この度、このブログで世間をお騒がせしていることを、ここに謝罪します。
昨日のコメントにおいて、反対意見が多数寄せられたため、まとめてこの場で返信いたします。
それに際し、貴重なご意見をくださった方を名指しして反論するのは良くない、と考えるため、個々に対する返信ではなく、全体に対しての返信、とさせていただくことご理解お願い申し上げます。
なお、それに先立ち、本件は、私のブログ読者様、アメンバー様とは、全く無関係であることを、既にお分かりとは思ってはおりますが、ご理解くださるよう、重ねてお願い申し上げます。
まず、
「学問的に間違えていることが受験においてどう有用かが分からない」
「小手先の受験テクニックがあれば、学問的に正しくない知識であったとしても解けるほど東大の問題は、東大は、甘くはない」
というご意見に対しお答えします。
その通りであると考えます。
受験というものは、小手先のテクニックで解答することは出来ないでしょう、ですから、化学の新研究(以降、新研究)に載っている、間違った説明を解答欄に書いて問題を解答した場合、×になる可能性も否定はできません。(そのような出題がなされるかは別として)
しかし、たとえば、大学側が出題した問題が、
大学での実験を作問背景にした、受験生は初見の問題で、
かつ、その作問背景が、受験用参考書では、新研究にしか記載されていないような事柄であったとします。
その場合、「新研究の記載は学問的に間違っているから、新研究は使わない」とする高校生と
「新研究は間違いもあるが、色んな背景が書いてあるから使おう」とする高校生がいたとして、果たして、どちらが有利になるでしょうか?
受験生にとって初見でありますから、当然、多くの受験生は、まず題意を掴むことから始めなければなりません。
しかし、新研究で作問背景を知っている受験生ならば、「あぁ、あの話ね」と、題意を掴むのに要する時間をぐっと押さえることが出来ます。
そしてそれはそのまま、試験中における時間のゆとりと精神的ゆとりとなります。
そのことが、受験において、他の受験生より有利に働くことは明らかであります。
しかし、とお思いになられる方もいらっしゃると思うので、逆のパターンについても考察します。
大学側が
(世に、新研究なるものが出回っているが、化学的に間違いだらけである。うちは本質が分かっている学生がほしいから、あえて新研究にある間違った知識を使うと間違える問題を用意しよう、と考えてかどうかは分かりませんが、)
結果として、新研究にある間違った知識が関係する問題で、かつ新研究のように考えると混乱する、あるいは間違う出題がなされたとします。
この場合、逆に混乱するのは、新研究を用いて勉強した受験生であり、
その受験生、まして、合格しなかった受験生の気持ちを考えると、
(※この「相手の気持ちを考える」ことの重要性、及びそれに対する反論については、後程詳しく考えていきます。)
「自分は真面目に新研究で学んできた、なのにこの仕打ちは何だ‼自分は新研究に騙された!!!!」
と考えるのは、当たり前であります。
その点において、
「大学に入って得る知識はまぎれもなく『真実』であり、それにそぐわない知識が新研究に書かれているなら、新研究が僕達を騙していると言える」のは、もっともなことであります。
では、新研究は使用しない方がいいのでしょうか?
私は、前者のケースと後者のケース、どちらの方が可能性が高いか、で議論したいと思います。
新研究の間違いは、大学に入って、「真実」を学んだときに明らかになるものです。
それ故、新研究の間違いは大学レベルのものです。
その大学レベルの間違いで混乱や誤答を誘う問題が、入試で出題されるでしょうか?
