日本にキリスト教を布教にしきたザビエルについてはみなさんご存知ですよね。

しかし、日本を去ったあと、イエズス会の同僚との話の中で、「もう精根尽き果てた。自分の限界を試された。」と告白しています。
なぜそんなことになってしまったのでしょう。

日本の各地で布教していたザビエルですが、出会った日本人が決まって尋ねたことがあります。「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日本にこなかったのか」そして、「ではmそのありがたい教えをきかなかった我々の祖先はどこにいるのか。私たちは洗礼をうければ救われるのかもしれないが、洗礼を受けずに亡くなったご先祖様は地獄に落ちたのか」
キリスト教においては洗礼を受けていない人は皆地獄行きなのです。とザビエルは答えます。すると日本人は「あなたの信じている神様というのは、ずいぶん無慈悲だし、
無能だ。全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救ってくれてもいいではないか」
ザビエルは困ってしまいました。
日本人は我々が救われてもご先祖様はいない。ならご先祖様のいる地獄に行った方がましだ。というのです。
ザビエルは本国への手紙にこう書きました。
「日本人は文化水準が高く、よほど立派な宣教師でないと、日本の布教は苦労するであろう」と。
集団原理の中で生きてきた日本人にとって、魂の救済という答えは個人課題ではなく先祖から子孫に繋がっていくみんなの課題であったはず。
「信じるものは救われる」=「信じない者は地獄行き」といった、答えを個人の観念のみに帰結させてしまうキリスト教の欺瞞に、当時の日本人は本能的に気づき、ザビエルが答えに窮するような質問をぶつけたのではないでしょうか。

聖書と「甘え」 著者 土井健朗

八百万の神の国で、ただ一人の神を信じろというのはちょっと難しいですよね。