正面から吹く風が心地良い。自転車で山道を駆け抜けるのは非常に心地良い。

 後ろには沙梨が乗っている。がっしりと僕の体に腕を巻き付けている。落ちでもしたら大けがは必至だ。

 高校までの距離が遠いことから、母が自転車を買ってくれた。バスが無ければ、一時間以上歩かないといけない登下校を楽にするためだ。これなら、寝坊しても遅刻しないで済むかもしれない。

 

 花火を楽しんだ昨夜から十二時間後、今日も沙梨と学校に向かう。朝の涼しいうちに家を出ようという沙梨の提案を飲んだ僕は、六時に目が覚めた。

 家を出て、昨日母が買ってきてくれた自転車に乗り込む。これが初めての自転車ではない。小さいころ、おじいちゃんが自転車を持っていて、時々それに乗っていた。バランス感覚は良いらしく、すぐに乗れるようになった。

 数年のブランクがあったが、今度もすぐに乗ることができた。畑を眺めながら自転車を走らせる。父が収穫作業をしている。一体いつからしているのだろうか。

 一〇分ほど走り、家に戻る。自分の部屋で、本を読みながら時間を潰す。約束の時間まであと二時間弱。今日は何をしに行くのだろうか。

 八時ちょうど、沙梨がベルを鳴らす。僕は母が用意してくれたおにぎりを二つ、鞄の中に入れ、家を出る。

「お待たせ」

「よし、行こう」

 沙梨が歩き始める。

「ちょっと待って。昨日自転車買ってもらってん。一緒に乗って行こうや」

「え、ほんまに?見せて見せて」

 庭に置いておいた自転車を取りに行く。色はシルバー、かご付きの一般的な自転車だ。あえて違う点を挙げるとするなら、タイヤの幅が少し広いことだろうか。舗装されていない道を走ることもあるので、安全面を考えてそれに決めた。新品のそのボディは、傷一つなく輝いている。

「これこれ。どう?」

「いいやん。荷物、かごに入れていい?」

「ええよ。じゃあ、行こっか」

 二人分の荷物をかごに入れ、二人で自転車に乗る。注意深くペダルを踏みこむ。速度はあまり出さない。自分だけならこけても問題は無いが、沙梨も乗っているとなると話は変わってくる。絶対に事故を起こしてはいけない。それなら、最初から二人乗りなどするなと言われそうだが、一人が自転車、もう一人が徒歩だと歩いている方が可哀そうだ。

 畦道を抜け、コンクリートの道に出る。こうなると少し余裕が出てくる。さっきよりも速度を上げる。僕に絡める腕に力が籠る。

 今日は風が強い。海も普段より荒れている。波が勢いよく砂浜に押し寄せている。

 