もちろん、否定はできません、当たり前です。
しかし、大学受験の問題は、高校生が習ったことで解けるように出来ており、本来、大学レベルでの議論は不要であります。
それ故、大学レベルでの間違いで混乱や誤答を導く問題を出題するのは、非常に難しいと考えます。
もちろん、そのような出題があった場合、それのせいで落ちた人の気持ちを考えると、
新研究は許しがたいものであります。
私も、新研究を全肯定するつもりはありません。
学問的に正しくないことを書いている本が、全肯定される訳がありません、当たり前です。
しかし一方、前者のケースが大学受験で多いのも、また事実であります。
それ故私は、前者と後者では、前者の方が可能性はかなり高いと考えます。
従って、新研究を使うことのメリットとデメリットでは、新研究を使うことのメリットの方が大きいと考えます。
「大学に入ってから後のことも考えると、間違った知識を得るのは嫌」なのは、かくいう私も同じであり、
このことについて、情報提供者と、「出版社に間違いを指摘すべき」という点では合意しておりますし、
出版社に間違いを伝えるつもりであります。
(これに際し、間違いを列挙していただけると幸いです。)
また、
「もし説明部分に誤り(というか不完全性なもの)があるなら、その部分に注釈を付けてくれればな」
という意見にも、全面的に賛成いたします。
このように、建設的な議論を重ねるのが、本来の学問的姿勢であると考えます。
私も、自分の考えを一歩前に進めることができました、ありがとうございました。
我々の指摘を受け、新研究が、いつか、学問的に真に正しい辞書本となることを願うばかりであります。
さて、次に、「相手の気持ちを考える」ということについて考えたいと思います。
まず、
「先方が大学のレポート作成に忙しい、とありますが、このような学術的論争において大学の沽券に関わる議論であればレポート作成より優先して行われるはずです。それがなされないというのは、先方がその重要性を感じておらず、あなたと議論を交わす意思はない、またはこの議論事態に価値を認めていない、ということではないでしょうか?」
という意見に対しお答えします。
先方の意図は分かりかねますが、すでに議論は平行線になっておりましたし、
(それには、私が、前述した通りのしっかりした議論が出来ていなかったことも原因の1つであり、それは申し訳なく思っております。)
レポートを作成しなければ、被害を受けるのは先方自身であることは明白であります。
いくら大学の沽券に関わろうとも、
(正確には、大学の沽券、ではなく、あのプリントを作成した教授の沽券、ですが)
自分の方が大事なのは、当たり前であります。
学者ならいざ知らず、大学生に、自分を犠牲にしてまで、学術的論争や大学教授の沽券を守ることを要求するのは、無謀であります。
先方は、「こんな分からず屋と話して時間を無駄にするより、自分のことを考えて、レポートを書こう」とお思いなのかもしれません。
また、
「『第一に~「捨てろ」という攻撃的かつ挑発的な言葉で批判するのは、相手の気持ちを考えておらず、到底理解できるものではなく、非常に遺憾である。』
について、学術的正確性の欠如の批判よりも、教授の気持ちを尊重するべきという慈悲深い考えには大変心打たれます。本番の試験でも、採点者がきっとあなたの回答に叙情酌量してくれることでしょう。」
についてです。
「慈悲深い」という言葉は、お褒めの言葉として受け取っておきます。
それはさておき、
確かに、本番の試験では、解答者の気持ちなど考慮されないでしょう。
しかし、それは、試験というものが、答案が正しいかどうかのみをみるものであるからであります。
試験と、実際の社会生活と、混同するのは止めていただきたい。甚だ迷惑であります。
貴方はこうおっしゃるかもしれない、
新研究の学問的間違いを批判することが、日常の社会生活なのか、と。
確かに、新研究の間違い自体、学術的分野である以上、日常の社会生活とは言い難いです。
