東日本大震災 3.11
志村けん 3.29
私は このキーワードに弱い
2020.3.11 忘れもしない
母が亡くなった日
ニュースで震災や志村けんというワードが聞こえる度、今後も私の気持ちは一気にあの時に戻るだろう
大病もせずに過ごしてきた母が、電話してきて「病院につれて行って欲しい。点滴してもらったら大丈夫だから。」と、言った。
病院に着いて診察後、母はレントゲンを撮りDrから少し気になる所があるから、と説明され再検査の為CT検査へ。
その間に私はDrに呼ばれた。
原発癌がここで、あちこちに転移している。
あと、1ヶ月もすれば歩けなくなるだろう。
目の前の視界が急に歪んでボヤけたと思ったら涙が溢れ止まらなかった。
どうしたらいい、どうすればいい、わたし。
人は何と無力なんだろう。
いざと言うときに考えれないし動けない。
そうこうしてたら、母が検査から戻って来た。
慌てて涙を拭く。
泣き顔を母に悟られてはいけない。
結果が分かるまで日にちがかかるから、と母にはDrから説明し、その日は点滴を一本してもらい帰ってきた。その間に、母に病名告知するかどうか考えてくるようDrに言われた。
そしてそれから2週間が過ぎてちょうど亡くなる1ヶ月前。
母がまた電話してきて「こないだの先生にまた点滴してもらいたい。」と。
いつも、いつも。
この時でさえも体調を尋ねても「大丈夫」
と言うだけの母。
病院に着いてDrに、母がまた点滴をして欲しいと希望している旨を伝えた。
Drは「そっか~。じゃ、点滴しようか。」と看護師さんに指示を出し母は外来の点滴室へ。その間にまたDrに呼ばれ、病名告知はどうするか話していたら、看護師さんが報告に来た。
外来で点滴している最中にバイタル測定していたらSpO2が下がっていく。
本人は全然苦しくないと言う。
Drが母の元へ。
Dr「苦しくないですか?」
母「大丈夫です」気弱な小声
Drが母の指先に視線をやる。
その間にも少しずつ前後しながらも低下するSpO2の値。
Drはあくまでも自然に「今は少し値が低いから2、3日入院して酸素してみる~?」
チラッと私を見る母。
私「入院しよっか。」
少し残念そうに「うん・・・」と母は小さく答えた。
入院して1ヶ月で母はこの世を旅立った
入院してから日に日に酸素が1LずつUPしていくにつれ私の不安も増大する
入院当初、鼻から酸素チューブしてたのに、あっという間に酸素マスク。
先が長くないと判断した私は職場には事情を話し看取る為に
母に出来るだけ付き添いたいこと、
(兄弟は居るが)私しか面倒を見れる家族が居ないこと、
を 話すと有難い事に勤務調整してくれた
なるべく病室で母と過ごし
亡くなる2週間前からは泊まらせてもらった
コロナ禍の中、本当にありがたかった
先生には結局病名告知はしない方向でお願いします、と伝えた
自分が癌であちこちに転移している
と、知ったら、、、
今みたいに動けなくなるだろう
そう、私は思ったから。
以前、自分が死ぬ前に病名告知して欲しい?みたいな話をしたことがある。
もちろん母は「病名知りたい」って言ってた
後悔無いように残りの人生過ごしたいから
って。
亡くなる3日前、どうしても仕事が休めなくて仕事終わって20時頃病室に行くと酸素マスクを外してた
私を見て「さよなら、さよなら」と
母は凄い苦しそうに呼吸しながら私がいないうちに自殺しようとしていた。
泣きながら大声で怒った
マスクをつけても直ぐ外す
そのやり取りを何度もしながら
私は涙と怒りが収まらず母と大喧嘩した
やっとマスクを外さなくなった母に
怒りながら、不要な荷物を少しでも減らして持って帰ろうとバッグの中に投げ入れながら少し頭を冷やそうと(病人相手に怒鳴る自分が情けなくて辛くて一旦距離を置こうと)病室を出ようとしたら
ハァハァと苦しそうなのに
懸命に「待って」「待って」と母は私を呼び止める(多分、本当に家に帰ってしまう、ひとりぼっちにされてしまう、と思い、大きな孤独と不安が押し寄せてきのただろう)
私は帰る気は勿論なくて
病室を出て少し頭を冷やし
母がウトウトし出したら戻ろう
そう思っていたけど
母は小さい子のように
「待って」「待って」
「(帰らんとって)」と。
その大喧嘩の3日後に亡くなった
私の心の中には未だに大きな後悔が残る
きっと死ぬまで忘れない
病床の母に 病名も告げず
しかも大喧嘩した
だから、私にとって3月はとても辛い月
忘れようにもニュースであの頃を思い出さされる
1年前のあの日
夕日が印象的な日だった
私は忘れる事はないだろう
今日で3月は終わる
明日からは4月
少しでも前を向きたくて
自分を抱き締めてあげたくて
久しぶりにブログを書こうと思った
泣いても笑っても同じ1日
なら、私は笑顔で前に進みたい



