獣の奏者 探求編・完結編 | リュウセイグン

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あけましておめでとうございます




そんな訳で挨拶だけ済ませて新年一発目は『獣の奏者』の第二部にいってみましょう。
ちなみにネタバレするよ!










第一部以上に物議を醸しそうな展開。
正直二部の話は評価に悩むかも。
否定したいけどしきれない、そんな感じ。
第一部で音無笛を吹いた時とか、リランを人の為に使った時点でアレだった人は絶対受け入れられない。
僕個人にも否定したい部分はあるんだが、やはり色々な部分で先回りして予防線を張っているので、その批判自体が近視眼的な物にならざるを得ない。ここが上橋先生の凄いところなのかもしれない。

もう一つ、全然エリンさんの思想や行為を全ての人に肯定させようと思ってないところ。
これはあくまでエリンさんの判断であって、それが普遍的に通用するなんて詭弁を用いない
普通の作品、取り分けアニメ業界では実のところなかなかこういう部分を描かない。
なぜなら視聴者に重たい物を感じさせるから。その結果、物語自体が主人公の都合の良いように動く
これは程度の差こそあれ、ある種の必然なので一般に言う、ご都合主義というのとはまたちょっと異なる。
ただ主人公に罪を負わせない点に於いては御都合主義の一形態と言えるかもしれない。

しかし上橋先生はエリンさんに次から次へと困難をおっかぶせ、ヌルい決断をさせない
むしろそれが出来ない方向へと追い込んでいく。勿論、必ずしも完璧とは限らないし次善の策もあるんじゃないかという部分はあるんだけれども、やはり最終的にはエリンさんの一身に収束するような形で物語が展開していく。

そしてエリンの決断と、その先の結果が待っているのだが……それ自体に言いようのない感慨をもたらす。

綺麗な終わり方で言えば第一部の方がずっと綺麗だ。

だからこの話を見る必要はない、と言いたくもなる。
けれど同時に色々考えてしまうのだ。
第一部の終わりは、誰がどれほど幸福であったのか。
エリンとリランに対しては幸福かもしれない。
だが多くの王獣は未だ人の手にあり、政治のその後だってどうなるかは分からない。
さらに第二部でエリンさんは

「幸福とは大きな網だと思うのです」

という事を言っている。
何となく分かった気にはなるけど、それで掬える物もあれば、零してしまうものもある
一つ言えるのは、第一部より大きな視点で物語が推移している事だろう。それは時間的にも空間的にもテーマ的にもそうだ。
「人と獣」の物語から「人々と獣達」の物語へ(上橋さんは「人々と獣たちの歴史の物語」とか言ってた)
本作の展開に色々考えてしまう人が他にも多いと思うので言っておくと、エリンさんの思想として一つ重要なのが「形骸化した禁忌は存続させるべきではない」というのがある。形骸化、というよりも何故それが禁じられているのかを人々に知らせぬままに禁じる事をエリンさんは酷く嫌う。選択肢を与えないからだ。
それが今回の指針になっている。

さらには、エリンとリランという一個の存在からより視野を大きくした方向性だとも言えるだろう。
だから、エリンさんの生き様としては必ずしも否定出来ないのではないだろうか。



また、第二部では以前コメント欄で戴いたような情報も載っているのだが、正確なところもあるしやや違っている部分もあった。

サイガムルが真王を襲った動機、これは確かに真王の伝承途絶を狙ったものではある。
ただ動機が個人的すぎるきらいはある、これは一部の時点では普通の暗殺(乃至暗殺未遂)で済んだ物を、二部を創る時に、より一段踏み込んだ解釈を展開した為にそうなったのだろう。第一部は本来独自に完結する物だったので、その辺りは流せる筈だったのに拾ってみた、という感じがある。
これは闘蛇の大量死やその罰則に関しても同様で、結構その辺りに苦心の跡が伺える(別に批判ではないよ)

それと霧の民が奏者の技を封印する為に暗躍していたという話も聞いた。
だが、これもある程度までは行っていたかもしれないが、霧の民は人を殺してまではいない
第一部でナソンが霧の民は生活の為の殺生以外は掟で禁じられており、よってエリンを殺す事はしないと語ったことから分かる。

もう一つ真王の伝承が途絶えないようにする安全装置がある、という話だったがこれも恐らく違う。
伝承を知っている人間とコンタクトを取る習慣が存在していたが、長い年月の間に形骸化した、という部分はあるが、それは伝承を失わない為では無いと思われる。

それならば少なくとも真王自身が形骸化させる筈もなく、王獣規範の伝承のように暗殺された真王(ハルミヤの祖母)の時代に形骸化した訳でもない。文字の事を考えるならばむしろかなり以前だろう。
このコンタクトは、あくまで「ジェの私信」の儀礼化であり、上橋さんの物語的な意図は「答えを知っているけど意志疎通が難しい人間が時間差で登場する状況」を成立させる為だったと考えられる。

物語的には彼らが居なければ、災厄を終焉させる方法が伝えられない。
しかし容易に伝えられるので在れば、災厄の内実も伝わるのでそのものが起きない。
災厄が起き、なおかつそれを終焉させるという構図を創る為には、彼らは知っていながらコンタクト出来ない状況で、さらに一応ながらも災厄に関するなにかを嗅ぎ取り、それに関することを教える為に(タイミングを遅らせて)自ら登場する必要性があった。その為の装置だろう。

ただ此処が難しい問題で「真王とかに頼んで探索隊でも作ってもらえば?」というような部分はある。
エリン自身が行こうとしたら諦めるシーンがあるので彼女が行けないのは説明されているが、他の誰かが行ってはいけない訳ではない。これが次善の策というやつだ。ただ色々タイミングなどもあるだろうし、深い山間の何処かに住んでいるようなので、やっても徒労であったとすれば物語的にはおかしくない。



やや話が逸れたが、今回の物語を映画に喩えると『ウォッチメン』だと思う。
『ダークナイト』『グラントリノ』にも比したが、様々に考慮した結果、テーマや内容を鑑みるに『ウォッチメン』がしっくり来るんじゃないかと。


エリンさんは

ロールシャッハであり
オジマンディアスであり、
Dr.マンハッタンでもある。


そして彼ら以上に悩み迷った末に、この結論を出した。
一面的な正義感で正しいとか誤っているとか断じるのは浅薄になってしまう様な結論を。



もう一つ他に作品を挙げるならば『銀河英雄伝説』だ。
本当の望みは叶わず、その優秀さから戦争に狩り出されるエリンさんは、ヤン・ウェンリーに酷似している。
それだけではなく、第二部のラストは銀英伝のラストがしっくり当て嵌まるのだ。



『……伝説が終わり、歴史が始まる』




第一部のラストは言うなれば伝説の再現だった。
そしてそれ自体も伝説として語られる可能性のあった事件だろう。


しかし第二部の終盤は伝説にはならず、歴史として記される


何故災厄は起き、何故禁忌が存在するのか。そしてそれを知って我々はどう在らねばならないか。
伝説では秘されて書けない物事を、白日の下にさらけ出し、明白に刻みつける。
それこそ、エリンさんが目指した物なのだ。