正面から吹く風が心地良い。自転車で山道を駆け抜けるのは非常に心地良い。
後ろには沙梨が乗っている。がっしりと僕の体に腕を巻き付けている。落ちでもしたら大けがは必至だ。
高校までの距離が遠いことから、母が自転車を買ってくれた。バスが無ければ、一時間以上歩かないといけない登下校を楽にするためだ。これなら、寝坊しても遅刻しないで済むかもしれない。
花火を楽しんだ昨夜から十二時間後、今日も沙梨と学校に向かう。朝の涼しいうちに家を出ようという沙梨の提案を飲んだ僕は、六時に目が覚めた。
家を出て、昨日母が買ってきてくれた自転車に乗り込む。これが初めての自転車ではない。小さいころ、おじいちゃんが自転車を持っていて、時々それに乗っていた。バランス感覚は良いらしく、すぐに乗れるようになった。
数年のブランクがあったが、今度もすぐに乗ることができた。畑を眺めながら自転車を走らせる。父が収穫作業をしている。一体いつからしているのだろうか。
一〇分ほど走り、家に戻る。自分の部屋で、本を読みながら時間を潰す。約束の時間まであと二時間弱。今日は何をしに行くのだろうか。
八時ちょうど、沙梨がベルを鳴らす。僕は母が用意してくれたおにぎりを二つ、鞄の中に入れ、家を出る。
「お待たせ」
「よし、行こう」
沙梨が歩き始める。
「ちょっと待って。昨日自転車買ってもらってん。一緒に乗って行こうや」
「え、ほんまに?見せて見せて」
庭に置いておいた自転車を取りに行く。色はシルバー、かご付きの一般的な自転車だ。あえて違う点を挙げるとするなら、タイヤの幅が少し広いことだろうか。舗装されていない道を走ることもあるので、安全面を考えてそれに決めた。新品のそのボディは、傷一つなく輝いている。
「これこれ。どう?」
「いいやん。荷物、かごに入れていい?」
「ええよ。じゃあ、行こっか」
二人分の荷物をかごに入れ、二人で自転車に乗る。注意深くペダルを踏みこむ。速度はあまり出さない。自分だけならこけても問題は無いが、沙梨も乗っているとなると話は変わってくる。絶対に事故を起こしてはいけない。それなら、最初から二人乗りなどするなと言われそうだが、一人が自転車、もう一人が徒歩だと歩いている方が可哀そうだ。
畦道を抜け、コンクリートの道に出る。こうなると少し余裕が出てくる。さっきよりも速度を上げる。僕に絡める腕に力が籠る。
今日は風が強い。海も普段より荒れている。波が勢いよく砂浜に押し寄せている。
学校に着く。はっきりと時間は計っていないが、バスと徒歩で行くのとあまり変わらない気がする。
駐輪場は無いので、先生たちの車の横に停める。念のため鍵を掛けておく。
「で、今日は何するん」
「プール掃除。福本先生に頼まれた」
「もう七月やけど、今から掃除するねんな」
「うん。これから夏休みやん。生徒がプールで遊べるように水入れるんやって」
「なるほどね。俺たちが遊ぶためにも掃除せんといかんってわけか」
「そゆこと。じゃ、早速やろっか」
校舎の隣にあるプールに向かう。十五段の階段を上り、先生から借りた鍵を使って門を開ける。
水の入っていないプールがあった。一般的な二十五メートルプール、コースはしっかり八つある。底の部分にはところどころ汚れが見えた。
「掃除道具持ってきて」
「どこにあるん」
「ロッカーみたいなところに入っとるやろ」
「うわー、てきとう」
そう言いつつも僕はロッカーを探す。すると、シャワーの横に扉のへこんだロッカーがあった。
立て付けの悪い扉を何とか開ける。そこには先が緑色のブラシが二本入っていた。備品としては充実しているとは言い難いが、二人で掃除するには十分だ。
二本のブラシを持ち、沙梨の元へ戻る。
「ブラシ、取ってきた」
「ありがとう」
沙梨はホースを蛇口に差していた。これで水を流しながら掃除するつもりなのだろう。
「じゃあ、始めまーす」
沙梨が必要があるのかわからない掛け声を出し、水を流し始める。まずは大きな汚れを落とすことにする。
沙梨がホースを持ったまま動こうとしないので、一人でブラシを動かす。思っていたよりも汚れが落ちにくい。かなり力を入れないといけないようだ。
