観劇『AQUARIUM ~あなたはそんなにパラソルを振る~』 | リュウセイグン

リュウセイグン

なんか色々趣味について書いています。

長文多し。

『AQUARIUM ~あなたはそんなにパラソルを振る~』
知人が出るので観劇に行って参った。
チケット2枚あって、人を誘うことも少し考えたが時間の都合などもあり、一人で行くことに決めた。よって一日二回w
僕は結構演技や演出に関してはファジーな感性なので、あまり誉めても物の足しにはならないだろうが、結構良いなぁと言う感じ。観に来て良かったと言える。恐らく、初演に近い方々ばかりなのも考慮に入れれば、十二分に全う出来たのではないかと。
特に知人はキャラがイメージと合い過ぎてて、素晴らしいシンクロ率であった事よ。

ただ僕は、演技などに関しては鷹揚だが、物語に対して語る時は容赦がない。
スタッフ始め皆さん頑張られていたのは百も承知。だがやはりそれとこれとは別に語るべきだろう。

幸か不幸か脚本はネットに公開されていた物を使用したという事なので、直接的に傷付く人は今回のスタッフ/キャストの中には居ない。よって感じたことを率直に語っていきたい。なお、予め断っておくと、この感想はあくまで僕自身の個人的な見解であり、それとは異なる捉え方、考え方、そして感想があるのは当然だ。僕はそれ自体を否定しようとは思わない。ただ、論理的に明らかに間違っていると指摘されない限り、こちらの意見も同様に否定される程でもないと考える。
また、観劇から帰る時に他の観客方が話しながら歩いていたのだが、その様子から察するに、全体としてはかなり好評だったというのも付け加えておく。
ちなみに、劇のネタバレ感想に加えてまだ公開中の韓国映画『母なる証明』のネタバレ感想もあるのでその辺りはご理解頂きたい。


「AQUARIUM ~あなたはそんなにパラソルを振る~」
あらすじ





古くから伝わる言い伝え。
その森は、育てられなくなった子供を捨てる森。
「子捨ての森」
ある日、そんな森に二人の青年が迷い込んだ。
一人はこの場所で拾われて外の世界へ行った子供。
彷徨う内に二人は一人の不思議な少女に出会う。
そこから始まる出会いと別れ。
森の端、ずっと待ち続ける少女はこう言った。
「愛することを止めないで」
そこにあったのは『言の葉(コトノハ)』、本当の気持ち。





この物語の概略は、それほど特異なものではない。
いわゆる桃源郷などに代表される「マヨヒガ」譚に、球体間接人形というガジェットを組み合わせた物だ。
森の中の隔絶された理想郷は、アクアリウムに喩えられ、主人公達はそこへ迷い込み、そこを抜ける。
いわば通過儀礼の物語だと言えるだろう。
「子捨ての森」の中にある理想郷はカリンという名の女性によって統べられ、そこには悩みも苦しみもない世界として成立している。カリンはこの世界に於ける「母親」であり、作中ではアクアリウムに喩えられている空間はその核心を突くならば「母胎」の暗喩だ。
主人公の青年カイは、一度その森に捨てられたが、拾われて普通の人間界に暮らし、今再びここに迷い込んだ。その従弟にして友人の翔三郎と共に。
カイは一応人間界に暮らしてはいるものの、私的なことで悩みを抱えてここに戻って来る。
翔三郎もオネエ言葉を使うゲイであり、要するに両者は極めて越境的な人間だと言う事が分かる。
だからこそ、一度「母胎」に戻され、再び出ることで「再生」そして本当の意味での「成人」と為ることが出来るはずだ。
しかしながら、この物語は根本的にそこが物凄く弱い。
彼らは確かに、異界を抜け出せる。
しかしそれは彼らの意志とほぼ無関係に行われてしまう。
異界は、殆ど自重崩壊に近い終わり方をしてしまい、カイたちはその結果として外に出るだけだ。
儀式としての通過儀礼であれば、当人の意志がそれほど強くなくても終わらせてしまうことが出来るかもしれない。だが、此処に於いて異界を抜けるのに本人の意思が関わっていないと彼らのメンタリティは入る前と同様で、変わったとしても間接的な物でしかない。
また、異界の「母」であるカリンの行動にも疑問符が付く。
彼女は異界に住む者達の安寧を願っており、子捨ての森で遺棄された子供達の魂を自ら作った球体間接人形に宿す……という形でその願いを果たしている。
彼女は過去に男との間に子を為したが、相手は結婚の意思はなく、子供を養子に出そうとした為に奪い取って逃げてきた。しかし、結果として子供が死んでしまった。
その後、本人も死んでしまい。彼女自身の魂を中核として「子捨ての森」に関わった母親の精神がフィードバックされた状態で人形に宿り現在の「カリン」が産まれた。
それが切っ掛けとなって、今の行動に走っている。
むろんこれもまた一つの愛情の形だ。
だが同時に彼女の愛情はかなり歪で独りよがりでもある。
捉えようによっては、無理矢理子を奪って逃走したことで「子供の命を失わせ」、子供の魂を球体間接人形に「閉じこめて」、「平穏を与えてやっている」自分に陶酔しているような一面も見受けられるからだ。同時に、フィードバックされた母親の意識も要するに「捨てたり殺した子供を可愛がろうとしている」のであり、やはり独善的というべきだろう。
Coccoの歌に『ベビーベッド』というものがある。


