彰浩は、軽快にペダルをこいでいた。

自転車は、歩く作業とは根本的に動きが違う。鍛え抜かれた自転車乗りは、歩行時の動きがぎこちなくなるほどだ。


自転車に乗っているときの景色の流れ方が、彰浩は好きだった。歩いているときは、見えている空間にほとんど動きがないように感じる。車に乗っているときは、風景の流れが少し速すぎるように思う。自転車に乗っているとき、目に映っているものが何なのか、脳でしっかり認識しながら、次々に新たなものが目に入ってくる。建物、人、橋、川、山、海、空。ひとつひとつを理性でスピーディーに処理しながら、足は絶えることなく一定のリズムで円をまわし続ける。そんなところまで心地よく感じる自分は、本当に自転車が好きなのだと思う。


その日は、遠出して海の見える峠に長距離のサイクリングに出かけていた。通る車もまばらになり、緩やかな山肌をときどき立ちこぎをしながらじっくりと進んでゆく。ときどき反射する海の青い光が、テンションを上げるとともに、ドーパミンを流出させる。


買って3年になるロードレーサーは、試行錯誤をしながら完全に自分の体に合ったものに仕上げた。メンテナンスをするときは、自分の体の部位に語りかけながらマッサージをしている気分になる。これで回転がスムーズになるかな、ちょっと傷がついちゃったな、チェーンをもう少しきつくしようか。そうして前日話をした愛車のタイヤは、そこを走っていることを喜ぶように道路に吸い付き、ほとんど無音で高速回転を続けている。


峠を上りきり、小さいくだり坂を下る。ブレーキをできるだけ使わず、次のカーブを予測しながら体を傾けていく。風の音が耳のすぐそばで聞こえ、空気を切り裂く感触を十分に味わう。対向車線から来たトラックが車線をはみ出して目の前に現れたのはそのときだった。


気づくと体は投げ出され、崖への転落を防ぐためのガードレールに背中を激しく打ちつけた。かなり運はよかった。それだけの事故にも関わらず、両手両足は動いたし、海へ落ちることもなかった。しかし、視界には、フレームのひしゃげた自転車がうつりこんでいた。


慌てて車から降りてくるドライバーと、やわらかく降り注ぐ太陽光がその光景を映画のスクリーンのように装飾し縁取った。自分の体の一部のように扱っていた愛車が、もう原型をとどめない金属片と成り果てていた。


「君、大丈夫か!? おう、大丈夫みたいだな。本当によかった。すまなかった。しかしよかった。ぶつかった瞬間、俺はとんでもないことをしたと思ったよ。絶対に殺してしまったと思った。本当によかった」


確かに、彰浩も自分の体が無事なことに驚いていた。ドライバーは、彰浩と自転車を、荷物の入っていない荷台に載せた。


彰浩は、荷台の中で自転車を見ながら、こいつが俺を守ってくれたのだという思いにとらわれた。自分の無傷さと比較して、自転車は完全に大破していた。


自宅まで彰浩を運んだドライバーは、親に謝罪し、事情を説明、連絡先を渡して帰っていった。


残された自転車に、そこで彰浩は深々を頭を下げた。

ピンポン。


「あたし出るよ」

「おう」


電話でピザを注文してから40分。腹をすかせていた2人は、待ってましたとばかりに腰を上げた。

恵子が一応のぞき穴から相手を確認すると、前には大きな平べったい箱を持った、カラフルな制服を着た男がゆがんで見える。


「今開けます」

「お待たせしました。ご注文のスペシャルサラミピザになります。2890円です」

「はい。…あ、卓也、あたし財布にぜんぜんお金入ってなかった。1000円貸して」

「しょうがねえなあ」


卓也が財布に手を伸ばしたとき、突然ドアが締まる音とともに、


「動くな!!」


という叫び声が聞こえた。卓也が振り向くと、ピザの配達員は左手を恵子の首に回し、右手に持った銃を首筋に向けている。持っていたピザは無残に足元に散らばっていた。


「こっちが寒い中働いてるときに、お前らはピザ食ってセックスか。解せねえなあ。解せねえよ」

「おい。何をしてるんですか。やめてください」


突然訪れた不測の事態に、恵子も卓也も動転していた。何が起こったのか、どうすべきなのか、冷静な思考回路そのものが存在しなかったかのように、ただ目の前の光景を見つめてしまっている。


