GWもあと数日・・すっかり初夏の太陽になりました。みなさんはどのようにお過ごしですか?

私は犬を預かったり、またこんなきれいなバラも我が家に来てくれましたティンカーベル

 

ブログのタイトルを少し変えました。

「あらゆるものとのコミュニケーションが教えてくれる真実」

 

一番わかりそうでいてわからないのは自分のこと。一頃はこの謎を知りたくて本をよく読んだ時期もありました、今はあまり読まなくまりました。知るよりも、一体になってみる。それを望んでいたことに気が付いてからです。

 

「自分になる」ことを、いくら頭の中でこねくり回しても、それは鏡に映った自分の姿をひたすらみているようなもの。自信のなさから、いつも答えを外に求めていたように思います。

 

でもね、外に目を向けない限り、つまり、自分が引きつけているものを自分で見ようとしない限り、自分のことはわからない。鏡を覗いても見えるのは正面だけ。その人を周りに映し出すのはその人の背中です。

 

「あの時あんなことを言わなければ・・」「どうして自分は・・なのか」、こういう自分の中の会話を止めてみます。すると、自分の周囲にいろんなものがあることにようやく気が付きます。そして、周りにある人やものみて、スキとか嫌いとかでもいい、とにかく感じていることを正直に受け止めてみると、自分の背中が見えてくる。

 

好きとか、嫌いとか、心地いいとか・・・その感覚こそが今ここの「自分」です。外と一体化して感じるよる、頭の中の番頭さんと一体化してしまう癖があるから、簡単だけれど難しい。

 

でも、自分の「好き」や「心地よさ」がわかってくると、その実現に「必要なもの」に焦点があって、自分の中での矛盾がなくなってきます。思い・言葉・行動は同じ方向を指しはじめ、「自分」そのものになっていきます。本音と建て前があっても、自分の中で本音で寛げる・・そんな感覚でしょうか。背中と正面の境もなくなって、自分の中が一つになって楽になります。

 

自分の周りの人やものは、自分に縁があって目の前に現れます。ないものは絶対に現れません。同じように、自分の中から湧き上がる考えは「縁」があってでてきた考えで、これを言葉にして、行動にしている人に透明感があることがだんだんわかるようになりました。

 

GW中、預かった犬をみてはカワイイと思わず微笑み、花を見ては「花の妖精ってやっぱりいる・・」と思ったり、あるいは、怒ったり、愚痴を聞いたり、人やものに限らずいろんなところでコミュニケーションがありました。微笑みも、むっとする気持もすべて本物。

 

知りたいのではなく、今ここにいて、生き生きとした自分でありたい。これが、「自分を知りたい」という思いの究極の理由のような気がします。

 

私は、周囲のものと自分がつながっている感覚を取り戻すことで、自分の感情とつながれました。つながっている感覚がないと、自分の中で、ありのままで寛ぐことにOKを出すことは難しい。怖いです。分離していると思っていれば、自力で自分を「修正」しようとして、鏡をみることに必死になります。

 

透明になればなるほど、思い・言葉・行動・その結果がぐるぐると一つの円のようになって、いろんなメッセージを受け取れようになって、自動的にその人の「真実」を軽やかに生きる、そうなれたら、時間も空間も超えて光のようあになる気がします。

 

マハトマ・ガンジーの言葉を最後にご紹介します。

「私は他の人と同じように間違いもあれば、怒ることもあります。でも、その過ちや自分の行動を認め、受け入れるだけの謙虚さがあります。」

 

思い、言葉、行動の中で、自分に謙虚にある人は、透明感もあり、美しいです。なぜなら、自然そのものだから。