※この記事は、少しだけ「ひぐらしのなく頃に」「うみねこのなく頃に」のネタバレを含みます
この間、「ひぐらしのなく頃に 解 罪滅し編」をやっていてなんとなく気になった一節
”幸せを幸せと感じることは、実は幸せではない。本当に幸せなのは、幸せな日々に飽食し幸せであることを自覚すらしないこと。幸せを幸せと感じてしまうのは、凍てつく寒さの中にいるからこそ。”
今日、「うみねこのなく頃に Episode4」をやって
真里亜は、他人から見れば明らかに不幸な状況にあったのに自分は幸せであると思った。否、思い込んだ。
でも、自身がそう思ったのならば、それは幸せだったのだと彼女は言う。
はて?幸せとは何ぞやと
たとえば、
”大きな悲しみを知らず、至って平凡な幸せな毎日を、それが幸せであると気づかずに過ごしている人間”
と
”深い悲しみの中にいて、ごく小さな幸せを、それが幸せであるとわかって、その幸せを100%享受できる人間”
どちらがより幸せだろう?
一見すれば、明らかに前者だけど
同時に小さな幸せを与えた一瞬だけを見れば
前者はきっと「いつものことだと」その幸せを適当に扱う、下手をすれば受け取らないことだってあるかもしれない。
後者は、その幸せに感謝し、その幸せを精一杯堪能するだろう。
そしてこの二者が同程度の幸せを享受して一生を終えたとき
前者は、幸せがなんであったかを知らずにその一生を終えてしまうかもしれない。
後者は、人生の多くが悲しみに満ちていたけれど、確かに自分には幸せがあったと思えるだろう。
こうしてみると、後者の方が幸せなのかもしれないとか思えてくる。
でも、これは全部客観的視点から見たもの
ここまでかといて何だけど、
”幸せ”って感覚は主観的なもの
その人がどうとらえるか
感情と同じだと思う
前者でも後者でもその人が幸せだというならその人は幸せなのだし、不幸だと思うならその人は不幸なのだ。
じゃあ、どんな時でも自分は幸せだと思い込むことが正解なのだろうか?
まあ、それができていたのなら争いなんて起きないわけで
それができないのが人間だったりする。
正解、不正回の問題ではなくて
やっぱり、より大きな幸せがあるのならそれを手に入れたいと思うのは当たり前の感情
それをどこまで求めるか、どこで妥協するかが問題
もちろん満足すればそこで止めればいいのだけれど、
みんながみんな満足できるわけじゃないから妥協しなければならない人がいるわけで…。
難しいね。
結局、幸せの尺度は人によって違うから他人がとやかく言うことではないんじゃないかな~
と、ちょっと思ったのでした。
記事にしていたら、ぐだぐだと余計なこと書いちゃった気がするw
言いたいこと一行で済んでるしwww
今回はまあこんな感じで
