先日、バンクーバー冬季オリンピックが終了した。正直僕はあまり感心をそそられなかったものの、競技とあまり関係ないところでの選手叩き、金メダル無し、八百長論争とお世辞にもカッコイイとは言えないものだったと思う。
ただ、スポーツに於けるナショナリズム自体は必ずしも嫌いではない。それは自分の所属する国家への誇りでもあるし、いかに人倫を語ったって自国が他国を超克するのは少なからず心が躍るのが人の心ってもんだろう。
だから今回の騒動もあった訳だが。
これらは対外的なナショナリズムと言えると思うが、外的な物があれば内的なナショナリズムもまた存在する。
それを十二分に表現したのが本作『インビクタス』だ。
南アフリカ初の黒人大統領ネルソン・マンデラは民族融和政策の一環として、白人主義の象徴であり、名前やユニフォームを変えられようとしていたラグビーチーム・「スプリングボクス」の存続を敢えて願い出る。
南アに於いてはラグビーは白人富裕層のスポーツ、サッカーは黒人貧困層のスポーツである。
黒人政権でありながらラグビーを称揚することで、民族融和を図る狙いがそこにはあった。
スプリングボクスには黒人地区へ尋ねてラグビー教室を開くようにさせ、初開催となるW杯で優勝させようと言うのだ。
スポーツ物でもあるが、スポーツを通した国民の連帯感、と国家の変貌、更には人の精神の崇高さをも描いていく。
イーストウッドにしてはやや王道というか、スタンダードすぎる気もするが熟練の技術はむしろ王道とは相性が良いと言えるかもしれない。
また近年のイーストウッド映画に於ける根底の精神は全く変わっていない。
スポーツで国民意識の統一と聞くと、現代日本のひねくれ者には忌避する部分があるかもしれない。
しかしこの統一は日本人が散発的なブームに乗って騒ぐだけの行為とは全く異なると言って良いと思う。
それは長らく続いた白人・黒人の壁を打ち破り、
互いが互いを認め合うことだ。
怨嗟の声を閉ざし、歓声を挙げながら抱き合うことだ。
寛大な精神で赦し合うことだ。
『ミスティック・リバー』で復讐の危うさを描き、『グラン・トリノ』で復讐による暴力を捨てたイーストウッドの精神はまさに此処にある。
マンデラは政府の役人を続投させ、スプリングボクスを存続させ、まず身を以てその精神を示した。
30年余りも投獄された苦しみを、
虐げられた怨みを、
差別による悲しみを、
当の相手にすら負わせようとしなかった。
それが故にスランプに喘いでいたスプリングボクスも、また変わることが出来たのだ。
奇しくも同日に観た『戦場でワルツを』は、
マンデラに、スプリングボクスになれなかった者達の悲劇だ。
もちろん怨みを忘れられないのは人間として当然の感情である、しかしそれだからこそ苦しみを相手に返すことしか出来ずに、結局は自らも苦しむのだろう。
理屈では子供すら分かっているけれども、本当の意味で実行するのは難しい。
追記
調べていると、イスラエルの政策について実質的にアパルトヘイトとしているものが幾つかあった。
アパルトヘイト・ウォールなるものもあるようだ。アパルトヘイトを脱却しようとする国家の映画と、アパルトヘイトに落ち込んでいく国家の映画としても好対照(もしくは『悪』対照)というべきかもしれない。
固い話はこれくらいにしておいて、小ネタ的なみどころを。
マンデラかわいいよマンデラ。SPの好みを聞いて飴を買ってきてくれるマンデラ萌え。
ラグビー日本が弱すぎて申し訳なくなった。NZに145点も取られたそうだ(国際試合史上最高得点)
ちなみにパンフレットには当時の日本代表選手の寄稿が……
もうやめて!
日本のライフは零よ!!!
その人に「マンデラとスプリングボクスのリーダーシップのあり方」を尋ねるとかイジメにしか思えません。
ロムー様 がメッチャ前振りされていたのに決勝じゃ得点出来なくてワロタwwwww
まぁ試合展開まで忠実に作って、南アが超頑張ったという事なんですけどね。
得点するのが双方キッカーのみ(しかも半分くらいペナルティキック)というコメントに困る試合でした。
最後、優勝決定の時に黒人の子供と白人警官が喜び合うシーンがあるのだけれど、
黒人の子供の動きがサルっぽくてすっごい面白い。
当時のスプリングボクス主将・フランソワ・ピナールと、それを演じたマット・デイモンが一緒に写ってる写真があるのだけれども、似すぎてて親子にしか見えない。
