両親の離婚を機に、離ればなれに暮らすことになった兄弟。兄は鹿児島。弟は福岡。二人は再び一家団欒を手に入れるべく「九州新幹線の一番列車がすれ違う時、奇跡が起きる」という噂を信じ、クラスメイトと共に旅に出る。
アメリカ映画の名作といわれるものの一つに『スタンド・バイ・ミー』という少年たちの冒険譚がある。1986年に公開されたこの映画は、今なお多くの人を魅了し続けている。親から子へ。世代を超えて愛されている作品と言える。この『奇跡』という映画は『スタンド・バイ・ミー』同様、今後、長く愛される作品になることだろう。少なくとも、僕はこの作品を愛し続ける。紛れもない傑作である。
是枝監督は子どもたちに脚本を与えない。撮影前に口頭で台詞を伝え、芝居をさせるのだ。『誰も知らない』で採用され、カンヌ国際映画祭で柳楽優弥を最優秀主演男優賞に導いたこの手法は、子どもたちを解き放つ。演技と感じさせないほどに自然で、リアルで、生々しく、ピュアな姿を観せる子どもたち。それはドキュメンタリーを観ている感覚に襲われるほどである。
毎日を生活している大人と違って、子どもたちは今を生きている。まっすぐに生きる彼らはいつも必死。子どもであったあの時の自分の姿を思い出して。まだ小さかった我が子の姿を思い出して。スクリーンに映し出される彼らの姿は大人たちを笑顔にさせる。
子どもがからといって、甘くみてはいけない。大人の会話も理解しているし、自分が置かれた状況も把握している。どうやって話せば自分の思いが伝わるかとか、どうやって振る舞えば相手に気付いてもらえるかとか、実によく考えて行動している。子どもは大人が思っているほど、無邪気ではないのかもしれない。彼らが発する言葉にはっとさせられたり、ほろっとさせられたり。
かつて、マックス・ウェーバーという社会学者は現代社会を「全面的官僚制化の時代」とよんだ。官僚制とは明示化された文書で上意下達式に命令が下る規律化された組織の運営原理のことを指す。役所に限らず、ほとんど全ての組織がこの原理に従って運営されている現代はまさに「全面的官僚制化の時代」いえよう。
しかし、子どもたちは官僚制に支配から逃れることが出来てしまう。確かに、学校はまさに官僚制といえるが、早退しても、ずる休みしても、登校拒否しても、義務教育のうちはそこに帰ってくることを法律で認められている。習い事もそうだ。お月謝を払いさえすれば、逃避行も許される。
大人はそうはいかない。会社の場合を考えてみよう。規模の大小はあれど、会社というところには必ずと言っていいほど、ヒエラルキーが存在する官僚制が敷かれた組織である。そこから逃れようもんなら、リストラは覚悟しなければならないだろう。年功序列に終身雇用といった雇用体制があった時代もあったが、今は違う。このご時世である、そんなに甘くはない。
だかと言って、官僚制からの逃避はなしではない。ただ、現実的に困難を強いられることになりそうである。収入がなくなり、経済的に困窮するリスクが高い。国家資格を持つものや、高度なスキルを持つものは別かもしれないが、年齢が上がれば上がるほど、転職は厳しいと聞く。
大人でも関係がフラットな友人のコミュニティにいる限りにおいては、官僚制から逃れられているが、それって金にはならない場合が多いよね?もちろんそうした関係性はお金で買えない価値があるわけだけど。コミュニティで、人と人とのつながりで、多くのものが得られたり、シェアすることでいろいろなサービスが享受できたり。人間関係が資本となる時代がやってくるだろうとは思うけど、それはまだ未来の話。近くまできてるとは思うけど。
官僚制から逃れられること、これは子どもに与えられた特権なのかもしれない。映画『奇跡』を観て、そんなことを感じました。馬鹿したくなる。旅にでかけたくなる。関係を大事にしたくなる。世界を見たくなる。観る人によって、感じるところは違うかもしれませんが、傑作と言ってまず差し支えない作品です。是非、ご覧あれ。
