長年BPDとして治療を受けてきました。確かに、私にはBPDの症状とされるような言動や感情等がありましたが、改めて診断基準等を確認しますと、全く当てはまらない、というより意味不明で、原文を参照しないと文意不明な文言さえあり、そもそもBPDの根拠とされた「易怒性」「衝動性」等も、精神科を受診し、投薬・カウンセリングを受け始めてから生じたことや、また治療を重ねるほどに悪化していったことなどから、私のBPDとは医原病ではなかったか?と考え、古い日記等、当時の記録を確認しはじめました。

 私の易怒性が爆発し、衝動的な行動をしてしまう前に、必ず母の聞くに耐えない凄まじい暴言や罵倒があったのですが、そのことを私は医師やカウンセラー等に話しませんでした。母の暴言と私の「病状」を結びつけては母に申し訳ないと考えていました。 医師・カウンセラーや母自身、結びつけて考えることはなかったようです。当時は親から子への(暴力行為はともかく)暴言や罵倒は教育や躾の一部とされ、現在ほど問題にはされていなかったのです。

 昭和57年、校風への強い違和感から、全日制高校を退学、通信制高校に転校しましたが、その際、退学した高校から精神科受診を勧められました。昭和56年夏の深川通り魔事件等を切欠に、強い不安に苦しむようになっていた私は、自分は神経症だったのか、と思い、学校から勧められた精神科を受診しました。

 その病院では「神経症的ではあるが神経症には至っていない。病名なし」とされ、アナフラニール1錠を処方され、院長によるカウンセリングを受けていました。一月ほどで私の強い不安は消え、その病院が非常に遠方で通院が不便だったため、私は通院をやめてしまいました。 

 その年の秋頃から、また不安を感じるようになった私は、友人の母親から紹介されたカウンセリングルームに通い、病状は悪化し、BPDと診断され、その後36年に亘る治療を受けています。

 平成元年、障害年金申請時の病歴等申出書によれば、傷病名欄には「精神病的性格障害」とあります。

 昭和5711月の母の日記によりますと、カウンセラーから「非常に治療が難しい」「分裂病になる素質が十分にあり、なる虞もある」「今は分裂病ではないが」「崖の上を歩いているようなもの」と説明を受け、母は、私が「精神分裂病」と「診断」された、と誤解したようです。カウンセラーは、決して「分裂病」である、と断言してはいないのですが、母の日記を読みますと、その後、すべての私の言動を発狂の兆候ととらえ、「分裂病になるかも」「分裂病になった」「発狂した」等悪意を募らせ、と言うよりも、私に生じている問題の原因が自分の虐待、と言われなかったことに安堵して、私に対して憎しみや悪意を向けることに躊躇いがなくなり、私に対する、まるで人権さえないような差別的な罵倒が綴られるようになります。 ジャーナリストとして精神病に対する差別や偏見などない筈の母が、なにか忌まわしい、おぞましいものを見るような目で私を見るようになり、たとえ、それが精神分裂病だとしても、それは疾病に過ぎず、本人がなりたくてなっている訳ではないのに、まるで、悪徳とか犯罪行為に対するような、私が、自分の意思で母を苦しめるために病んでいるかのような憎しみや悪意、強い拒否感情を私に向けるようになります。

 しかし、母の私に対する憎しみは、この診断により生まれたものではなく、母の思い通りに振る舞わない(私が、自分のしたいことをし、それを母の希望より優先させる、という個人として当然の行為です)私に対して募らせていた憤懣を、それまでは母自身、後ろ暗い感情だったものを「精神病の娘」に対して持つべき当然の態度だった、とカウンセラーから承認され、堂々と表明するようになった、という感じでしょうか。

 私は昭和5510月、交通事故に遭い、頭部打撲、鎖骨骨折により二月ほど入院しています。

 今思いますと、私の強い不安、それに伴う鬱、不眠とは、そのPTSD、もしくは幼少時から続いた両親からの虐待の複雑性PTSD、あるいはそのふたつが併発したものだと思います。

