有頂天という皮肉
ジェイソン・ライトマンは若いのに既にしてコメディの大物という風格がある。
『JUNO/ジュノ』の場合は脚本の腕に依るところも大きいとは思ったが、ああいう言語的な突飛さが多くなくても台詞まわしやシチュエーションの組み方、細かい演技などで十二分に面白い(もちろん原作力もあるんだろうけど)
お話としては人間関係を取るか、仕事を取るかというような比較的よくあるパターンではある。
面白いのがリストラに関わるコンサルタントという職業で、主人公がバック一個で生きつつマイレージを貯めようとする設定補完と共に、他者に宣告を下しつつも希望を与えるという矛盾した要素を兼ね備えさせている。
そして主人公ライアンとヒロインの一人であるナタリーの関係は『プラネテス』のハチマキとタナベを思い起こさせる。
ところがここでも少し捻りが利いている。
人間関係に関してはライアンの方が他者に壁があって愛情とか家庭を遠ざけている。
しかし仕事に関してはナタリーの方が合理性を強調して人情を考えていない。
だからこの二人はロマンチストな個人主義的男性とプラグマティストな恋愛主義的女性という対比として描かれている。
彼ら同士が安易に恋人としてくっついてしまう訳ではないところがまたポイントかな。
超映画批評の前田さんなんかは『ハートロッカー』も『マイレージ、マイライフ』もアメリカ頑張れ映画だとしているが、どうもあの人は時として偏りすぎるきらいがあるなぁと思うところも。
『ハートロッカー』はその嗜好が特殊で強固すぎて自己完結している男の物語だ。
最後は彼が満足しているにも関わらず、その感覚は観客と一致している訳ではない。
ジェームスは地獄のようなあの惨状を知りながら、むしろ楽しそうに帰投していく。
一方『マイレージ、マイライフ』は自己完結に気付き、疑問を抱くようになりつつも、後戻りが難しくなってしまった男の話。だから愛情や家族関係が物語の核心にはなるけれど、ライアンは完全な意味ではそこに入れない。
有頂天で地に足が着かない生活をしていたら、
宙ぶらりんな状態になっていた
(有頂天=地に足が着かない=宙ぶらりん=それぞれ原題『Up in the Air』の訳語)
家族や愛情といった人間関係は大切だが、それは主人公が手に入れられる物として描かれるのではなく、羨望しても届かない皮肉や悲しさが中心になっている。
だから間接的な意味ではポジティブなガンバレ映画に捉えられるかもしれないけれども、主題的な意味ではむしろ悲しさや寂しさを出した切ない映画なんじゃないかと思う。
ライトマン自身もパンフで脚本を書いていたのは好景気の時期であり「リストラコンサルタントという職業は皮肉のつもりだったが、笑えなくなってしまった」と語っている。
他に前田さんが挙げた『スラムドッグ$ミリオネア』がポジティブなガンバレ映画なのは同感だが、『ハートロッカー』と『マイレージ~』は主人公の姿を皮肉に描いているので、それを承知した仕事人間は『マイレイージ、マイライフ』(と『ハートロッカー』)を観て反省することはあっても積極的に頑張ろうとする事はあまり考えられないような気がする。
もしガンバレ映画と捉えるとしたら、現実が結果的に映画に倣ってしまい、寂しく感じる筈の所を笑えないから希望を見出そうとしている……という感じなのかなぁ。
閑話休題。
皮肉が効いていて読後感、というか視聴後がやや寂しい映画なのは確かだが、全く暗い映画ではない。
そこがライトマンの凄いと思うところで『JUNO』の時も、学生で未婚の妊婦とその里親探しという設定的には暗い話も、実にユーモラスに見せてくれていた。
序盤の空港シーンではキビキビしたライアンの動きを編集で上手く見せており、ここから「コイツ撮るの上手いなぁ」という印象を与える。
後にナタリーを加えた後のモタモタ感との対比にもなっており、そのシチュエーションだけで笑いを産み出す。
ネット面接解雇を提唱して明らかに「ムカツク小娘」然としたナタリーが、メールで彼氏に別れを告げられた後に号泣するのも笑ってしまうが、その後にライアン自身に加えライアンと「気軽な関係」なアレックス(女だよ)に慰められるシチュエーションも最高。
アレックスの「理想の彼氏」像を聞く度にライアンを確認するかのようにちらちら目線を向けるナタリー、同じ言葉に表情を複雑に変えるライアンという三者三様の細かい演技が凄く笑える。
妹の結婚式用に写真を撮る為、嫌々妹たちの写ったパネルを持ち歩かなければならない状況も楽しいし、この結婚式の過程もユーモラスながら作品の重要なターニングポイントになっている。
まずナタリーの教育が上手く行った事で、結果的にネット面接解雇が採用されて出張が廃止へ。
この時点で既にかなりの皮肉が効いている。
マイレージの為に出張を願うライアンが、出張廃止へ手を貸してしまった部分も皮肉ながら、出張廃止=ライアンの存在意義の減少~消失に繋がる部分も目が離せない。
恐らくライアンはこの宣告を受けた時、解雇と同じような衝撃を受けている。
ナタリーと同様、自分のやったことが自分に返ってくるという構図は、この作品の最後まで通底する。
出張廃止で仕事以外にめが向いたライアンはアレックスを伴い結婚式に出席するが、姉は夫と別居中であることが判明。
そして各地で撮った写真を貼ろうとするも、既に大量に貼ってある。
更にライアンは妹のエスコートを申し出るも新郎のおじさんがやることになっていると断られる。
ここでライアンは家族とも疎遠であることが分かる。
彼の写真が必要ないほどに妹の人間関係は豊かで、新郎のおじさん>実の兄ライアンという扱いだ。
ところが式当日、新郎がマリッジブルーになってしまう。
新婦じゃなくて新郎なのがまたちょっと笑えるが、ここでライアンが説得をする羽目に。
姉が別居中なのと、ライアンが今まで家族を無下にした部分が効いてくる。
ライアンは新郎に上手いことで言いくるめ、あからさまにその場しのぎをしたかのようにも見えるこのシーンで、ライアン自身が自らの言葉に感化されてしまっている。
「アレ? 今てきとうに取り繕ってみたけどこれって事実じゃね?」
みたいな感じになっているライアン。
仕事の(リストラ者に希望を与える)シーンと似て非なる状況や本人が半分無自覚なのがまた良い。
そこから明確に今までと違う人生を意識するが……そこでまた二重三重の皮肉がライアンに、そしてナタリーに覆い被さる。
前述してきたように、この映画は全体的に皮肉が効いていて読後感はやや寂しい。
それは確か。
また、単純な意味でポジティブなガンバレ映画じゃない。
でも決してネガティブで陰惨な映画でもない。
ラストシーンでライアンの乗る飛行機のように、夜に輝く光はある。
それが凶兆か吉兆かは誰も知らないけれど。
最後のシーンは『ハートロッカー』に似ている。
決定的に違うのは主人公の気持ち。
自分のやっていることに満足しているジェームスに比べて、疑問を持ちつつも簡単には変われなかったライアン。
でも
パンドラの箱の底には希望が残る。
リストラされた人間にだって希望はある。
ライアンだって、ナタリーだってこの先は分からない。
なぜならば、未来は
Up in the Air
(何一つ定まっていない状態)
だから。