しかし、後々まで残る、また拡散したときに証拠となりうる、プリントという形で「捨てろ」と一般の大学生に配布し、著者をバカにすることは、拡散の可能性、及び、拡散したときに受け手がそれを信用する可能性、さらには、それにより、受け手が再び発信する可能性も考えると、立派な社会的行為であります。
それでも、「何がなんでも正しいものが正義だ」とおっしゃるかもしれない貴方に、1つ分かりやすい例を示して差し上げましょう。
仮に、貴方に同級生の恋人がいたとします。
(何を言い出すんだこのバカ、とお思いになられるかもしれませんが、暫しお付き合いください。)
そして、その恋人が小さい頃、家族とある国に旅行に行った時に、割といいパックツアーで旅行したにも関わらず、
何もしないのに、現地の人はすぐ怒って怖いわ、
割と高級ホテルに泊まったのに、泊まっていたホテルの部屋の窓は外れるわ、で、
全く楽しめないどころか、トラウマになってしまって、その国を嫌いになり、もう二度とその国に行くものか、と思っていたとします。
あるとき、恋人の入っているサークルで卒業旅行が企画され、その卒業旅行は、恋人がトラウマになっている国に1週間の旅行をすることが例年のことになっていました。
(サークルの代表顧問の先生が、その国に卒業旅行することに強い意義を感じており、旅行場所を変えることはできません。)
恋人も、そのサークルが例の国に卒業旅行で行くことは知っていましたが、サークルの他の要素が楽しみなので、そのサークルに入るとき、「自分は卒業旅行には参加しないぞ」と心に決め、サークルに入りました。
そのサークルで貴方と出逢い、貴方とお付き合いすることになりました。
そして、卒業旅行の季節になりました。
恋人は、昔の自分の心の傷のことは貴方に言っていませんでしたし、貴方もそれを知らず、当然、恋人も一緒に卒業旅行に行くと思っていました。
その時、急に恋人は貴方に告げます。
「ごめんなさい、卒業旅行は行けません。」と。
ビックリした貴方は訳を聞くと、恋人は昔あったことを話しました。
貴方は、ある1つの悪いことがあったからといって、その国に偏見を持つのは間違っている、という正義のもと、
(後で後悔させたくない、恋人のトラウマを払拭してあげたいという想いも相まって、なのかもしれませんが)
「何かあっても、そばにいるから、大丈夫」と、恋人に旅行に行くよう、恋人があまりいい返事をしていないのに、何度も強く勧めました。
・・・さて、ここで「貴方」がしたことは、確かに、論理的には正しいです。
昔会った現地の人がたまたま気性が荒かったからといって、その国の国民全員が気性が荒い、というわけではありませんし、
昔泊まっていた高級ホテルの窓が外れたからといって、その国のホテル全ての窓が外れるわけではありません、当たり前です。
トラウマはいつか払拭したほうがいい、というのは正しいですし、
なにより、小さい頃から行っていない国を、最近はどうかということを知りもしないのに嫌うのは正しくないです。
・・・本当に、「貴方」がしたことは、正しいのでしょうか?
この話では、きっとこの後、「貴方」は恋人に別れを告げられるでしょう。
それがなぜだか、分かりますか?
「正しい」ことをしたのに、別れを告げられるのがなぜだか、分かりますか?
それは、「貴方」が相手の気持ちを考えていないからですよ!!!!
「論理的に正しい」ことと、「社会的生活ですべき正義」とは違うんです。
「論理的に正しい」からといって、それが相手の気持ちを考えていなければ、「社会的生活ですべき正義」ではないんですよ。
だから、「何がなんでも正しいものが正義だ」は間違っているんですよ。
これでもまだ分からないなら、もう私はどうすることもできません。
いつか身をもって経験してください。
ただし、その時は、自分のかけがえのない、大切なものを失うことになりますよ?
そして、それは、いくら後悔しようが、泣いて詫びようが、自分をどれだけ呪おうが、
決して返ってきませんけどね。
話が違いますか?
確かに、学問的な話ではありませんが。
・・・本当に違いますか?
「捨てろ」というプリントを配ることが社会的行為であることは、先にお話ししましたが?