 学校に着く。はっきりと時間は計っていないが、バスと徒歩で行くのとあまり変わらない気がする。

 駐輪場は無いので、先生たちの車の横に停める。念のため鍵を掛けておく。

「で、今日は何するん」

「プール掃除。福本先生に頼まれた」

「もう七月やけど、今から掃除するねんな」

「うん。これから夏休みやん。生徒がプールで遊べるように水入れるんやって」

「なるほどね。俺たちが遊ぶためにも掃除せんといかんってわけか」

「そゆこと。じゃ、早速やろっか」

 校舎の隣にあるプールに向かう。十五段の階段を上り、先生から借りた鍵を使って門を開ける。

 水の入っていないプールがあった。一般的な二十五メートルプール、コースはしっかり八つある。底の部分にはところどころ汚れが見えた。

「掃除道具持ってきて」

「どこにあるん」

「ロッカーみたいなところに入っとるやろ」

「うわー、てきとう」

 そう言いつつも僕はロッカーを探す。すると、シャワーの横に扉のへこんだロッカーがあった。

 立て付けの悪い扉を何とか開ける。そこには先が緑色のブラシが二本入っていた。備品としては充実しているとは言い難いが、二人で掃除するには十分だ。

 二本のブラシを持ち、沙梨の元へ戻る。

「ブラシ、取ってきた」

「ありがとう」

 沙梨はホースを蛇口に差していた。これで水を流しながら掃除するつもりなのだろう。

「じゃあ、始めまーす」

 沙梨が必要があるのかわからない掛け声を出し、水を流し始める。まずは大きな汚れを落とすことにする。

 沙梨がホースを持ったまま動こうとしないので、一人でブラシを動かす。思っていたよりも汚れが落ちにくい。かなり力を入れないといけないようだ。

 五分ほどで、三つくらいの汚れを落とす。顔を上げ、プール全体を見る。最初に確認したときよりも汚れは多いように思えた。一気にやる気が無くなる。

 プールサイドに座り、ブラシを置く。背中をつけ、空を見る。今日はまさに晴天だ。雲が全く見当たらない。

「おーい、さぼるなー」

 沙梨の声が聞こえる。一度やってみろ。結構しんどくて面倒くさい作業だから。

 なんて思っていると、突然視界がぼやけ、その直後、多量の水が僕の顔を濡らした。上を向いていたせいで、息が一瞬できなくなる。

「ちょっと」

 沙梨の笑い声が聞こえてくる。上体を上げたが未だ水は僕を襲い続けている。

 ようやくホースの向きがプールに戻る。すっかり服はびちょびちょに濡れてしまった。

「なにしとん」

「怜雄が掃除せんから」

「だって、めんどくさいもん」

「じゃあ、もう一回水かけるで」

「これ以上濡れても関係なさそうやけど」

 沙梨は無言で僕にホースを向ける。僕は全身で受け止める。シャツだけでなくズボンまで濡れる。

「もう、私もやるから。一緒にやろ?」

 沙梨がブラシを持ってプールサイドから飛び降りる。ホースを目一杯引っ張り、自身の手が届くところに置く。

 僕もブラシを持ち、再びプールの底に立つ。

 

 一時間ほどブラシを動かし続けた。汚れはかなり減った。目に見える限り、残り四分の一くらいだろうか。

「怜雄ー、水」

 僕はホースを引っ張り、沙梨が指さしているところへ向ける。

「ありがと」

 僕はホースを右手に持ったまま、プールサイドに腰かける。沙梨は掃除に夢中で気づいていない。

 意味もなく、ホースを斜め上に向けて水を出す。太陽のおかげで虹が発生する。はっきりと赤や青が見える。そういえば、空にかかる虹を何度見たことがあるだろうか。

 いまだ気づかない沙梨に向けて水を放つ。見事に頭頂部にヒットする。ホースの先を押さえて出したため、かなりの勢いがあった。

 沙梨が大勢を崩す。足元が濡れていたせいで、そのままこける。幸い頭からは落ちなかったようで、腕をさすりながらすぐに立ち上がる。

「ちょっとー、サボっとるだけやったらなんも言わんかったのに」

「え、ばれとった?」

「当たり前やん。はい、ホース役変わったる」

「いやー、ええよ。ほら、俺ってホース好きやん」

「いいからいいから。ほら、早くブラシもって掃除して」

 沙梨の勢いに押され、ホースを手放す。沙梨が不敵な笑みを浮かべながらホースを持つ。

 僕は集中することなくブラシを動かす。時間の進みが遅く感じた。水は最後まで飛んでこなかった。

 

 二人でほとんどの汚れを落とした。目立つものは見当たらない。

「お疲れ様」

「お疲れ」

 水を止める。かれこれ三時間以上が経過していた。太陽はかなり高くなり、僕たちの頭を容赦なく照りつけている。

「はー、暑い」

「じゃあ涼しくしてあげる」

 沙梨が水をかけてくる。抵抗はしない。すぐに体感温度が下がる。

「終わりでいいでしょ」

「そうやね。結構頑張った」

 沙梨の袖をまくる仕草にドキッとする。両袖をまくり、ノースリーブのような形になる。細身の白い二の腕が露わになる。

 ブラシをロッカーに直し、プールサイドに戻ると沙梨の隣に座る。改めてプールを眺める。見違えるほどきれいになった。

「なあ、この後どうする?」

「暇やな」

「うん」

 時間はまだ正午を少し過ぎたあたりだ。時間は困るくらい有り余っている。まだ夏休みではないので宿題はもらっていない。ただ、時間が過ぎるのを待つだけだ。

 虹が見たい。ふとそう思った。赤、橙、黄、緑、水色、青、紫。ただ七色の光が並んでいるだけなのに、なぜあれほどまでに美しいと感じるのだろうか。

 海に行きたい。福本先生の車で連れて行ってもらおうか。今年は夜にも行ってみたいな。人のいない海で、波が押し寄せる音を聞きながら浜辺を歩くのは楽しそうだ。祭りにも行きたい。りんご飴なんて舐めながら歩こうか。打ち上げ花火も見たい。空に浮かぶカラフルな花火を見たい。あぁ、この夏、したいことがたくさんある。いくつ、沙梨と一緒に経験できるのだろうか。