あなたに瓜二つの 生き物が 私の子宮から 出てきたら
バンドを呼び集めて 舞い踊り その子の誕生を 喜ぶわ
あなたのように 私を捨てないように
鉄の柵で作った 檻に入れて眺め 乳を与えあやして いつもいつも見てるわ 
壊れるぐらい 愛してあげるの
届かない 影を追い求めて 一人で泣き叫ぶ毎日を くり返さないように


これは母性を歌いつつも、その愛情が明らかに常軌を逸している様が描かれている。
また劇の翌日に観た『母なる証明』も「息子を殺人犯とされた母親が無実を証明する為に走り回る内に、息子が本当に人を殺している(厳密に言えば殺人ではなく傷害致死に近い)事を知って、その目撃者を殺す。」という映画で、タイトル通り母性の逸脱を描いた映画だった。
カリンの母性は、この両者に極めて近しい性質を持っている。
実際、異界の住人の大半はカリンに肯定的だが翔三郎と恋愛関係に落ちるミズキという少年人形だけが「(ここには悲しみもないけれど)大きな喜びもない」と語っている。そして彼は外から来た翔三郎と出会うことで大きな喜びを得る。
また最終的に、異界は崩壊してカイや翔三郎は外へ戻る。
だから本来は、この異界はテーマとしても「否定されておかしくない」のだ。
しかし終盤ではカリンの行いは母親の有り得べき心情として、むしろ悲壮に、肯定的に書かれている。
こういった部分を最終的に肯定するのは構わない、だが客観性というか「その守り方は歪んでいるのではないか」という視点からの具体的な展開に欠ける為、結局彼女が独りよがりなまま肯定されている印象が強い。
ここら辺を考えて、加害者にも見えるのに一度も突き放さずに可哀想としてしまう自己肯定のあり方が女性っぽいと言うか、ケータイ小説っぽいなぁ……という印象を受けて調べたら女性が書いたホンだった。性差の偏見はそこまで強くないつもりだが、やはり癖というのは出るもんだろうか。
崩壊の原因も、カリンと共に異界を支えていた少女ミドリハ(一応ヒロイン)が、カイを助ける為に力を使ってしまったので、結果的に結界を維持する力が失われた……というもの。
カイが一因ではあるが、あくまで間接原因でありミドリハもカイを守ったからと言って崩壊を望んでいた訳ではない。いわばこの終焉は「事故」なのだ。
意志とは関係なく結果的に外に戻って、他人の男を孕んだ元カノであるマリモ(カイの悩みの原因)がヨリを戻したいと向こうからやって来て、妊娠に触れず手を繋ぐだけでは、聊か終着点としては弱すぎる。
またミドリハや翔三郎とミズキの物語も、かなり中途半端な印象を受ける。
ミドリハは「自分を抱いてくれた人(お母さん)」をずっと求めているのだが、最終的にそんな人は出てこない(ある可能性を除いてだが、多分その可能性は低い。詳細は後述)し、お母さんにあげる為に彼女が集めていた言の葉というのも、結局カイに渡し、カイがマリモに渡すという案配だ。カイはまだしも、やはりミドリハの立ち位置があまりにも寂しい。彼女の望みは、叶えられなかった。
翔三郎も、ミズキに庇われ、更には異界そのものが崩壊することによって完全な別離を経験する。それはまだいい。だが、元の世界に戻って、彼らを探す捜索隊の姿を見ると大喜びの様で手を振り大声で叫んだりする。彼にとって、果たしてミズキとはなんだったのか。
ついでに言えば、「カリンとマリモは瓜二つ」「翔三郎にはカイにも言えない悩みがある」という点も未消化に思える。少なくとも似ている理由について言及されることはないし(世界観からして輪廻くらいはありそうだが、一言も無い)カイについては「同性愛について悩んでいる」と言及されるが、それは容易に察しうる事であって、殊更に言うほどには思えない。カイに想いを寄せていた、辺りならばまだ納得出来るんだが。
他の脇に置かれるキャラクターに対して、さほど不満は生じない。しかしメインテーマを張るはずのカイ・翔三郎・ミドリハ・カリン(+マリモ)の物語が悉く消化不良で正直困惑した。



普通の人なら文句だけ言って終わりで良いと思うのだけれども、やはりそこは僕個人の嗜好として「どんな物語ならば成立させられるか?」を考えていきたい。
正直終盤だけを変えて綺麗に収めたいところなのだが、そうすると必然中盤までも設定レベルに伴う変更が必要となる。
大まかに二通りの筋書きを考えた。
カリンは実は双子を産んでいた。
片方の子供は自ら奪って死なせてしまい、もう片方の子供は養子になった。
その子がマリモである(だから容姿が似通っている)
ここで、マリモとその子供について設定を変更することで、幾つか展開が想定出来る。