さて、最後に、
「極めつけは、
『↑「もちろん」東京大学ではありません
(^^)』
の部分。
気持ちを考えろと、喚起した直後にこの大学への侮辱。
学び舎である大学を、偏差値でしか捉えられい上、それを貶める発言。
『↑「もちろん」東京大学ではありません
(^^)』という攻撃的かつ挑発的な言葉で批判するのは、相手の気持ちを考えておらず、到底理解できるものではなく、非常に遺憾です。
そういう台詞は受かってから言いましょう。」
についてです。
私は、「東京大学」を、自分の志望校、として発言しています。
志望校に、あのような、相手の気持ちを考えない教授がいたら嫌ですから。
仮に志望校が東京大学ではなかったならば、『「もちろん」○○大学ではありません』と発言していました。
故に、「学び舎である大学を、偏差値でしか捉えられい上、それを貶める発言」ではありません。
しかしながら、東京大学という偏差値故、誤解を招く発言であったことは、コメントを下さった方、及び関係者の皆様に、この場を借りて、謝罪いたします。
さらに、「この大学への侮辱」と仰る方がいらっしゃるようですが、
どちらかというと気の毒に思ってはおります。
周りに相手の気持ちを考えない人がいると、どんどん自分もそれに慣れ、いつか自分も、相手の気持ちを考えない人になってしまうかもしれないからです。
しかしながら、そうでない、きちんと相手の気持ちを考える学生や教授もいらっしゃる事実をないがしろにして、ある大学を批判したように受け取れる発言をしてしまったことは、申し開きのしようがありません。
ここに、コメントを下さった方、及び関係者の皆様に、この場を借りて謝罪するとともに、
「↑『もちろん』東京大学ではありません(^^)」という発言を撤回し、改めて謝罪いたします。
と同時に、
「『第一に~「捨てろ」という攻撃的かつ挑発的な言葉で批判するのは、相手の気持ちを考えておらず、到底理解できるものではなく、非常に遺憾である。』
について、学術的正確性の欠如の批判よりも、教授の気持ちを尊重するべきという慈悲深い考えには大変心打たれます。本番の試験でも、採点者がきっとあなたの回答に叙情酌量してくれることでしょう。」
という発言に対し、
相手の気持ちを考えることの重要性を、試験における答案の正確性と履き違えていらっしゃるようなので、ここに正式に撤回を要求いたします。
たくさんのコメント、ありがとうございました。
長々と申し訳ありませんでした。

昨日のコメントにおいて、反対意見が多数寄せられたため、まとめてこの場で返信いたします。
それに際し、貴重なご意見をくださった方を名指しして反論するのは良くない、と考えるため、個々に対する返信ではなく、全体に対しての返信、とさせていただくことご理解お願い申し上げます。
なお、それに先立ち、本件は、私のブログ読者様、アメンバー様とは、全く無関係であることを、既にお分かりとは思ってはおりますが、ご理解くださるよう、重ねてお願い申し上げます。
まず、
「学問的に間違えていることが受験においてどう有用かが分からない」
「小手先の受験テクニックがあれば、学問的に正しくない知識であったとしても解けるほど東大の問題は、東大は、甘くはない」
というご意見に対しお答えします。
その通りであると考えます。
受験というものは、小手先のテクニックで解答することは出来ないでしょう、ですから、化学の新研究(以降、新研究)に載っている、間違った説明を解答欄に書いて問題を解答した場合、×になる可能性も否定はできません。(そのような出題がなされるかは別として)
しかし、たとえば、大学側が出題した問題が、
大学での実験を作問背景にした、受験生は初見の問題で、
かつ、その作問背景が、受験用参考書では、新研究にしか記載されていないような事柄であったとします。
その場合、「新研究の記載は学問的に間違っているから、新研究は使わない」とする高校生と
「新研究は間違いもあるが、色んな背景が書いてあるから使おう」とする高校生がいたとして、果たして、どちらが有利になるでしょうか?