五分ほどで、三つくらいの汚れを落とす。顔を上げ、プール全体を見る。最初に確認したときよりも汚れは多いように思えた。一気にやる気が無くなる。
プールサイドに座り、ブラシを置く。背中をつけ、空を見る。今日はまさに晴天だ。雲が全く見当たらない。
「おーい、さぼるなー」
沙梨の声が聞こえる。一度やってみろ。結構しんどくて面倒くさい作業だから。
なんて思っていると、突然視界がぼやけ、その直後、多量の水が僕の顔を濡らした。上を向いていたせいで、息が一瞬できなくなる。
「ちょっと」
沙梨の笑い声が聞こえてくる。上体を上げたが未だ水は僕を襲い続けている。
ようやくホースの向きがプールに戻る。すっかり服はびちょびちょに濡れてしまった。
「なにしとん」
「怜雄が掃除せんから」
「だって、めんどくさいもん」
「じゃあ、もう一回水かけるで」
「これ以上濡れても関係なさそうやけど」
沙梨は無言で僕にホースを向ける。僕は全身で受け止める。シャツだけでなくズボンまで濡れる。
「もう、私もやるから。一緒にやろ?」
沙梨がブラシを持ってプールサイドから飛び降りる。ホースを目一杯引っ張り、自身の手が届くところに置く。
僕もブラシを持ち、再びプールの底に立つ。
一時間ほどブラシを動かし続けた。汚れはかなり減った。目に見える限り、残り四分の一くらいだろうか。
「怜雄ー、水」
僕はホースを引っ張り、沙梨が指さしているところへ向ける。
「ありがと」
僕はホースを右手に持ったまま、プールサイドに腰かける。沙梨は掃除に夢中で気づいていない。
意味もなく、ホースを斜め上に向けて水を出す。太陽のおかげで虹が発生する。はっきりと赤や青が見える。そういえば、空にかかる虹を何度見たことがあるだろうか。
いまだ気づかない沙梨に向けて水を放つ。見事に頭頂部にヒットする。ホースの先を押さえて出したため、かなりの勢いがあった。
沙梨が大勢を崩す。足元が濡れていたせいで、そのままこける。幸い頭からは落ちなかったようで、腕をさすりながらすぐに立ち上がる。
「ちょっとー、サボっとるだけやったらなんも言わんかったのに」
「え、ばれとった?」
「当たり前やん。はい、ホース役変わったる」
「いやー、ええよ。ほら、俺ってホース好きやん」
「いいからいいから。ほら、早くブラシもって掃除して」
沙梨の勢いに押され、ホースを手放す。沙梨が不敵な笑みを浮かべながらホースを持つ。
僕は集中することなくブラシを動かす。時間の進みが遅く感じた。水は最後まで飛んでこなかった。
二人でほとんどの汚れを落とした。目立つものは見当たらない。
「お疲れ様」
「お疲れ」
水を止める。かれこれ三時間以上が経過していた。太陽はかなり高くなり、僕たちの頭を容赦なく照りつけている。
「はー、暑い」
「じゃあ涼しくしてあげる」
沙梨が水をかけてくる。抵抗はしない。すぐに体感温度が下がる。
「終わりでいいでしょ」
「そうやね。結構頑張った」
沙梨の袖をまくる仕草にドキッとする。両袖をまくり、ノースリーブのような形になる。細身の白い二の腕が露わになる。
ブラシをロッカーに直し、プールサイドに戻ると沙梨の隣に座る。改めてプールを眺める。見違えるほどきれいになった。
「なあ、この後どうする?」
「暇やな」
「うん」
時間はまだ正午を少し過ぎたあたりだ。時間は困るくらい有り余っている。まだ夏休みではないので宿題はもらっていない。ただ、時間が過ぎるのを待つだけだ。
虹が見たい。ふとそう思った。赤、橙、黄、緑、水色、青、紫。ただ七色の光が並んでいるだけなのに、なぜあれほどまでに美しいと感じるのだろうか。
海に行きたい。福本先生の車で連れて行ってもらおうか。今年は夜にも行ってみたいな。人のいない海で、波が押し寄せる音を聞きながら浜辺を歩くのは楽しそうだ。祭りにも行きたい。りんご飴なんて舐めながら歩こうか。打ち上げ花火も見たい。空に浮かぶカラフルな花火を見たい。あぁ、この夏、したいことがたくさんある。いくつ、沙梨と一緒に経験できるのだろうか。