 なぜ私が「スキゾタイパル」と診断されたのか不明ですが、 (母が作成した「病歴等申出書」によりますと、①「神経症的ではあるが神経症には至っていない状態で、病名なし」②「ロールシャッハテスト等により「分裂スレスレ」と診断」(治療機関名・K心理相談室)とありますが、これは母の事実誤認であり、「分裂スレスレ」とはカウンセラーによる病状の説明を母が診断と誤認したものであり、ロールシャッハテストは、このK心理相談室と提携していたT病院で受けたものですので、この時、T病院の主治医から「スキゾタイパル」と診断されたのだと思います。) wikipedia等のスキゾタイパル(統合失調型パーソナリティ障害)の項や、母の日記に記されている、根拠となる病状の説明を読みますと、それらは、私よりむしろ母の精神の問題であり、私を自分の延長と考える母が、自分と娘の問題を分けることが出来ず、すべて私のものとしてカウンセラーに話したのだと思います。

 しかし母の特異な性格や、私に対する悪意的・虐待的態度が、なぜカウンセラーに分からなかったのでしょうか。 

 また、 カウンセラーから、「W高校かNHK学園に無理して通っていたら、大きなゆさぶりが来た時に精神分裂になっていたに違いない」と「おそろしいことを言われた」と日記に書かれており、両親や医師、カウンセラーが一番問題にしていた、と言うより、私の「病状」と考えていたものが、私の不登校問題だったことに初めて気がつき、非常に驚いています。

 私は、学校や勉強が嫌いで高校を辞めたのではありません。W高校の特殊な校風(「団結」の行き過ぎた尊重・そのための学校行事(文化祭・体育祭)に多大なエネルギー・時間を割かれること(私が退学を決意したのは、文化祭中のホームルームで、「文化祭が終わる翌日から、翌年の体育祭のための朝練を始める」と決議された日です)・球技の苦手な私が、体育祭でクラスの足を引っ張ることに対するいじめ等)に耐えられず退学を決意しました。そのことは母にはっきりと母に説明していたのに、母にもカウンセラーにもなぜ、全く伝わっていないでしょうか。 

 その当時、転校先のNHK学園高校でのスクーリング・レポート提出が滞り、その年の進級を断念した状態だったため、こんなことを言われたのだと思いますが、スクーリングに行けないのは交通事故の不安から外出が怖かったからです。また、レポートが遅れたのはうつ・無気力のためで、W高校退学とは全く事情が違うのに、そのことを私に確認もせず、決めつけ、病状認定している周囲、というものがおそろしいばかりです。

 繰り返しますが、私は学校や勉強が嫌いだから高校を辞めたのではないのです。勉強はむしろ好きでしたが、うつ・無気力等で出来ませんでした。

 学校は嫌いでしたが、人生は、特別な才能の持ち主以外は一生集団生活の連続だ、ということは当時の私にもよく分かっており、それを避けたかった訳ではありません。また、学校が嫌いでも、学歴がなければ好きな職業にもつけない、という小学生でもわかる道理を知らなかった訳ではありません。

 当時の私の希望は「映画の仕事に就くこと」であり、映画の現場というものが自分を殺して全体に奉仕しなければならない性質のものであることはよく知っていました。大嫌いだった団結をせざるを得ないわけですが、自分の目的が全体の目的に一致するなら、団結することに何の苦も感じるものではありません。

 羽仁進を取材したジャーナリストの母が、彼の独特な教育方針や、彼の娘であり、登校拒否児童の先駆けとも言える存在だった羽仁未央を、「こういう生き方もある」とむしろ肯定的に賞賛的に話していましたので、その母が私の「高校中退」を、「異常」「病的」と考えていたとは夢にも思いませんでした。

 ただ、今になって知ったことですが、母は本音と建前に非常な乖離があり、「個性的」「自由」な生き方を賞賛するのは建前であり、本音では、私に、とにかく世間並みの生き方、大人受けするいい子になって欲しい、と思っていたようです。

素直で、社交的で、人に好かれ、特に教師、友人の親や、母の友人たちに気に入られ、成績は良いほうがいいが、東大受験でノイローゼになってしまうような子にはなって欲しくないし、勉強だけではなく体育も得意で、見栄えもよく、やはり「大人受け」する 優等生のボーイフレンドがいればなお可、まあ、世間に知れた大学を出て、そこそこの企業に就職、クリスマスケーキと呼ばれるようになる前に結婚、出産、という「人並」コースの生き方を私に望んでいたのです。(まだ退学前、「W高校の付属大学に進学せず、映画の仕事のために日大芸術学部映画学科に行きたい、という私の希望に対し、「できるわけがない。現実逃避がひどい」と日記に書きつけています。母や医師たちは、私の希望を、ローティーンの少女が、映画スターを夢見るようなもの、と思っていたようです。)