受験生にとって初見でありますから、当然、多くの受験生は、まず題意を掴むことから始めなければなりません。
しかし、新研究で作問背景を知っている受験生ならば、「あぁ、あの話ね」と、題意を掴むのに要する時間をぐっと押さえることが出来ます。
そしてそれはそのまま、試験中における時間のゆとりと精神的ゆとりとなります。
そのことが、受験において、他の受験生より有利に働くことは明らかであります。
しかし、とお思いになられる方もいらっしゃると思うので、逆のパターンについても考察します。
大学側が
(世に、新研究なるものが出回っているが、化学的に間違いだらけである。うちは本質が分かっている学生がほしいから、あえて新研究にある間違った知識を使うと間違える問題を用意しよう、と考えてかどうかは分かりませんが、)
結果として、新研究にある間違った知識が関係する問題で、かつ新研究のように考えると混乱する、あるいは間違う出題がなされたとします。
この場合、逆に混乱するのは、新研究を用いて勉強した受験生であり、
その受験生、まして、合格しなかった受験生の気持ちを考えると、
(※この「相手の気持ちを考える」ことの重要性、及びそれに対する反論については、後程詳しく考えていきます。)
「自分は真面目に新研究で学んできた、なのにこの仕打ちは何だ‼自分は新研究に騙された!!!!」
と考えるのは、当たり前であります。
その点において、
「大学に入って得る知識はまぎれもなく『真実』であり、それにそぐわない知識が新研究に書かれているなら、新研究が僕達を騙していると言える」のは、もっともなことであります。
では、新研究は使用しない方がいいのでしょうか?
私は、前者のケースと後者のケース、どちらの方が可能性が高いか、で議論したいと思います。
新研究の間違いは、大学に入って、「真実」を学んだときに明らかになるものです。
それ故、新研究の間違いは大学レベルのものです。
その大学レベルの間違いで混乱や誤答を誘う問題が、入試で出題されるでしょうか?
もちろん、否定はできません、当たり前です。
しかし、大学受験の問題は、高校生が習ったことで解けるように出来ており、本来、大学レベルでの議論は不要であります。
それ故、大学レベルでの間違いで混乱や誤答を導く問題を出題するのは、非常に難しいと考えます。
もちろん、そのような出題があった場合、それのせいで落ちた人の気持ちを考えると、
新研究は許しがたいものであります。
私も、新研究を全肯定するつもりはありません。
学問的に正しくないことを書いている本が、全肯定される訳がありません、当たり前です。
しかし一方、前者のケースが大学受験で多いのも、また事実であります。
それ故私は、前者と後者では、前者の方が可能性はかなり高いと考えます。
従って、新研究を使うことのメリットとデメリットでは、新研究を使うことのメリットの方が大きいと考えます。
「大学に入ってから後のことも考えると、間違った知識を得るのは嫌」なのは、かくいう私も同じであり、
このことについて、情報提供者と、「出版社に間違いを指摘すべき」という点では合意しておりますし、
出版社に間違いを伝えるつもりであります。
(これに際し、間違いを列挙していただけると幸いです。)
また、
「もし説明部分に誤り(というか不完全性なもの)があるなら、その部分に注釈を付けてくれればな」
という意見にも、全面的に賛成いたします。
このように、建設的な議論を重ねるのが、本来の学問的姿勢であると考えます。
私も、自分の考えを一歩前に進めることができました、ありがとうございました。
我々の指摘を受け、新研究が、いつか、学問的に真に正しい辞書本となることを願うばかりであります。
さて、次に、「相手の気持ちを考える」ということについて考えたいと思います。
まず、
「先方が大学のレポート作成に忙しい、とありますが、このような学術的論争において大学の沽券に関わる議論であればレポート作成より優先して行われるはずです。それがなされないというのは、先方がその重要性を感じておらず、あなたと議論を交わす意思はない、またはこの議論事態に価値を認めていない、ということではないでしょうか?」
という意見に対しお答えします。
先方の意図は分かりかねますが、すでに議論は平行線になっておりましたし、
(それには、私が、前述した通りのしっかりした議論が出来ていなかったことも原因の1つであり、それは申し訳なく思っております。)
レポートを作成しなければ、被害を受けるのは先方自身であることは明白であります。