 教室に短冊を付けた竹が飾られている。今日は、一年に一度、天の川を隔てて暮らしていた二人の男女が出会う日、七夕だ。ロマンチックな雰囲気がある七夕だが、結婚した彦星と織姫が怠惰な生活を送り始めたことが原因で別れさせられた、という話にはロマンチックのかけらも無い。

 沙梨が四枚目の短冊にペンを走らせている。果たして、個人で複数の願い事をしてもいいのだろうか。

「四枚目は何書いとん?」

「もっと絵が上手くなりますように、って」

「まだ上手くなる気なんか」

「当たり前やん。怜雄はなんか書いたん?」

「書いたで。数学と物理のテストを同じ日におこなわないでください、って」

「何そのお願い。もしかしたら、先生が見たらほんまにしてくれるかもね」

 時刻は午後四時過ぎ。期末テストを終え、一学期の授業はすべて終わった。今日は、沙梨に誘われて学校に来たのだ。

「なあ、もう帰りたいんやけど」

「あかんで。先生たちが用意してくれた花火するって言ったやん。あと、三時間もすれば始まるんちゃう?」

「長いわ」

 机に突っ伏し、腕を枕代わりにして目を閉じる。昨日は少し寝るのが遅かった。何もすることが無い三時間なら、寝てしまった方が楽だろう。幸運なことに、すぐに眠気が襲ってきた。

 

 目を覚ますと、外はすっかり暗くなっていた。時計を見ると午後六時半だった。

「おはよう。もうちょっとで始まるって。さっき先輩が呼びに来た」

「わかった」

 椅子から立ち上がり、教室を出ようとすると竹が目に入った。そこに飾ってある短冊の数は、寝る前よりも明らかに増えていた。沙梨の願いは尽きないみたいだ。

 二人で教室を出て、みんなが待つ校庭へ行く。先生は懐中電灯を持っている。

「田村ー、遅い」

「すみませーん」

 先輩たちはすでに全員そろっていた。

「じゃあ、始めるか」

 三年の担任、奥井先生の声で全員が一斉に花火に火を点ける。すぐにシュー、という音と共に校庭が様々な色に輝く。

 僕も、みんなから少し遅れてから花火を持つ。スーパーで売っているような、家族で楽しんで、みたいな感じの手持ち花火だ。それが四袋ある。これが多いのか少ないのかはわからない。

 僕たちの担任、福本先生に火を点けてもらう。少しして、緑の火花が煙と共に飛び出す。

 花火なんていつ以来だろうか。小学生の頃は、毎年のように親に頼んで買ってもらい、姉と一緒に家の庭で楽しんでいた気がする。

「怜雄ー、楽しんでる?」

「楽しんでる」

 沙梨は僕の隣に来て、二本目の花火に火を点ける。先生から借りたのか、逆の手にはライターを持っていた。

 持っていた花火の元気が無くなった。バケツの中の水に落とす。ジュっと、一気に温度が下がり、黒ずんだ水に沈んでいく。

 その後も、何度も花火を持ち、火を点け、輝くその棒の先を眺めた。緩やかに流れる風のおかげで、煙に困ることは無かった。

 四袋あった花火は、思っていたよりもすぐに減っていった。先輩たちの花火に対する楽しみは終始衰えなかった。

「よし、この大きいのやるか」

 二年の担任、藤原先生が指さしたのは、各袋に一つずつ入っている小さな打ち上げ花火だ。先輩たちのボルテージがさらに上がる。

 四つすべてが一列に並べられる。最初は一つずつ火を点ける予定だったが、一気にやった方が楽しそうだ、と誰かが言い、その結果このような形になった。

 先輩たちが花火の近くにしゃがみ、手に持ったライターに火を灯す。

「よし、いくぞー」

 うち一人が声を出し、同時に火が点けられる。小さくパチパチと鳴り、徐々に導火線を火が昇っていく。

 その火が見えなくなった直後、ヒューと音が鳴り、花火が空に現れる。それは小さいながらも、とても明るく輝いていた。

 もう一度音が鳴る。先輩の声が聞こえる。視線をさらに上げると、澄んだ空にたくさんの星が瞬いていた。今まさに、彦星と織姫が会っているのだろうか。確かにこれは、ロマンチックかもしれない。僕の視線の先に、花火が一つ輝いた。

 