母は、マスコミに登場する羽仁未央のような「個性的」で「自由な」生き方は、母自身が選ぶべきもので、子供の私には「世間並」「人並」であってほしいとも思っていたようです。と言いますか、「私が個性的に、自由に生きるために、娘には世間並みの生き方をしてほしい」と、ちょっと呆れ返ってしまうような本音を堂々と日記に遺しています。

なぜ今まで母の気持に気づかなかったのか?と考えますと、長年服用していた精神病薬の作用だったと思います。私が自分の問題について考えるようになったのも、うっかり薬を切らしてしまった私が、調子わるく横になっていた時、自分の問題について深く考えたからです。以前の私は、頭が常にぼうっとしていて、何も考えられなかったのです。

昭和57年当時、児童虐待というのはあまり問題にされていませんでしたが、母の日記に、当時家で飼っていたマルというウサギを撫でながら、「マルちゃんは虐待しても精神分裂にならないからいいねぇ」と言った、と書かれており、母にも虐待の認識はあったようです。
 母の日記を読みますと、狂人なのは明らかに母であり、私はその犠牲にすぎないのに、なぜ、どの精神科医も全く気づかなかったのか、不思議でなりません。東大医学部、慶應大学医学部を卒業した医師やカウンセラーたちがそれほど無能だったのでしょうか。無能でなければ、なにか悪質な意図があったとしか思えないのです。それほど無能でも悪質でもない医師・カウンセラーたちが、当時、母が私への「診断」を「精神分裂病」と誤解し、私への悪意を募らせ、問題を悪化させ続けていることになぜ長年の間、誰も気付かなかったのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 母の作成した病歴等申出書に、 「ロールシャッハ・テスト等により、「分裂スレスレ」と診断」とありましたので、心理検査についてお話しします。 

ある日、カウンセリングの際、担当のS カウンセラーから、「心理検査の必要があるから受けるように。とても偉い先生が来て下さるから、絶対に休まないように」と検査を受けることも、日程も、何の相談もなく一方的に告げられました。

「とても偉い先生」とは、K心理相談室や、提携していたT病院の母体であるK大学病院精神科の医師だと思います。

心理検査はT病院で受けました。テスターは、 50才前後の女医でした。彼女が顔中に汗を噴き出させていて、検査の間中、ハンカチで汗を拭い、そのハンカチがぐっしょりと湿っていたため、テストの時期を真夏、と記憶していたのですが、母の日記によれば、テストは秋か冬にあったようです。とすれば、その医師は年齢的に更年期だったのかも知れません。昔のことで、はっきり覚えていないのですが、印象としては、非常な童顔で、髪もショートカット、小太りな体型で、表情も稚く、まるで子供の演劇に登場する医師のような記憶が残っています。

ロールシャッハ・テストの途中、突然、彼女が怒鳴りました。

「あなたの感想を述べるスピードが遅くて、テストが時間内に終了しない。もっと早く答えてください。」

と、内容は至極もっともなのですが、切れたように大声で怒鳴り、それも奇妙な切り口上で、言い終わったあと、「言ってやったゼ」とでも言うような、ちょっと満足げな、今で言えば「ドヤ顔」のような表情を浮かべたのを覚えています。

私はいきなり怒鳴られて驚きましたし、その頃の私は内気で人見知りでしたので、恐怖し、その後の発言はできるだけ短く済ませ、テストを終わらせました。

彼女の発言内容には何も文句はありません。しかし、なぜ、もっと適切なタイミングで、適切な態度で相手に伝えられないのでしょうか。その医師の人間的な未熟さ、対人スキルの拙さにちょっと呆れましたし、(今にして思えば、自分ペースで、口ごもりながらトロトロ答えてる私に、いい加減イライラしていたのだろうな、と同情を感じないでもないのですが、) この未熟な、幼児的な態度の医師が、「とても偉い先生」と奉られているこの病院がひどく低レベルのように思え、落胆したことを覚えています。 また、すっかり萎縮した私の反応から、正しい結果が得られるのか、と、非常に不安になったのですが、この不安は誰にも話しませんでした。