『キノの旅』にある「無意識の偏り」 | リュウセイグン

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私は誉める物はトコトン誉めるが、貶す物はトコトン貶す。
多少譲歩する場合もあるのだけれども、基本的には手厳しいタチだ。


ただ、貶す物は単につまらないから貶すのではない
つまらない作品というのは、ただそれだけの物だから別に存在していようがいまいが全く構わない。


しかし作品の後ろに人間の傲慢さが見え隠れする時、思わず憤慨してしまうんである。
『キノの旅』を読んだ時もそうだった。
多くの人が知っているとおり『キノの旅』は短編集なので、それぞれのエピソードには相当な開きがある。
そのなかで、なかなかいい話もあるし、時にはしんみりもさせられたりする。


けれど基本的な路線の場合、妙な部分が多く紛れ込んでいたりするのだ。


以下の文章は手元に本が無いので記憶に頼っている部分が大きい。
しかし、そう見当はずれな記憶違いは恐らく無いはずだ。


一番最初に違和感を覚えたの「コロシアム」だったか。
この話ではキノはコロシアムの闘士として繋がれ、戦わされる。
で、結局色々あって王様を殺害するんだな。


まぁ理由はくっついているんだけれど、ここでもうアレ? ですよ。
キノっていうのは基本的に無色透明……って感じになってる。
郷に入っては郷に従えで、その国のルールを守りただ通過していくだけ(実際「二人の国」では夫の殺害を依頼されて「内政干渉だから」と断っている)


国王殺害とか内政干渉の最たるもんだよね……?
確かに国王がロクデナシだったし、シズの事情もあったんだろうから珍しく殺したくなったのかもしれない。
でも「一級市民で殺し合い」っていうのは流石にやりすぎに思える。
いや、主人公がロクデナシならいいんですよそれで。
でもアンタ関わりは最小限にするような人じゃなかったの?
という。余程怒ってらしたんでしょうか。


そういう視点で見ると「多数決の国」もちょっと変。
この話は多数決という一見理想的な手法に潜む危険性を書いている。

書いてはいるのだが、この場合問題なのは多数決という手法じゃなくて「少数派=死刑」という図式なんじゃないだろうか。
もちろん「少数派=死刑を多数決で決めた」という形に出来なくはない。でもそんな自分の身に降りかかってきそうな危ない橋を誰が渡るのか?
最後の一人は結果的に一万三千六十四回も危ない橋を渡ったそうです。

それは制度の問題じゃなくてソイツらがバカなだけじゃないの?


そう、キノの旅って寓話だとか風刺だとか言われてるけど全然ちゃんとした風刺になってないんだよね。
だって登場人物が必要以上にバカなんだもん。
例えば多数決で独裁者に絶対権限を渡して好き勝手されたとかなら分かるよ。
↑なら歴史的にもある話だしさ。

でも、そうじゃない。

制度としての問題点を指摘するんじゃなくて、制度を運用している人々を普通からは考えられないくらい低レベルに貶める事で無理矢理批判的な方向に持っていってる
そんなん風刺でもなんでも無いだろ。

6巻の「忘れない話」もそう。
これ明らかに阪神大震災なんかを想起すると思うんですけど、私はその直後にナショナルジオグラフィックのドキュメンタリー物を見ていたんですね。

で、福知山線脱線事故の際に通報が早かったりしたのは住民の意識に阪神大震災の経験が生きていた為だそうです。また阪神大震災ではガレキに圧迫された人が急に解放される事によりクラッシュ症候群が引き起こされ、命を落とす人も多かったそうです。しかし福知山線事故の際はやはり経験が生かされて、クラッシュ症候群を引き起こさないように処置してから救出する事で人々が助かった

一般市民レベルですら経験を役立ててるのに、この国民は何にも考えてない。
こりゃ国民がバカというよりも作者がバカなんじゃないかとすら思えてくる。
ま、戦争に置き換えると必ずしも否定出来ない向きもありましょうが、キノが誰にも告げずに一人でトンズラこいてるのも……ねぇ。

忠告が聞き入れられないじゃダメなんだろうか(それはそれで嫌らしいが、読者を騙す助けにはなる)
何にも言わないとキノがただの嫌なヤツに見えるぞ。

実際キノは偏見が無いように書かれているけど、実はとても偏った人間だ。
4巻の「二人の国」で見合いという制度に
結婚は好きな人同士がするんじゃないですか?(取意)」
ときたもんだ。

あのねぇ、キノ世界じゃいざ知らず、普通の世界じゃ自由恋愛結婚なんて歴史の中でも限られた時期、限られた人間にだけ許される極めて特殊な事例なんだよ!

