本能寺跡
▲本能寺跡の石碑

本能寺の変って何だっけ?

こんにちは。
最近は新書「京都ぎらい」を読んだことをきっかけに、漫画「太平記」を読み、南北朝合一を成立させた足利義満、銀閣寺を建てた足利義政のことをブログにしてみました。時代で言えば南北朝時代から室町時代へと進んできました。

さて次の時代は何だっけ?と思い出しますと。かの有名な織田信長や豊臣秀吉、徳川家康が登場する戦国時代が始まります。小学校の授業でも登場する、日本人なら誰もが知っている超有名な歴史上の人物が生きた時代。小学校6年生で初めて歴史の授業を受けた時が12歳だったので、あれから18年が過ぎてから歴史に興味を持ち始めた今日この頃。。。涙

建勲神社
▲建勲神社 織田信長を祀る神社
さて。
戦国時代の中でも、この度は本能寺の変の黒幕についてブログにしてみました。笑 本能寺の変と言えば、天下統一を目前にした織田信長が部下の明智光秀に殺されてしまった事件のこと。学校の授業ではサラッと本能寺の変という単語を暗記した記憶しかありませんが、本能寺の変には一つの謎があります。

それはなぜ明智光秀は本能寺の変を引き起こしたのか?という理由が現在も謎のままなことです。ちなみに本能寺の変をネットのWikipediaで調べますと、現在55個の予想される理由が記載されています。笑 55個もあること自体おかしなことですが、現代の結論は「はっきりとした理由はわかりません」という永遠の歴史ミステリーになっています。

55個の諸説をいくつか見ていくと、明智光秀も天下統一の野望を持っていた説、光秀が信長に対して恨みがあった説、豊臣秀吉が黒幕だった、徳川家康が黒幕だった、光秀が精神的に病んでいたから訳も分からず突発的にやっちゃった等々。。。

建勲神社 本堂
▲建勲神社
私が55個の諸説を読んで思ったことは、もはや各々で納得いく好きな想像をして、楽しめばいいんだ!ということです。笑 歴史に関わる専門家の方々には、まだ発見されていない当時の資料等を探して頂いて、謎を解き明かして頂きたいと思いますが、素人の私にはどうすることもできません。根拠のない妄想をして楽しむこと位しかできないと思いました。

と言うことで今回は私の好きな本能寺の変の真相についてブログにしてみました。
私が好きな本能寺の変が起きた理由の答えは、明智光秀と朝廷が繋がっていたとする朝廷黒幕説です。この説は天皇を含む朝廷が織田信長を自分達の地位を脅かす存在として敵視していたとする説に基づき、朝廷が繋がりのある明智光秀に対して織田信長を殺す指示をしたとする説のことです。

まずは朝廷黒幕説の前提となります、朝廷が信長を脅威と考えていたであろう理由をいくつか見てみましょう。

延暦寺
▲比叡山延暦寺

本能寺の変の黒幕は朝廷なのか

理由1.信長が朝廷が与えた官位を辞退したこと。
信長は右大臣右大将という官位を朝廷から与えられましたが、1年後に自ら辞退します。朝廷は信長の意図がわからず、もっと位の高い、太政大臣、関白、征夷大将軍の3つの中から好きな位を選んで良いと提案したのですが信長はこれも無視しました。当時の常識としては考えられない信長の行為に、朝廷は信長の真意がわからず恐怖を感じたと言われています。ちなみに鎌倉幕府の源頼朝は征夷大将軍、平清盛と足利義満は太政大臣に、豊臣秀吉は関白という官位に就きました。信長は当時の天皇を頂点とする社会を否定して、自らを頂点とする新たな社会を作ろうとしていたのかもしれません。

理由2.正親町天皇に天皇の位を次の天皇に譲ること(譲位)を指示した。
当時の社会では、天皇が位を息子に譲るタイミング等は天皇だけが決めることであり、武士である信長が口を挟むことなどあり得ないことでした。そのため朝廷は武士ごときの信長が天皇を下に見ている失礼極まりない危険人物とされていた。

理由3. 信長は自らを神と位置付けて部下や人々に崇めさせていた。
ポルトガルからやってきたキリスト教の宣教師であるルイスフロイスが日本で暮らした日々をまとめた書物である「日本史」の中に、信長が自らを神と位置付けていたとする記載があります。信長の城である安土城の敷地内には総見寺と呼ばれる寺院があり、信長は総見寺の本尊は信長自身であるとして、部下や人々に祀らせたとする記録があります。そのため古来より日本では神様に仕える者の頂点として天皇がいるにも関わらず、自らを神とした信長を脅威に感じていたとされます。

当時の朝廷は信長が天下統一を果たした後に、天皇を頂点とする社会から信長を頂点とする社会に変わってしまうのでは?という不安があったために信長の存在を危険視していたとされる。

建勲神社 敦盛の石碑
▲建勲神社 敦盛の石碑

明智光秀と朝廷の繋がり

次に明智光秀と朝廷との関係性についてです。
光秀と朝廷を結ぶ関係を知る手掛かりは、当時の朝廷で働いていた公家が残した日記の内容と本能寺の変後の公家達の行動から推測されます。

吉田兼見という公家が書き残した「兼見卿記」と呼ばれる日記があります。
光秀が体調を崩した際に吉田がお見舞いに行ったこと、光秀が吉田兼見の家を訪問した際にはお風呂を焚いてあげた等、明智光秀と吉田兼見の親しい関係を示す記述があります。

この吉田兼見さんですが、本能寺の変の後に明智光秀と会っています。朝廷の使者として光秀を訪れ、朝廷より京都の治安維持を行う職への就任指示を伝えると共に、正親町天皇からお褒めの言葉を伝えたとされています。

また光秀が朝廷に表敬訪問した際には吉田兼見の家を訪ねて、銀貨50枚を与えました。また光秀は朝廷には銀貨500枚、京都五山の寺院には銀貨100枚を贈った記録があります。

そして吉田さんの意図は不明ですが、兼見卿記の本能寺の変が起きた日の前後部分を後から書き直しています。そのため兼見卿記は本能寺の変の前後部分が書かれた日記だけ内容の違う別冊が存在しており、怪しい臭いがします。笑

本能寺跡
▲本能寺跡には老人ホームが建っています。
そしてもう一人。
当時太政大臣という天皇以外で一番偉い位に就いていた近衛前久という人物がいます。近衛さんは本能寺の変後に豊臣秀吉や織田信長の三男である信孝から本能寺の変に関与したとして疑われていました。その理由は本能寺の変の際に、近衛前久の家の屋根から光秀軍の兵士が銃を撃っていたため、近衛が光秀に協力したとされたからです。近衛は光秀と関係ないことを主張しながらも、信孝の追究から逃亡してしまいました。ちなみに逃亡先は徳川家康がいる浜松城だそうで。。。

さてさて。
明智光秀と朝廷を結ぶ決定的な証拠は無いものの、かすかに可能性を感じる朝廷黒幕説。
私個人的には黒幕が存在した方がミステリー小説のようで楽しめます。

皆様は本能寺の変の真相はどうあって欲しいですか?笑