来週、親父を高齢者住宅へ移す。

 

 

できることなら、自宅を終の棲家にさせてやりたかった。

本人もそれを望んでいた。

 

だが、そうもいかなくなった。さすがにフォローしきれない。

プロの助けがいる領域になってきた。

 

 

その話を持ち掛けて、地域包括の職員なんかが出入りするようになると、

あきらかにストレスを感じているようだった。

 

高齢者住宅に入ることを了承したかと思えば、

数日後には「行かない、一人暮らしする」などとクレージーなことをホザき出す。

 

この期に及んでふざけんな、という怒りで沸騰しそうだったが、

本人も本当に嫌で抵抗しているのだ。

 

 

そもそも介護施設というのは、当事者本人が望んで入る所じゃない。

面倒を見きれなくった家族が、カネを払って面倒を押し付ける所だ。

 

 

だが、誰もが時間に余裕がない現代で、

足手まといとなった家族の面倒を見るために、必要な福祉制度でもある。

 

 

なるべく丁寧に、もう仕事と両立しながらのフォローが無理であること、

プロの助けがないと、面倒を見られない現実を、謝罪を交えて説明した。

 

 

最後の説得で話した内容は、相当ショックだったのか、

その後は了承したまま、予定をひっくり返すようなことはしなくなった。

 

 

様々な契約事、部屋の家具や介護用設備の準備で、半月吹き飛んだ。

 

 

ようやく、介護ベッドなどのメイン機材が届き、受け入れの準備ができた。

 

 

引っ越しの日を伝えた時に見せた、

親父の悲しそうな眼を、一生忘れられないだろう。

 

 

黙って頷きながらも、

まるで捨てられたかのような、哀しみを帯びた表情だった。

 

 

今より楽に暮らせる環境を用意した、

というのは、所詮おれ側の主観で理屈だ。

 

 

本人にとっては違う。厄介払いだと思っている。

 

 

ああ、しんどい。

 

 

おふくろが早くに死んで、

たった一人で子供2人を成人させてくれた親父を、おれは捨てるのだ。

 

 

本人の口癖はずっと、「早くおかあさんのところに逝きたい」。

 

 

生きていることを苦痛に感じている人に、

全身薬漬け、体中に管を通してベッドに寝そべらせて延命する・・・。

 

 

こんな状態をこの国では「生きている」という定義なのだ。

 

 

幸福を追求する権利はどこに行ったのか。

 

 

苦痛のない死が救済である人もいるのだと知ってほしいもんだ。

 

 

今の日本では、とりあえず息をして心臓が動いていることが第一なのだ。

 

 

以前、とある国会議員に、紹介議員になってもらってまで、

国会に請願を出した。

 

 

「尊厳死を認めてくれ」というものだ。

 

 

結局スルーだった。

 

 

だけど、紹介議員になってくれた議員には、感謝してもしきれない。

本来なら、何の得にもならないはずなのに、動いてくれた。

そんな人も国会にはいるのだ。

 

 

風見鶏で次の選挙しか頭にない大半の国会議員にとっては、

真剣に議論しても、何の票にもならないだろうしな。

 

 

安楽死や、尊厳死というのは、そんなにダメなことなのだろうか?

 

 

現実が立ち行かず、捨てる側も捨てられる側も、

こんな思いをしてまで、「延命」することが、させることが、

「幸福を追求する権利」を行使することなのか。

 

 

・・・今日の仕事は、ミスが多くなりそうだ。

 

後で詰められないよう、保身をしっかりしないと。