アメリカ映画の名作といわれるものの一つに『スタンド・バイ・ミー』という少年たちの冒険譚がある。1986年に公開されたこの映画は、今なお多くの人を魅了し続けている。親から子へ。世代を超えて愛されている作品と言える。この『奇跡』という映画は『スタンド・バイ・ミー』同様、今後、長く愛される作品になることだろう。少なくとも、僕はこの作品を愛し続ける。紛れもない傑作である。
是枝監督は子どもたちに脚本を与えない。撮影前に口頭で台詞を伝え、芝居をさせるのだ。『誰も知らない』で採用され、カンヌ国際映画祭で柳楽優弥を最優秀主演男優賞に導いたこの手法は、子どもたちを解き放つ。演技と感じさせないほどに自然で、リアルで、生々しく、ピュアな姿を観せる子どもたち。それはドキュメンタリーを観ている感覚に襲われるほどである。
毎日を生活している大人と違って、子どもたちは今を生きている。まっすぐに生きる彼らはいつも必死。子どもであったあの時の自分の姿を思い出して。まだ小さかった我が子の姿を思い出して。スクリーンに映し出される彼らの姿は大人たちを笑顔にさせる。
子どもがからといって、甘くみてはいけない。大人の会話も理解しているし、自分が置かれた状況も把握している。どうやって話せば自分の思いが伝わるかとか、どうやって振る舞えば相手に気付いてもらえるかとか、実によく考えて行動している。子どもは大人が思っているほど、無邪気ではないのかもしれない。彼らが発する言葉にはっとさせられたり、ほろっとさせられたり。
かつて、マックス・ウェーバーという社会学者は現代社会を「全面的官僚制化の時代」とよんだ。官僚制とは明示化された文書で上意下達式に命令が下る規律化された組織の運営原理のことを指す。役所に限らず、ほとんど全ての組織がこの原理に従って運営されている現代はまさに「全面的官僚制化の時代」いえよう。
しかし、子どもたちは官僚制に支配から逃れることが出来てしまう。確かに、学校はまさに官僚制といえるが、早退しても、ずる休みしても、登校拒否しても、義務教育のうちはそこに帰ってくることを法律で認められている。習い事もそうだ。お月謝を払いさえすれば、逃避行も許される。
大人はそうはいかない。会社の場合を考えてみよう。規模の大小はあれど、会社というところには必ずと言っていいほど、ヒエラルキーが存在する官僚制が敷かれた組織である。そこから逃れようもんなら、リストラは覚悟しなければならないだろう。年功序列に終身雇用といった雇用体制があった時代もあったが、今は違う。このご時世である、そんなに甘くはない。
だかと言って、官僚制からの逃避はなしではない。ただ、現実的に困難を強いられることになりそうである。収入がなくなり、経済的に困窮するリスクが高い。国家資格を持つものや、高度なスキルを持つものは別かもしれないが、年齢が上がれば上がるほど、転職は厳しいと聞く。
大人でも関係がフラットな友人のコミュニティにいる限りにおいては、官僚制から逃れられているが、それって金にはならない場合が多いよね?もちろんそうした関係性はお金で買えない価値があるわけだけど。コミュニティで、人と人とのつながりで、多くのものが得られたり、シェアすることでいろいろなサービスが享受できたり。人間関係が資本となる時代がやってくるだろうとは思うけど、それはまだ未来の話。近くまできてるとは思うけど。
官僚制から逃れられること、これは子どもに与えられた特権なのかもしれない。映画『奇跡』を観て、そんなことを感じました。馬鹿したくなる。旅にでかけたくなる。関係を大事にしたくなる。世界を見たくなる。観る人によって、感じるところは違うかもしれませんが、傑作と言ってまず差し支えない作品です。是非、ご覧あれ。