いくら大学の沽券に関わろうとも、
(正確には、大学の沽券、ではなく、あのプリントを作成した教授の沽券、ですが)
自分の方が大事なのは、当たり前であります。
学者ならいざ知らず、大学生に、自分を犠牲にしてまで、学術的論争や大学教授の沽券を守ることを要求するのは、無謀であります。
先方は、「こんな分からず屋と話して時間を無駄にするより、自分のことを考えて、レポートを書こう」とお思いなのかもしれません。
また、
「『第一に~「捨てろ」という攻撃的かつ挑発的な言葉で批判するのは、相手の気持ちを考えておらず、到底理解できるものではなく、非常に遺憾である。』
について、学術的正確性の欠如の批判よりも、教授の気持ちを尊重するべきという慈悲深い考えには大変心打たれます。本番の試験でも、採点者がきっとあなたの回答に叙情酌量してくれることでしょう。」
についてです。
「慈悲深い」という言葉は、お褒めの言葉として受け取っておきます。
それはさておき、
確かに、本番の試験では、解答者の気持ちなど考慮されないでしょう。
しかし、それは、試験というものが、答案が正しいかどうかのみをみるものであるからであります。
試験と、実際の社会生活と、混同するのは止めていただきたい。甚だ迷惑であります。
貴方はこうおっしゃるかもしれない、
新研究の学問的間違いを批判することが、日常の社会生活なのか、と。
確かに、新研究の間違い自体、学術的分野である以上、日常の社会生活とは言い難いです。
しかし、後々まで残る、また拡散したときに証拠となりうる、プリントという形で「捨てろ」と一般の大学生に配布し、著者をバカにすることは、拡散の可能性、及び、拡散したときに受け手がそれを信用する可能性、さらには、それにより、受け手が再び発信する可能性も考えると、立派な社会的行為であります。
それでも、「何がなんでも正しいものが正義だ」とおっしゃるかもしれない貴方に、1つ分かりやすい例を示して差し上げましょう。
仮に、貴方に同級生の恋人がいたとします。
(何を言い出すんだこのバカ、とお思いになられるかもしれませんが、暫しお付き合いください。)
そして、その恋人が小さい頃、家族とある国に旅行に行った時に、割といいパックツアーで旅行したにも関わらず、
何もしないのに、現地の人はすぐ怒って怖いわ、
割と高級ホテルに泊まったのに、泊まっていたホテルの部屋の窓は外れるわ、で、
全く楽しめないどころか、トラウマになってしまって、その国を嫌いになり、もう二度とその国に行くものか、と思っていたとします。
あるとき、恋人の入っているサークルで卒業旅行が企画され、その卒業旅行は、恋人がトラウマになっている国に1週間の旅行をすることが例年のことになっていました。
(サークルの代表顧問の先生が、その国に卒業旅行することに強い意義を感じており、旅行場所を変えることはできません。)
恋人も、そのサークルが例の国に卒業旅行で行くことは知っていましたが、サークルの他の要素が楽しみなので、そのサークルに入るとき、「自分は卒業旅行には参加しないぞ」と心に決め、サークルに入りました。
そのサークルで貴方と出逢い、貴方とお付き合いすることになりました。
そして、卒業旅行の季節になりました。
恋人は、昔の自分の心の傷のことは貴方に言っていませんでしたし、貴方もそれを知らず、当然、恋人も一緒に卒業旅行に行くと思っていました。
その時、急に恋人は貴方に告げます。
「ごめんなさい、卒業旅行は行けません。」と。
ビックリした貴方は訳を聞くと、恋人は昔あったことを話しました。
貴方は、ある1つの悪いことがあったからといって、その国に偏見を持つのは間違っている、という正義のもと、
(後で後悔させたくない、恋人のトラウマを払拭してあげたいという想いも相まって、なのかもしれませんが)
「何かあっても、そばにいるから、大丈夫」と、恋人に旅行に行くよう、恋人があまりいい返事をしていないのに、何度も強く勧めました。
・・・さて、ここで「貴方」がしたことは、確かに、論理的には正しいです。
昔会った現地の人がたまたま気性が荒かったからといって、その国の国民全員が気性が荒い、というわけではありませんし、
昔泊まっていた高級ホテルの窓が外れたからといって、その国のホテル全ての窓が外れるわけではありません、当たり前です。
トラウマはいつか払拭したほうがいい、というのは正しいですし、
なにより、小さい頃から行っていない国を、最近はどうかということを知りもしないのに嫌うのは正しくないです。
・・・本当に、「貴方」がしたことは、正しいのでしょうか?