「おい、そこの男。アホ面してんじゃねえぞ。彼女がこんな目に遭ってんだぞ。なんか他に言うことはねえのかよ。なあ、ここでこの女犯させてくれたら殺さずに引き上げるぜ。そのあとは警察に通報でも何でもすればいいさ。でなきゃ今すぐにでも殺してやる。おい、どうする?」


恵子はすでに恐怖で顔を引きつらせ、小刻みに震えながら目からは涙を流している。


「どうしよう、卓也……」


卓也はしびれた頭を必死に働かせて考えていた。自分に残された選択肢には何があるのか。奴に飛びかかる。殺されるよりはましだと彼女が犯されるのを刃をくいしばって見る。バレないように何か他の人間に知らせる。


こんなとき、統計をとったらどんな結果が出るのだろうか。卓也が第一候補に挙げたのは、犯されるのを見ている、というものだった。俺が無理に助けようとすれば、恵子は殺されるかもしれない。それだけは嫌だ。犯されるのも屈辱に違いないが、しかし。


卓也は、そこに自分の命も惜しいという保身の気持ちがあることを、気づかないふりをしていた。自分が抵抗して刺されるかもしれないというリスクが無意識のうちに考えていた。


配達員の左手は、首から胸元へ下がり、手のひらはセーターの首の部分から胸にすべりこんでいく。ブラジャーを邪魔なものと上に払いのけながら、乳房を揉みしだき始める。




10年が経った。恵子と卓也の二人は結婚している。

「だんだんあったかくなってきたね。桜の花がもう少しで咲きそうだよ。わかる?」

「なんとなくにおいがするような気がするよ」


恵子は卓也の手をとり、介助をしながら道を歩んでいく。

あのとき、卓也は近くにあったアイスピックで自分の耳と目を刺した。二人は将来を誓いあっていた。お互いのうち、どちらが欠けてももう一方は、生きていても想像を絶する悲しみを負うことになる。あの状況で、恵子を助けられない以上は、恵子の屈辱を和らげることしか俺にはできない。そう考え、目をつぶし、音を遮断した。恵子は配達員に犯されたが、そのとき卓也は涙と血を流しながら蹲っていた。


耳は鼓膜をやぶいただけでなんとか聴力は戻ったが、目は失明を免れられなかった。


恵子は卓也の選択が、「二人」で歩む将来を尊重し、それを失うことのリスクを回避するためのものだとわかってはいた。だが、同時に卓也の中のエゴイズムの気配もまた、十分に感じ取っていたのだった。


あと数十年の月日を経なければ、選択の正否はわからないと、恵子は思っている。




嫌いなもの


・雨


・自慢


・しゃしゃり出てくるやつ


・偽善


・ブスなのに調子に乗っているやつ


・mixiで自分の悩みや考えを赤裸々に告白するやつ


・罰ゲームをしないやつ


・三振してヘラヘラしているやつ


・いつも言い訳を言うやつ


・傲慢なやつ


・言い方が見下した感じのやつ


・名乗らずにクレームを言ってくるやつ


・うんこが漏れそうでトビラをノックしているのになかなか出てこないやつ




こういうものを一切忌み嫌わず、怒りをあらわすことなく、戦わず、赦すことのできる者は、真の宗教者であり、もっと言えば神に近い人間なのである。


そして、そういうありがたいお人は、うんこをもらすか、便器のないところでうんこをすることになるのです。