです

ぼくはあなたと

ときどき話をしていますが

べつな人間であることを主張しているのです

それが判れば

殺意は おこらないのです

                       『直感の抱擁』より


注釈:長谷川 龍生(はせがわ たつお)

 1928年(昭和3年)~ 大阪府生まれ。詩人。

 1952年 関根弘らの詩集同人誌『列島』に参加

 1960年 花田清輝、安部公房らと「記録芸術の会」を結成。総合芸術運動を推進し、反叙情的詩風により、現代詩に新局面を開いた。
 
1970 大阪万博においては外国人ゲストのメインコーディネーターを務め

 2002 13の沈黙を破って『立眠』を刊行

 現在 大阪文学学校校長。現代詩塾の講師も務める。

 
 主な作品『パウロウの鶴』『泉(ファンタン)という駅』
『バルバラの夏』『泪が零れている時のあいだは』など

「いい人」ってどんな人? ブログネタ:「いい人」ってどんな人? 参加中
本文はここから

よく「~そうな人」とか「~な人」という言葉を聴く。

それを自分の意見として、自分の見たその人に対する人間性の評価を下して言っているのであれば構わない…と言うか、私がとやかく言う事ではないし言う立場にもいないが。
一番変だと思うのは誰かから聴いた話やら噂やら肩書きやら外見やら、そんな事で人を簡単に「この人はこういう人」と判断してしまう事である。

伝聞や噂には背ひれ尾ひれが付き物だ。

有名企業で働いている、難関大学を卒業した、権威のある職業をしている、お金を持っている、勉強が嫌い、経済的に裕福でない…これでその人の「何が」わかりますか?
それで「判る」ことは、その人の人間性ですか?

友人に誰かの話をした時に「いい人そうだね」という曖昧な感想で終わらせられてしまうのは、その場をまるく収める為に使われる「便利な日本語」だからである。
常套句なので多々使われるが、それを聴いてどう思いますか?
その人の話をした意味はありましたか?

特に会ったことが無かったり人から話を聴いただけでそれを全部鵜呑みにして、「この人はいい人」「この人は悪い人」と判断するのは、ナンセンスな話だと思う。

少し哲学的考え方であるが、「人」は「人」でしかなく、「いい」も「悪い」も無いのだ。
あるとするなら、それは対象は何であれ「いい事をした人」や「悪い事をした人」である。
「その人」は「その人」以外の何者でもないし、自分の好き嫌いならともかく、その人が「良い」だの「悪い」だのと言うのは、おかしな話だと思う。

それに一度見聞きしたその人の言動がその人の全てかというと、それもまた違うだろう。
「こういう傾向がある」という考えなら持っていていいと思うが、それを根拠に「~だから」とその人を簡潔にジャッジするのは単純もいいところだ。
人間はそんな風に一側面で分類できるほどシンプルには出来ていない。

「本質」を見なければいけないと思っているし、それは私のポリシーである。

個人的な見解であるが、他人から聴いた話は参考までに留めておくべきだと思っているし、その人がどういう人か、その人の人間性について自分の考えを持つのは、その人とちゃんと話したり自分がいない時のその人の行動を知ってからすべきであると思う。

「その人の同性の友達の評価は参考になる」という意見を聴いた事がある。
なかなかにごもっともなお話である。
異性と同性に対して対応が変わる人が多いからだ(これもまたナンセンスなお話だが…)。
だが「恋愛関係なり利害関係を上手く成立させるために」と「同性」を過剰に良く言う人もいるので、やはり「参考になる」だけである。

例えば「レディファースト」のように、習慣として女性と男性に対して対応を変えるのは構わない(注:女性を優先しろと言っている訳ではない)。
それはエスコートする時の欧米式文化だからである。

では、あなたは合コンなり飲み会やらパーティやらで、異性の前で「好かれるために」その場を取り繕って作った関係を、そのまま持続できますか?

「お金持ちと結婚したい」とか「医者と結婚したい」という女性の話を耳にするが、そういう女性で本当にそういう肩書きやら何やらを持っている人と結婚する事になった人に訊きたいのは、「あなたは本当にその人が好きだから結婚するんですか?」という質問である。

「お金を持っているから」が理由なら、相手が経済的に破綻したらその関係は終わりになるだろう。
「その人自身が好きだから」が理由なら、経済的に困窮しても苦楽を共にして生活する道を選択するだろう。

あなたはどちらの関係でありたいですか?

これと変わらないのが「いい人」の判断基準である。

「自分に良くしてくれるからこの人はいい人だ」という人の場合、多くは「自分にとって都合がいい(便利)から」という判断基準になっていると思う。
それはその人が下したジャッジなので、別に否定するつもりは無い。
でも、私自身にはその考え方は無い。

「他人に親切だった」「努力をしていた」「何かに一生懸命である」「話をしていて(または一緒に居て)楽しい」「気が合う」「切磋琢磨できる」「保身でなく身内や仲間を大切にする」「約束を守る」「過ちは反省する」
これが友達であれ私の好きなタイプの人になる基準の例(あくまで一例)。

「いい加減」「嘘をつく」「てきとうにその場しのぎの事ばかり言う」「保身ばかりで自己愛の塊」「立場や権威を傘にきて上から目線で人を馬鹿にする(利用する)」「「真にselfish(利己的・自分本位)である」
こちらは私が友達にもなれない嫌いなタイプの人の例である(「selfish」についての話はよくソフィーとするのでいつか書きたい)。

前者のタイプの人は、自分が友人であれ恋人であれ仲間になったとき、本当に良い関係を作れる。
後者のタイプの人は、自分が関わっていると不快であるし疲れるし、何よりまず信用出来ないので、出逢って話をしても知り合っても、人間関係として長続きはしないししたくもない。
そういう関係はこちらから願い下げである。

外国籍の友人で「いい人」と他人を評価する人を私は知らない。

英語で他人に対して感想を述べる時は「good looking(顔がいい)」「kind(親切な)」「wonderful(素晴らしい・素敵な)」「clever(賢い)」「intelligent((知能が高い意味で)賢い)」「stupid(バカな)」などの形容詞を使う。
いい関係の友達に対して「good friend」という言い方はしてもよく知りもしない相手を「いい人」だの「悪い人」だのと言うのは、ソフィーに言わせれば「私が決める事ではないしその人は私と関係ない人」であり、私もそういう感想を述べる事自体に意味が見出せないのでしたくない。

その人の言動などについて意見を求めるのはいいと思う。
だが、その人が「どうか」ということを聴いたりしても、最終的に自分が好きか嫌いか、どう感じるかを判断するのは、あなた自身ではないですか?

他人に言われた事で、自分の考えや気持ちを見失っていませんか?