この話では、きっとこの後、「貴方」は恋人に別れを告げられるでしょう。
それがなぜだか、分かりますか?
「正しい」ことをしたのに、別れを告げられるのがなぜだか、分かりますか?
それは、「貴方」が相手の気持ちを考えていないからですよ!!!!
「論理的に正しい」ことと、「社会的生活ですべき正義」とは違うんです。
「論理的に正しい」からといって、それが相手の気持ちを考えていなければ、「社会的生活ですべき正義」ではないんですよ。
だから、「何がなんでも正しいものが正義だ」は間違っているんですよ。
これでもまだ分からないなら、もう私はどうすることもできません。
いつか身をもって経験してください。
ただし、その時は、自分のかけがえのない、大切なものを失うことになりますよ?
そして、それは、いくら後悔しようが、泣いて詫びようが、自分をどれだけ呪おうが、
決して返ってきませんけどね。
話が違いますか?
確かに、学問的な話ではありませんが。
・・・本当に違いますか?
「捨てろ」というプリントを配ることが社会的行為であることは、先にお話ししましたが?
さて、最後に、
「極めつけは、
『↑「もちろん」東京大学ではありません
(^^)』
の部分。
気持ちを考えろと、喚起した直後にこの大学への侮辱。
学び舎である大学を、偏差値でしか捉えられい上、それを貶める発言。
『↑「もちろん」東京大学ではありません
(^^)』という攻撃的かつ挑発的な言葉で批判するのは、相手の気持ちを考えておらず、到底理解できるものではなく、非常に遺憾です。
そういう台詞は受かってから言いましょう。」
についてです。
私は、「東京大学」を、自分の志望校、として発言しています。
志望校に、あのような、相手の気持ちを考えない教授がいたら嫌ですから。
仮に志望校が東京大学ではなかったならば、『「もちろん」○○大学ではありません』と発言していました。
故に、「学び舎である大学を、偏差値でしか捉えられい上、それを貶める発言」ではありません。
しかしながら、東京大学という偏差値故、誤解を招く発言であったことは、コメントを下さった方、及び関係者の皆様に、この場を借りて、謝罪いたします。
さらに、「この大学への侮辱」と仰る方がいらっしゃるようですが、
どちらかというと気の毒に思ってはおります。
周りに相手の気持ちを考えない人がいると、どんどん自分もそれに慣れ、いつか自分も、相手の気持ちを考えない人になってしまうかもしれないからです。
しかしながら、そうでない、きちんと相手の気持ちを考える学生や教授もいらっしゃる事実をないがしろにして、ある大学を批判したように受け取れる発言をしてしまったことは、申し開きのしようがありません。
ここに、コメントを下さった方、及び関係者の皆様に、この場を借りて謝罪するとともに、
「↑『もちろん』東京大学ではありません(^^)」という発言を撤回し、改めて謝罪いたします。
と同時に、
「『第一に~「捨てろ」という攻撃的かつ挑発的な言葉で批判するのは、相手の気持ちを考えておらず、到底理解できるものではなく、非常に遺憾である。』
について、学術的正確性の欠如の批判よりも、教授の気持ちを尊重するべきという慈悲深い考えには大変心打たれます。本番の試験でも、採点者がきっとあなたの回答に叙情酌量してくれることでしょう。」
という発言に対し、
相手の気持ちを考えることの重要性を、試験における答案の正確性と履き違えていらっしゃるようなので、ここに正式に撤回を要求いたします。
たくさんのコメント、ありがとうございました。
長々と申し訳ありませんでした。
