こころの余裕というのは、やっぱりとても重要なものだと思う。

 

 最近、本当に自分の心の余裕がなくなってきていると思う。

 自分の言動から他者への配慮がどんどん減っていくのを感じるのだ。

 友人とlolで遊んでいるとき、友人のミスへの物言いがきつくなっているのを感じる。

 迷惑をかけている親への対応もどんどん薄く邪険になっていく。

 

 まぁそれはいいんだ。いや、良くないけど別に鬱日記を書くのが主題ではないんだ。

 

 現実の歴史を振り返っても、架空の物語を読み解いても、正気の沙汰とは思えぬことは幾らでもある。

 最近僕が久しぶりに目にした事件で言えば、宅間元死刑囚の池田小・児童8人惨殺事件。それほど大きくなくとも、虐待や殺人事件、リストカット、万引きetc。

 多くの異常が、日常から壁を一枚隔てた場所で起きている。比較的治安がいいというわれる日本であっても。

 それらの異常の多くは、必ずしも生来の悪人が行うものではない。一般的な人が行うものだ。

 逆説的に言えば、多くの人が状況が変われば悪行や非行に手を染める可能性があるのだ。

 

 それがなんというか、実感的に今理解が出来る。

 当たり前だがだからと言って犯罪を犯すつもりはないし、危険人物だと通報しないで欲しい。そこまで理性を手放してはいない。

 ただ分かるのだ。

 人は自分自身を肯定できないと、そんな自分を見せたくなくて人との関わりを絶っていく。

 人との関わりを絶つと所属欲求が満たされなくなっていく。(俺は大企業の会社員だからとか、可愛い嫁と娘がいるとか)

 すると余計に承認欲求が強まっていく。(俺だって生きてるんだ俺を見ろ!みたいなの)

 だがポジティブな手段での承認欲求を満たすことが出来ない。(なんかの大会で優勝するとか、ともかくお前すげぇって言われる事)

 故にその承認欲求を歪んだ、ネガティブな手段で満たそうとしてしまう。(俺を裏切ったあいつを後悔させてやるとか、あいつが悪くて俺は正しいって叩くとか)

 本来そういった非行等を思いとどまらせるのは良心というのもあるが、実行した際に自分が直面する罰を恐れるわが身可愛さも大きい。

 だがこの段階だとなにせ自分自身を許せないのは誰よりも自分自身なのだ。自分自身が罰を受け、責められるのは当然だ。責められるはずの自分自身が社会から非難されるのはむしろ救われた気分になるのだ。しかも社会が自分を非難する目であれ、少なくとも今多くの人が自分を見ている。そこで自分が今ここに生きているという事が実感できる。そして死刑によってこの死ぬまで続く自責の念が死刑によって強制終了してもらえる。この自責の念から解放されたいのに怖くて自分で手を下せなかったのが、他人によって手を下してもらえるのだ。あぁ、なんて甘美な終わりだろう。

 と、久しぶりに池田小・児童8人惨殺事件の記事を見て思った。

 

 いや、ほんと僕の場合は感情的に分かるとはいえ実行するわけないので異常者としてみるのはやめて欲しい(

 僕の場合、大味に言えば良心というものがまだまだちゃんとあるし、まだ将来やりたいこともあるからそこまで破滅したくないし、周りの人に迷惑をかけたくない。

 

 前置きが長くなったが、自論では何か悪い事をしようとする時、「良心=道徳観、予想される因果応報、他者への配慮」が自制してくれると考える。

 因みに別に犯罪心理学を学んだわけでも勉強したわけでも調べたわけでもないけどね。

 非常に無責任な自己分析の延長でしかないので悪しからず。

 

 ともかく、例えば極端に「誰かを殺したい」と思った時

・人殺しはよくないことだ、という道徳観

・人を殺したら警察に捕まる、という罰を受ける未来の予想

・自分の親類縁者にも影響があるし、そもそも殺したい奴にもそいつを好きな人がいるかもしれないという配慮

 

 そんな要素が自分を引き留めるだろう。

 その中で道徳観に関しては、それこそ所謂サイコパスでない限り自身の過ごしてきた環境によって形成されていくだろう。そしてその環境というのは無論ある程度の違いはあれど、同じ日本社会に居る時点で基本的には大きく変わらない。

 次の未来の予想。これに関しては現在の生活への満足度によって大きく変わるだろう。社会的な地位があったり、幸せな家庭があるとそれを失いたくないと大きな自制が働くだろうが、逆に現在すでにどん底だったりすると大きな制止力は持てない。場合によっては行き過ぎた自罰思考によって後押しにすら変わる。

 最後の周囲の配慮。これが今回のメインだ。

 

 周囲への配慮。これによる制止力の強度は大きく心の余裕に依存すると思う。

 どんな聖人君子も緊急事態に焦っているときに「ごめん、お茶こぼしたから雑巾取ってきて」とか言われたら口調が荒くなるだろう。

 昔話にいそうな意地悪おじさんだって、機嫌がいいときは意地悪をしてこないかもしれない。

 なにをそんな当たり前をと思うかもしれない。だが大事なのは心の余裕は同時に大きく外的要因に左右されうる要素だということだ。

 分かりやすい例で言えば、大企業の幹部社員だった尊敬する父が、会社をクビになり周りから白い眼で見られ収入がなくなり賠償で借金を負い心に余裕がなくなり、酒浸りの毎日しかも奥さんに暴力を振るうようになった。どっかで聞いたことのあるような話である。

 

 このように、環境から心の余裕がなくなり、他者への配慮もなくなっていくにつれ、自制心というのは弱まっていく。

 それは例え俺たちのような引きこもりも、サイコパスのように道徳観がいかれてなくても。

 周囲の人々への言動が邪険になり部屋が汚くなりリスカしたくなったり自暴自棄になって犯罪を犯したくなったり約束を守らなかったり朝まで起きてたり外に出なくなったり仕事にいかなくなったりetcetcetc....

 そういった「しちゃ駄目なのにしてしまう、したくなる」のは心の余裕がないからという理由もあるのだ。

 俺の場合、そして他の皆の場合でもだと思うが「しちゃ駄目なのにしてしまう、したくなる」のは「自分なんてどうなってもいいし、それに自分自身がクズ野郎だからだ」と思いがちだが、「余裕が無くて余計にそれが加速している」という場合も多々ある。

 自暴自棄にならないように目標を作って試してみたけどやっぱりダメだった=自分が生来のクズだから。そう思考停止する前に、自分に余裕がない事を自覚しよう。

 自分を下げて否定して暗い満足感を得る前に、余裕を、狭まった視野を一度広げるのも試してみよう。

 何を焦っているのか、年齢か、周りの声か、金銭問題か、何が理由かは知らないが、自分の視野が狭くなって思考の幅が小さくなっていることに意外と自分では気づいていなかったのではないか。

 モニターから目を離して外の街灯を眺めてみれば、意外と何かが進むかもしれない。

 まぁ本当に性根が腐ってる奴だったり、改善の余地なく余裕がなかったら知らんけど(