(1)マリモは、以前男性と交際し、子供を捨てていた事が分かる。その嫌悪感からカイはマリモの元を去った。実は、その子供がミドリハである。だからカイに懐いたのだ。ミドリハはここから抜け出したいというカイの意志を尊重して守り、言の葉を託す。

(2)マリモは子供を捨てたが、その子供は生きていた(ミドリハ)故に、ミドリハは生身の人間であり、だからこそ結界としての役目を果たせる。だがミドリハはこの世界から離れないままに母親に会うことを希求して残るが、代わりにカイに言の葉を託す。

(3)カイは、自らマリモを妊娠させ親になる重圧から逃げようとして別れる(カリンの相手と相似形)だが、この世界に触れて自らの素性を想い、子供を捨てる事、子供を孕んだ母親から逃げる事の意味合いに気付き、向き合うことを決意する。ミドリハはそれに協力するが、傷付き倒れる。そこでカイはミドリハが「自らがマリモに孕ませた子供の魂」(未だ生きている子供の魂)であると気付く。この世界には時間が流れていない。よってカイが「未来の魂と出逢う」可能性も秘めていたのだ。カイは言の葉を託され元の世界に戻り、マリモと再会し、子供を守り育てることを決意する。

どれも選べそうだが、似非SF者の端くれの端くれとしてはSF性の強い(3)を押したい。
物語的にはこうすることにより、何故ミドリハがカイに入れ込むか、明確な理由が出来る。
そしてこの設定では、マリモとカリンが似ているのは血縁だからで、またカリンがミドリハを特別扱いし、ミドリハが特別な力を持つのは彼女の孫に当たるからであり、カイに親近感を持つ事も合点が行く(ドラマ上本人が自覚しているとは考えにくいが、観客から見ればカリンが惹かれた男と同じ要素を持ち、カリンの娘と懇意な人間だったからと納得出来る)
この設定に於いてはミドリハの語る「捨てられても愛してる存在」、というのは即ちマリモやカイを示す。ミドリハが恨んでもおかしくないのに愛する相手は分からない「誰か」ではなく、この舞台に上がっているキャラクタが好ましい。
それによってこそ、彼女の愛情も深化すると言えるだろう。
カイも捨てられ、捨てるという両義を内包するキャラとして書くことが可能だし、マリモもミドリハによっては否定されない。

そして一番の理由。
ラストでカイがマリモに言葉を渡すのは勿論彼自身の感情を表した行動であるが、結果的にミドリハが母親に言の葉を渡すことにも繋がるのだ。

更にこの関係性は、カイの通過儀礼にも関わってくる。
通過儀礼の物語として考える時、意志の内在が重要な点になる事は先に述べた。
しかしカリンが超常的な力を持つ以上、それに対抗する者もまた超常的な要素を持っていなければならない。故に、ミドリハがカイの意志を汲んでカリンに対抗する事でパワーバランスが保たれる。
ただ問題点としては、ミドリハ頼りになってしまっては結局カイの見せ場が無くなってしまう(実際オリジナルには無いのだが)。よってカイも能動的に何かを為すことで、世界から抜け出す切っ掛けを作る役目を負わせることが肝要だろう。
もう一つ、気に掛かる部分はカリンを抑圧的な母親として描き、乗り越える為の存在とした場合、ヒナタとヒカゲの存在がやや薄くなってしまう点だろう。彼らはオリジナルに於いて母親の意志を自ら解釈し、行動する存在だ。
物語的にはカリンを汚さない為の設定を感じてしまう部分はあるが、やはり自意識で行動するところに彼らのキャラクタがあると言える。
けれども、カリンを乗り越えるべき存在として中核に置く場合、あくまでも主はカリンでかれら二人は従に為らざるを得ない。カリンの手下、というレベルになってしまう可能性が高いのだ。そこ辺りの塩梅は相当難しいので、出来れば彼らを自意識で行動させつつ、カリンが歪んだ愛情からそれを受け入れ肯定する事で、この世界そのものの歪さを表現していくのが妥当かもしれない。

なお、この物語はカイがカリンという疑似母親を否定することで成立するけれども、前述したように何も、全ての登場人物が完全に否定する必要はない。
よって例えば翔三郎があの世界(の名残)に残ってみたり、ミドリハが生身の人間だった(という設定で)あの場所に尚残る、とすればカイのアンチテーゼにもなるのではないか。
特に翔三郎は理想郷だから残る、という訳ではなくミズキの存在した場所だからそこを選ぶのであり、またカイと似たように迷い込んできた人間が、最終的に理想郷として成立しなくなった世界に敢えて留まるのは、カイの心情や結論が必ずしも絶対ではない事を示す展開になるし、そうすれば翔三郎の気持ちや彼を中心に物語を見据えた場合、また違う物が見えてくるだろう。

物凄く長くなってしまったが、裏を返せばそれだけ色々考えるに足りる作品だったという事だ。再演する話もあるそうなので、あるならばまた行ってみたいとも思う。