 さっきまでの喧騒は何だったのだろうか。全員が目の前のオレンジ色の玉に集中している。

 僕を含め、数人の手元から、パチパチと音が鳴り、火花が飛び始める。ひとまず、第一関門突破だ。

 他の人たちからも音が聞こえてきた。ちなみに、福田先生は早々に風に吹かれ、不運な形で玉を落とした。さっきから隅でいじけている。

 先輩たちが次々と脱落し、ついには僕と沙梨だけになった。先輩からヤジが飛んでくる。

「おい田村。女子に勝ってうれしいか?」

「沙梨ちゃん。頑張って」

 男子だけでなく、女子の先輩までもが言う。そのヤジのせいか、手元が揺れて、がここまで育ててきた玉が足元に落下する。

「いぇーい」

 なぜか沙梨よりも先輩たちの方が先に喜ぶ。

 その後も沙梨は結局六分ほど粘った。

「じゃあ、これで終わりにします。各自気をつけて帰宅するように」

 先生たちに片付けを任せ、僕たちは帰路に着く。

 月明かりの下、沙梨と二人で帰る。先輩の中には山を越えて登校している人もいる。こんな時は大変だろうな、といつも思う。

 家屋からもたらされる光が増えてきた。

「これ、今からしちゃう?」

 沙梨が手に持っているものを僕に見せてくる。

「改めて、ってなってもしなさそうやもんな」

「じゃあ、しよう。家まで来る?」

「久しぶりに行こっかな」

「じゃあ決まり」

 自宅の横を通り抜け、沙梨の家まで歩く。行くのは三ヵ月ぶりくらいだろうか。以前は余った野菜を届けに行った。

 線香花火対決の景品は、余った線香花火をすべてもらえるというものだった。合計で一〇本ほどある。

 沙梨が一旦家に入り、すぐにライターを持って戻ってくる。

「じゃあ、始めよっか」

 縁側に座り、火を点ける。ぼんやりと火の玉を見ていると落ち着いてくる。

 二人で五本ずつした。五本全て、沙梨の方が長かった。

「ばいばい」

「じゃあ、また明日」

「明日もか」

「うん。朝から学校行くよ」

「わかった。じゃあ」

「ばいばい」

 沙梨と別れる。今日は、いわゆる上弦の月というものだろうか。理科の授業で習った気がする。

 花火、楽しかったなー。

 蝉の声が響き渡る教室で、僕たちは問題用紙を前に苦しんでいる。いや、正しくは『僕は』かもしれない。

 今日はテスト期間の三日目、最終日だ。一科目目が物理で、二科目目が数学、三科目目が古文だ。よりにもよって、物理と数学が同じ日にある。二科目とも、嫌いだし、苦手だ。それに比べて、沙梨の方は得意科目が二科目もあり、朝から余裕の表情を浮かべていた。できれば、今日一日だけでいいから脳を交換してほしい。

 蝉も体力が尽きたのか、鳴き声の大きさがかなり小さくなった頃、ようやくテストが終わった。苦痛でしかなかった。物理と数学、この二科目を同日に行わないでほしい。明後日の七夕は、これを望んでみようか。

「お疲れ」

「お疲れ様」

 筆記用具を鞄にしまい、帰る準備を終えた沙梨がこっちに近づいてくる。

「どうやった?物理と数学」

「愚問や。できてるわけがない」

「そんなことやと思った。まあ、終わったことやし、忘れよ」

「そうやな」

 教室に先生が入ってきた。

「先生、お疲れ様です」

「二人とも、ちゃんとできた?」

「当たり前です」

「ノーコメントで」

 先生はいつも使っている椅子に腰を下ろす。教卓の横に先生専用の机と椅子が置いてある。休み時間、職員室に帰る必要が無いときなどは、この椅子に座って時間を潰す。

「今日暇?」

「暇ですけど」

「じゃあ、晩御飯、一緒に食べに行く?」

「え、マジっすか?おごりっすか?」

「それは、田村君のテストの点数次第かな。もし悪かったら、後日請求するかも」

「うわー、ケチだ。この人やっぱりケチだ」

「やっぱりってなによ」

「先週くらいかな。自動販売機の前で会った時も、買ってくれなかったじゃないですか」

「あー、確かにそんなこともあったね。まあいいよ。今日は私がおごってあげる、二人とも一緒にご飯食べよう」

「ありがとうございます」

 先生の仕事が終わるまで教室で時間を潰す。校庭では、いつもの先輩たちがサッカーをしている。

 教室に先生が戻ってくる。

「じゃあ、行きましょう」

 先生と一緒に校舎を出る。小さな駐車場に、先生の軽自動車が停まっている。僕が助手席、沙梨が後部座席に乗る。さすがに、校庭に人はいなかった。

「で、行くところは決まってるんだけど、いいでしょ?」

「多分、あそこですよね」

「うん、あそこ」

 僕たちの町でご飯を食べると言えば、ある定食屋しかない。山を一つ越えればもう少し飲食店は増える。でもそこまでしたくはない。そんなときに行くのが、今から行く「福田屋」だ。