リベラルなのは構わない(私も自由恋愛結婚というのは素晴らしいとは思う)が、それをさも当然のようにかたるなって。
キノの思考回路は極端な社会進化論者に近い

つまり無知蒙昧で閉塞的な原始社会が次第に洗練されて自由で民主的な社会に進化していく……ってヤツ。
西欧植民地主義の大義名分となり、ナチズムの萌芽にもなった思想だ。

現在でもアメリカが中東を始め世界に対してちょっかいを掛けているが、アレは単に利権だけではなく何処かこういう思考を持っているからのようにも見受けられる。


これは、恐らく時雨沢恵一がアメリカ留学していたのと関係してくるんじゃないだろうか。

キノではしばしば自衛の暴力に対して肯定的な見解が頻繁に出てくる。
もっとも明確なのが6巻の「彼女の旅」と「安全な国」だ。

前者は非暴力を訴える女性を守る為、陰で男性が暴力を用いていたっていう話。

後者は安全と称して極端に物を規制する国。出ていくキノに門番が「物が悪いんじゃなくて、大事なのは使う人の意志次第なんじゃないか(取意)」と問い掛ける。キノは否定するが、実のところ師匠の教えと一緒の考えだった。何故否定したのかと言えば「門番の思想が危険視される」だろうから。


確かにこれ、一理はあるのかもしれない。
特に「彼女の旅」は極端すぎるが、なるほどという部分もある(これも日本とアメリカの関係に通じる)
ただし「安全な国」はどうだろう。
やはり極端さが一つの問題ではあるんだが、それ以上に「使い手次第だから持っててもいいじゃん」という考え方は、理想論に過ぎない

道具を持てる以上は使い手もまた多種多様であるから、よからぬ手段に用いる人間はほぼ間違いなく出てくるだろう。他に使い道があるなら兎も角、それが他者を殺傷するのが主目的の道具で犯罪を助長するならば規制するのも一つの手段なのだ。
少しずるい事例かもしれないが、それこそ日本とアメリカの銃犯罪の多寡を比較(人口比等まで含め)すれば明らかだ。
また麻薬などにも、同様の理屈が当て嵌まるかどうか。


加えて自衛の為とは言え、容易に暴力を行使する道具を持っていて、尚かつそれを使うのを躊躇わない場合の弊害として
悪意のない第三者にも被害が及ぶ可能性
誤解による過剰防衛の可能性
がある。

キノの相手は素晴らしい事に自分から分かり易い悪者になってくれたり殺されても仕方ない印象を与える程愚かだったりするのでキノ自身の印象低下には繋がらないが、それは単に作品世界に於ける神の寵愛があるから書かれないだけで普通は充分に起こり得ることなのだ。


この様に『キノの旅』は非常に公平性に欠ける寓話であるが、どうして支持されるのかと言えばそれが中学生の時分によく考えたくなる社会批判に酷似しているからだと思われる。

社会は汚い。社会がむかつく。
社会の事なんかよく知らない。
だけど、おかしいはずなんだ。


というニーズに見事応えてくれる作品なのだ。
的外れな考えでで難癖を付ける点までもが中学生にはピッタリだ。
社会の歪みを指摘したという自尊心にも訴えかけてくる。
深い、とすら思えてしまう。

これは竹P作品にも共通する要素であり、きっとアレが支持されるのにも同様の背景があるんじゃないかという気持ちになる。


ただ、良かれ悪しかれ『キノの旅』は短編集なので評価出来る部分もある


7巻の「冬の話」は、上記のキノ観をある程度払拭してくれるようなストーリーだったからだ。
社会のルールを乱す訳ではなく、それに則りつつも自らの意志を沿わせるという部分は従来の物語からすると、かなり視野が広くなっている。
だから、私はシリーズを7巻で止めている

だってそれ以上読んでまた嫌な話が出てきたら元の木阿弥じゃん

7巻にも嫌な話はあるので、「冬の話」が本当の意味で偶然の産物である可能性は高い。


では「冬の話」が私のベストエピソードか、と言えば実は違う

一番素晴らしい話は「絵の話」だ。

戦争の悲惨さ、平和の素晴らしさを忘れない為にと戦車の絵が沢山飾ってある国。
人々は口々に戦車の絵は平和の寓意なんだと語る。
しかし本当のところ、絵描きは戦場を蹂躙するような戦車が好きなだけだった……て話。
何処が面白いのか。


この話は「送り手の意図を汲めない国民」が滑稽な印象を与えるように書かれている。
つまり「送り手受け手の祖語」がポイントになる訳で、作者の意向が中心であるという考え方に裏付けられている。
しかし、近代の評論では「作者の意図」は必ずしも重要ではなくなってきているという。


聞きかじりになるが、
作品は成立した以上はそれ独自として存在する物であり、作者の意図はあくまで解釈者の一人に過ぎない
という様な考え方だ。


これを「絵の話」に当て嵌めるとどうなるか。
国民は滑稽ではなく、むしろ近代的評論の体現として至極当たり前の行為をしているに過ぎない。

「戦場でカッコイイ戦車」の解釈はあくまで作者という評論家の意図であり、それは「平和の寓意」を解釈する国民と並立する

こういう意味合いが出てくる。

国民が意図を汲めなくて滑稽などというよりも、よほど深化した物語となるのだ。


ここで問題。

さて……作者・時雨沢恵一は「絵の話」のこういった読み方を意図した上で書いていただろうか?


恐らく考えていない。
「続・絵の話」というのもあるが、どちらかというと国民を更に貶めるような話だった。



作者の意図中心の作品理解というテーマしか考えていないからこそ、作者の意図したテーマよりも深い読み方が出来る作品が完成してしまったと言う訳。


だから
本人が意図した段階で成立しなくなってしまう希有なる傑作
と言える。


これぞ皮肉の極み

作者自身が寓話・風刺の対象になってしまうという奇妙さが、ベストエピソードの理由だ。


恐らくこれを上回るエピソードは出ないだろう。