こどもの日だけじゃない。

いつも思う。

すべてのこどもは、人類の宝、未来そのもの。


紛争や戦争に巻き込まれたり、飢餓や貧困、病魔と戦うこども達に、穏やかで愛と安全に満ちた時間が少しでも多く訪れることを、切に願う。


日本の場合は、平和ではあるものの、出生数とこどもの数の減少が、国の存続を揺るがすほど深刻だ。

特定の市町村だけの問題ではない。


子育て世代が仕事と育児の両立の過程で、収入を得にくい条件を強いられることには、各企業の理念と努力だけに頼らず、国や自治体の施策と支援が急務だ。


一方で、世界一の高齢化社会を迎えた中での私達60代以上のシニアは、健常な生活をできるだけ長く保てるよう自らの心身をケアしながら、急速に進化する時代の中で、積極的に学びの機会を持ち、経験値だけに頼らない知恵と視野の広さを養うべきだと、強く思う。


「若い人について行く」などと言っているだけでは、その人数の重さで、若者世代の荷物になるだけだ。


私が住んでいる地区の統合小中学校には、60代以上の再雇用の教師が10人以上いると聞いた。一学年2〜3クラスの、県内2例目の公立小中一貫校だ。


教員の人手不足により、定年直後の先生方は、引っ張りだこ。

限定的かもしれないが、近隣の市では、70代80代で臨時の担任を務めている人もいると聞く。


これらの事象は、ネガティブな事ばかりとは限らない。

ひと昔前は、定年後の公立学校の校長先生と言えば、県の庁舎や出先機関で、悠然と書類に印を押しているような立ち位置だった。

今は、私達の地域でも、多くの元校長先生達が教育現場に戻り、それぞれの専門分野で、体育の手本を子供たちに見せたり、数学や算数、歴史などを目を輝かせてイキイキと教える姿に度々出会う。


役所でハンコを押してる場合じゃなくなったのだ!


近隣の小学校に着任した70代の担任教諭の存在に話題が及ぶと、皆一様に驚くが、注視すべきは年齢ではない。個人差が大きくなるシニア世代は、その視野の広さや向上心、予測不能な日常の様々なリスクに、どれほど大らかな心で立ち向かえるか…が焦点になると思う。


私達が育った昭和は、努力と根性が褒められたのはもちろんのこと、年功序列や男尊女卑もあからさまだった。


今のシニア世代は、頭では時代の変化を理解しているものの、言葉の端々に、昭和の封建的な感覚や、すでに役に立たなくなった経験値が顔を出してしまうことがある。


そして、元気で最先端を迷いなく走るシニアも、たくさんいる。

権力を振りかざして既得権益を守る政治家のことではない。


カラダを柔らかく保ち、トレーニングを欠かさず、自由な発想で、他者を喜ばせることに重点を置くシニア達。


そのような大人達は、年齢に関わらず魂が輝き、年下から学ぶことに積極的だ。


人として、ささやかな成功体験の積み上げがあり、それらが無意識に根付いている人達は、年齢に関わらず、他者から学ぶのが得意だ。


一方で、戦い過ぎて、地位の割に自己肯定感が低い大人は、現代の暴君になりやすい。が、周りが上手に扱い過ぎると、「裸の王様」ならぬ「裸の令和の暴君」と化してしまう。


社会のあちこちでパワハラが問題になる根底には、パワハラをそれと認識せずに働いてしまう側の、競争社会で戦い過ぎ傷ついた心の弱さとそのカラクリを感じてしまう。


先日、中学2年生になった孫娘の誕生日に、本人が希望する本を何冊か贈った。リクエストを受けて取り寄せたり本屋に探しに行き、現物を見て驚いた。


結末が複数あったり、物語の順番が自由に変えられたり。発想が縦横無尽に進化しているが、孫というアンテナが無ければ、知らずに過ぎてしまうかもしれないジャンルだ。

そういえば、大人気のヨシタケシンスケ氏の絵本も右から読むのと左から読むのでは、心に問いかけてくる印象がまるで違う。


こどものためだけじゃない。


大人こそ、気持ちと発想を柔らかくするレッスンが、今こそ必要だ。

相手の知覚に響くコミュニケーション術も体系的に整えられていて、身につければ、互いの理解がしやすくなる。


こども達とともに、新しい世の中をワクワクしながら、作っていこう。


↑立派な武将になることを願った訳ではなく、健やかに育つことだけを願った我が家の鎧兜と5月人形。今も絶えない世界の紛争を思うと、武具でこどもの成長を願った名残が残っていることにも複雑な思いだ。