 もちろん店主の名前は福田さん。夫婦で切り盛りしている。来年で開店三十五周年を迎えるらしい。近所の人たちにとって、大切な交流の場として今もなお人気だそうだ。

 学校から車で一〇分、すっかり色の落ちた暖簾が見えてきた。久しぶりに来る。以前は沙梨と二人で、学校帰りに来た。

 お店が確保している駐車スペースに車を停め、暖簾をくぐる。まだ五時過ぎだというのに、店内には、三人のおじいちゃんがお酒を飲んでいた。

「あらいらっしゃい。珍しい組み合わせね」

「私の教え子なんですよ」

「あら、そうやったん?ま、落ち着いていって。どこ座る?お座敷?」

「二人はどこがいい?」

 先生が振り向いて僕たちに聞く。

「どこでもいいですよ。先生がお座敷座りたいって言うならそうします」

「じゃあ、お座敷で」

 店主のおばちゃんが笑いながら、奥へ引いていく。

 お座敷に座る。僕と先生が隣に座り、沙梨は僕の向かいに座った。

「何食べる?」

「うーん、刺身食べたい」

「いいね。井上さんは?」

「サラダ」

「それじゃお腹いっぱいにならないでしょ」

「じゃあ、唐揚げも」

「オッケー。じゃあ、注文するね?あ、飲み物は?」

「ウーロン茶で」

「同じ」

 先生がおばちゃんを呼ぶ。

「えー、刺身盛り合わせ二つと、唐揚げも二つ。それとシーザーサラダ、タコの唐揚げ」

「オッケー。すぐに持ってくるわね」

 少しずつ人が増えてきた。おじいちゃんの集まりは、三人だったのが五人に増え、他のテーブルにも埋まってきた。

 すぐに、サラダと刺身が来た。赤身、イカ、ハマチ。他にもいろいろな刺身が乗っている。すべてこの町の漁師が獲ってきたものだそうだ。

「いただきます」

 三人で刺身を食べる。久しぶりに食べたが、やっぱり刺身はおいしい。家ではほとんど出ないので、食べる機会はここに来る時くらいだ。

「おいしいなー。あー、ビールが飲みたい」

「飲んだらいいじゃない」

 唐揚げとタコの唐揚げを運んできたおばちゃんが言う。

「ダメなんですよ。今日車なんで」

「そりゃダメだ。まあ、今回は我慢しな」

「ですね」

 揚げたての唐揚げが出てくる。いい香りがする。沙梨が真っ先に箸を出す。

「うーん、おいしいー」

「沙梨ってさ、やっぱり唐揚げ好きだよな」

「嫌いな人なんておらんやろ」

「確かにそうやけど」

 僕も唐揚げを口に入れる。サクッとした衣と柔らかな鶏肉がうまみたっぷりの肉汁と絡み、とてもおいしい。口の中が幸せだ。

 先生が頼んだタコの唐揚げも食べさせてもらう。こっちはこっちでまたおいしい。

 すぐに一時間ほどが経過した。外は暗くなり始め、そろそろ帰りたくなってきた。

「じゃあ、そろそろ帰ろっか。残った刺身食べちゃって」

 追加でもう一つ注文した刺身が一切れだけ残っていた。

「じゃあ、沙梨食べなよ」

「ありがとう」

 沙梨はすぐに残っていた赤身を食べる。

「こういうときってお互いに譲り合う、みたいな感じになるんやないん?」

「え、怜雄が譲ってくれたやん」

「そうやけど」

「二人とも、行くよ」

 一足先に靴を履き、会計をしていた先生が呼ぶ。

「はーい」

 店主のおじちゃんと、お客さんのおじいちゃんたちが楽しそうに話していた。何の話をしているのだろうか。

 会計を済ました先生と店を出る。

「ごちそうさまでした」

「ありがとうございます」

「気にしないで。また、機会があったら食べに来よ」

「待ってます」

 再び先生の車に乗りこむ。すでに外は真っ暗だった。

「送ってあげる。家どこ?」

 先生に道を教えながら家まで送ってもらう。時々、道端で草を食べるシカを見つけたが、誰も反応しなかった。

 三〇分ほど走り、家の近くで下ろしてもらう。

「今日はありがとうございました」

「じゃあ、また明日ね」

「はい。さよなら」

 先生の車が遠ざかっていく。沙梨と二人、もう少しだけ家に向かって歩く。まだ小さな月が、微かに道を照らしていた。

 容赦なく太陽が照りつける中、僕は期末テストに向けて勉強をしていた。大きな図書館や、大きなカフェがこの町にあるはずなく、いつも勉強は学校でしている。

 テストを三日後に控えたこの日、僕は沙梨に数学を教えてもらっていた。土曜日の十三時。校庭には二年生が三人、サッカーをして遊んでいる。同じ状況にいるはずなのに、なぜこうも違うのか。なぜ彼らはあんなに余裕なのか。

「怜雄、聞いとる?」

「あ、ごめん。聞いてなかった」

「もう、怜雄が教えてって言ったんやから、集中してよ」

 僕は再び机に視線を戻す。いつも使っている教科書を使って勉強をしている。沙梨曰く、教科書の内容を完全に理解することがとても大事らしい。実際に問題を解くことも大事だが、それよりも重要なことは教科書内容の理解、だそうだ。

 教科書の解き方を見て、隣のページに載っている練習問題で確認する。ただそれだけの作業だ。苦痛でしかない。今すぐにでもやめたい。

「ちょっと休憩する?」

「する!」

 教科書とノートを閉じ、机を離れる。沙梨のせいで行けていなかったトイレに行き、そのまま教室には戻らずに校舎を歩く。

 窓が開いているところから葉っぱが入ってくる。夏らしい、鮮やかな緑色をしている。

「怜雄ー、何しとるん?」

 沙梨が後ろから声をかけてくる。

「なんもしとらん。沙梨こそ、こんなとこなんでおるん」

「怜雄が戻ってこんから飲み物買おうと思って」

「なるほどね。じゃあ俺も行くわ」

 自動販売機は学校に一台だけ設置してある。週に一回しか補充されないが、そもそも人が少ないので売り切れで困るなんてことはほとんどない。

「怜雄何買うん」

「うーん、今日はお茶の気分」

「そっか。じゃあ、私は水買お」

「いつも通りやん」

 一台しかないから交代で買うしかない。できれば二台にしてほしい。これは入学したときから思っていることだ。

 さっきまでサッカーをしていた先輩がやってくる。

「お、田村と井上やん。お前らいっつも二人で一緒におるよな。ほんまに付き合ってないん?」

「そういう感じじゃないんすよね」

「そうなんや。まあええわ。とりあえず、田村なんか買ってや」

「いや、さっきお茶買って、それで 全財産無くなったっす」

「何やその嘘。で、今日は何しに来とったん?」

「勉強です。三日後テストですよ」

「そういえばそういうのもあったな」

「なんすかその余裕」

「まあ、俺ら余裕やから。じゃ、勉強頑張れよ」

「頑張ります」

 先輩たちはみんなスポーツドリンクを買って校庭へと戻っていった。

「じゃあ、俺らも戻るか」

「やね。そろそろ勉強再開せんと」

「うわー、嫌やー」

「あかんで。ノルマ達成するまでは帰らせんから」

「わかったよ」

 午前中の時点で、ノルマの半分くらいまで終えていた。さっさと終わらせて家に帰ろう。

 

 沙梨のスパルタ勉強は午後五時まで続いた。いつの間にか先輩たちの姿は無く、学校にいるのは僕たち二人になっていた。

 一時間くらい前、二年の先生が僕たちに、鍵を渡しに来た。僕たちに鍵を閉めろということらだった。鍵は校門のところにある箱に入れといてくれたらいいから、とも言われた。

 僕はシャーペンを机に置いた。

「終わったー。これで数学九十点くらい取れるかな」

「無理やろ」

「そんな冷静に言わんでよ。自分でも本気で取れるなんか思ってないんやから」

「ははは」

 学校に沙梨の笑い声が響く。風で木が揺れる。そういえば、天気予報で台風が近づいていると言っていた気がする。

 地面に小さな斑点が浮かんでくる。空を見れば、濃い灰色の雲が、もくもくと広がっていた。

「沙梨、雨降ってきたから早め帰ろ」

「ほんまに?うわ、ほんまに降っとるやん」

 小走りで学校を出る。しっかりと鍵を閉め、言われた通りに箱に入れる。すでに、雨は本格的に降り始めていた。遠くにも大きな雲が見える。これはまだまだ降り続きそうだ。

「とりあえずバス停まで走れば、屋根あるから」

「そう、やね」

 二人で一緒に走る。歩けば一〇分、走れば四分といったところだろうか。もう少しで目当てのバス停が見える。雨脚はどんどん強くなる一方だ。

 パシャパシャと軽く水しぶきを上げながら走る。傘が無いため、頭はすでにびしょ濡れだ。バス停に着いた頃には、全身びしょびしょだった。早く乾かさないと、風邪をひいてしまう。

「やっと着いた」

「お疲れ」

 ハンカチでベンチを拭いてから座る。地面が濡れているため、鞄もベンチに置く。足にはいまだ雨粒が当たっているが、外にいるよりは確実にましだ。

 木の壁が、雨に濡れて濃い茶色になっている。二年に一回くらい、張り直しがされているが、雨に濡れてよく腐るからだろうか。

「あとどれくらいでバス来る?」

「うーん、ちょっと待っとって」

 沙梨が外に貼ってある時刻表を見に行く。

「ごめん。また濡れちゃったな」

「大丈夫。あと八分やったよ。もうちょっとやね」

 しかし八分経っても、十五分経っても、バスが来る様子は無い。

「全然来んね」

「ほんまやね」

 さらに一〇分待ったがバスは来ない。

「もしかしたら、バス来んのかな」

「かもな。それやったらめっちゃ辛いんやけど」

 雨脚が少し弱まった。

「どうする?走って帰る?」

「やね。今、ちょっと雨弱くなったし」

「よし、走ろう」

 鞄を肩にかけ、雨が降りしきる中、小屋から飛び出す。弱くなったと言っても、普段の雨に比べれば十分強い方だ。黒ずんだ水たまりがいたるところに見える。沙梨が時々、その水たまりに向かってジャンプする。そのたびに大きな水しぶきが起こり、二人とも濡れる。制服も、多くの水を含み、紺色だったはずのブレザーは黒色に見える。

 海が荒れている。普段のきれいな景色は無く、白波を立てながら岸にぶつかっている。もちろん船は一艘も出ていない。

 カーブが続く山道を走る。木々の葉が、雨に濡れて艶やかに光っていた。

 暑い。まだ六月だというのに、気温はほとんど夏と同じくらいまで上がっているらしい。これが地球温暖化というものなのか。

 もう少しでバス停が見えてくる。後ろからバスが追ってくる様子は無い。何とか間に合いそうだ。

 バス停が見えた。いつも通り、そこには一人の女子が立っている。やはりバスはまだ来ていない。僕は額に浮かんだ汗を拭くことも忘れ、走り続ける。もしバスに乗れなければ、次に来るのは一時間後だ。そんなの待てない。というか待っていたら確実に学校に遅れる。

 バス停に着く。息を整えるのに時間がかかる。早く、涼しいバスの中に入りたい。

「遅かったね」

 頭上から声が飛んでくる。もう一度だけ、大きく息を吸い、顔を上げる。

「ごめん、寝坊した」

 いつもなら七時前に起きるのに、今日は三十分も遅かった。マイペースな母は、息子が遅刻するかもしれないとわかっているのに、起こしてくれなかった。

「あーあ、二人とも遅刻やね」

「え、バスまだ来てないよな」

「さっき来たよ。三分くらい前かな」

「まじか。せっかく走ったのに」

 どっと疲れを感じる。肉体的にも、精神的にも辛いものがある。

 つい最近改修されたベンチに座る。三方が木の壁で覆われ、小さな小屋のようになっている。ここだと少し暑さも和らぐ。

 隣に沙梨が座る。肩あたりまで伸ばした髪が、風に吹かれかすかに揺れる。

「そういえば、なんでバス乗ってないん?」

「怜雄のこと待ってたから。一人で遅刻って可哀そうやん」

「それはありがとう。でも、ごめん。沙梨まで遅刻にしちゃって」

「気にせんとって。私が待ちたくて待ったんやから」

 五分くらいそのままでいた。一度座ってしまったら、再び立ち上がることが難しくなるのはなぜだろう。

「ねえ、一時間待つん?」

「待とうよ」

「歩くっていう選択肢は無いん?もし待つなら本当に遅刻確定やけど」

「こんな暑い中歩くのなんて嫌や。待つ」

 沙梨はそれ以上何も言ってこなかった。

 ちょうど一時間後、小さなバスがやってきた。乗客は僕たち二人しかいない。冷房の効いた車内がとても心地良い。

 一番後ろの席に陣取る。沙梨がいつものように隣に座ってくる。他にも空いている席はたくさんあるのに、なぜかいつも隣に来る。悪い気はしないので何も言わないが。

 十五分ほどバスに揺られ、それからさらに一〇分ほど歩くと学校だ。すでに時間は九時を過ぎている。いつも通りなら授業の真っ最中だ。

 三階にある自分たちの教室に入る。そこには担任を先生が一人で待っていた。

「遅い。もう三〇分以上待ってるわよ」

「すみません。バスに乗れなくて」

「別にいいけどね。はい、座って。授業始めるから」

「はーい」

 二人で並んで席に座る。教室内には、僕と沙梨、それと先生だけしかいない。高校一年、この学年は僕たち二人だけしかいない。一つ上の学年は十人もいるし、二つ上の学年も七人いる。この学年だけ、たった二人だ。

 一時間目は数学。一番嫌いな科目だ。遅刻のおかげで授業時間は短くなったが、それでも十分な苦痛だった。沙梨は僕と違って数学が大好きだ。問題の解答は、いつも沙梨に任せている。

 二時間目以降は普通の授業を受けた。国語、社会、英語と僕が好きな科目が並んでいたので楽だった。

 

 昼休み、先生は職員室に戻り、教室には僕と沙梨の二人だけだ。母が毎日弁当を作ってくれている。前日の晩御飯の残り物がメインだが、それでも十分おいしい。

 沙梨も弁当なのだが、毎朝自分で作っているらしい。なんどか食べたが、とてもおいしかった。毎日作っているなんて尊敬する。

「今日はどんな感じ?」

 沙梨が僕の弁当をのぞき込んでくる。

「昨日のハンバーグと、卵焼きと、まあいろいろ」

「相変わらずおいしそうやね。卵焼き一つちょうだい」

「いいよ」

 教室にエアコンは無く、窓をすべて開け、扇風機を回すのが精いっぱいの対策だ。それも、扇風機は一つしかないため、二人で同時に涼むことはできない。今も、扇風機は沙梨だけに風を送っているので僕は全く涼しくない。

「うん。いつも通りおいしい」

 窓から強い風が吹いてくる。平地から少し上がったところにある学校からは、きれいな景色が見える。きれいな空はもちろん、海がよく見える。今日もきれいな青色だ。太陽に照らされ、時々水面がキラキラと光る。小さい頃は、よく飛び込んだりして遊んだものだ。

 弁当を食べ終わった沙梨が、机に突っ伏して寝ている。昼休みは残り十五分。のんびりした時間が心地良い。

 

 放課後、太陽がかなり傾き、教室は蛍光灯の光も必要ないくらい明るくなっている。授業はすべて終わったが、帰る理由が見つからず、そのまま教室に残っている状態だ。

 沙梨が机に一枚の紙を前に、シャーペンを動かしている。

「今日はどんなん描いとん?」

「うーん、適当に女子高生を」

「可愛いな」

「こういうのが好きなん?」

「そういうことやないよ。確かに可愛いとは言ったけど、それはまた別の話やん」

 沙梨は絵を描くのが好きだ。小学生の頃から、毎日一枚描いているらしい。家に大量の紙が保管してあり、一度だけ見せてもらったが、昔から画力は凄かったんだと感じた。

 太陽がそろそろ見えにくくなってきた。完全に日が沈めば、街頭が多くないこの町はとても暗くなる。小さなころから、太陽が沈んでからは外に出るな、とよく親に言われたものだ。

「沙梨ー、そろそろ帰ろう」

「もうちょっと。あと、五分」

「わかった。じゃあ、校門で待ってる」

 僕は鞄を肩にかけ、教室を出る。校舎内に人の気配は無い。職員室が明るいだけで、他の教室はすでに暗くなっている。僕たちの教室の明かりが消えた。

 沙梨が校舎から出てくる。

「お待たせ」

「今からやと、バス無いか」

「やね。よし、歩こう」

 気温も多少は下がったので、歩いて帰ることにする。

 バス道に沿って二人で歩く。磯の香りがしてきた。教室から見ていた海だ。夕日の光を反射し、オレンジ色になっている。遠くから、釣りにでも行っていたのだろうか、小さな船が一艘、港に戻ってくるところだった。

 海が見えなくなり、今度は多くの田んぼが見えてきた。この時間なるとすでに作業している人は少ない。

「じゃ、ばいばい」

「ばいばい」

 沙梨と別れる。沙梨の家は、僕の家からもう少し歩いたところにある。百メートルくらい先だろうか。

 家の窓からいい匂いがしてくる。これは、カレーだ。僕は玄関を開け、家に入った。