キスマーク事件!!
母親が 私たち子どもに きつい叱り方を することなど めったに なかった。
しかし この時だけは 私は 一発 叩かれたし
「相手の子は 一体全体 どこの だれよ!」と
声を 荒げて 何度も 問いつめられ た。
「もし わたしが 口を 割ったら
きっと あの子は ママにも 自分の親たちにも 叱られる…
と とっさに 気をまわした。
それで
真っ青に なりながら 「よ よ よその組の し し しらない子 だった…」と
どもりながら 涙を ボタボタ こぼし 洟をダラダラ 流しながら 答えた。
「情けない…。」
「バカにも ほどがあるわ…。」
と
母は また きつい 調子で ため息まじりに 言葉を 吐いた…。
「明日から プールに 行っちゃ だめ。」
「ひぃ~」
そこで わたしは また 声をあげて 泣きだした。
「プ プール
い 行きたい」
あの頃の 私には 夏休みの 学校のプールが どんなに 楽しみだったか…。
「そんな みっともない体で。
だめよ。
あんた 体中 キスマーク だらけで…」
[つづく]
桃園のヒッチコック(9)─終わらない終わり[後編]
大人になってからの 私は 展覧会の企画や運営を 仕事にした。
子どもを持ち 引退し今も
時々 作品の売り込みや 展覧会の 裏方を 頼まれている。
去年の 桜の頃 ひょんなことから
私は 千葉の 市川に 建つ 古い 洋館で
展覧会を 開くことに なった。
そこは 築90年になる イギリス式建造物の別荘であり
二つの暖炉や 広いサンルームがあり
戦前の 上流社会の人の 暮らしを 伝えていた。
『日々の美を集めて』と 名付けた展覧会は
その洋館に ふさわしい 8人の クリエイターを 選び
それぞれに 空間を 飾って もらうと いう 趣向にした。
様々な 経緯があり 選んだ8人の 一人に
桃園の時に 人気者だった 同級生を入れた。
その関係から 小学校の仲間が 会期中に 何人も やって来てくれた。
[木内ギャラリー─旧 木内重三郎邸]での 『日々の美を集めて』展は 1000人以上の 入場者にも 好評の内に 無事終了した。
その後は 平凡な 日々が また つづいている。
今から半月前
年の瀬に 一本の電話が入った。
市川の展覧会を 見てくれた 業界人からの 仕事の 依頼だ。
「あなたに 頼みたいイベントが あるんだけれど」
「場所は 新宿の河田町
今 カフェ&バーに なっているんだけれど…
若いおしゃれな人には
評判の スペースで
一夜限りの『日々の美を集めて』第二弾をやらない?。
そこは 市川の木内邸みたいに
古い建物でね…」
「戦前は
華族の屋敷だった…
戦後 無人になり 荒れ果てていたのを 改装したんだよ─」
「小笠原伯爵の
屋敷だったんだ」
ヒッチコックさんは
今度は
そこに
いた。
ドーベルマンと サイドカー付きのハーレーの 似合う 自分の生れ育った場所に。
桃園のヒッチコック(8)─終わらない終わり[中編]
センダさんのことは 私の桃園の 記憶の ごく一部でしか ない。
何年か後に わたしは 中学生になり 地下鉄で 遠くの街の女子校まで 通うように なっていた。
元々 桃園には 越境で 隣りの 学区域から 通った わたしは
桃園とは どんどん縁遠くなっていった。
高等部に入ってからの ある日
学校から帰る 地下鉄の中で 私は 声をあげた。
中吊り広告である。
週刊新潮である。
センダさんである。
『私は 天皇陛下の御学友だった──!
小学校警備員・元伯爵が激動の半生を語る』
大きな見出し文字の脇には 私の 見慣れた ヒッチコックに似た カギ鼻の 下膨れの 初老の男の 大きな写真が 沿えられていた。
小学生のころ 私は サイドカーに 乗せてもらったことを 急に 思い出した。
それよりも 中吊りの 写真のオジサンを 「ヒッチコック」と 呼んでいたことを 思い出し 確かに似ていると 改めてまた 納得した。
センダさんは 当時 何番目かの女の人と 中野の川島商店街に 一間きりの 住まい兼店舗を持ち 稲荷寿司や海苔巻を売り
夜は 守衛を していたと言う。
センダさんは 子どもの頃
昭和天皇の ご学友として 四.五人の同級生と 供に選ばれ
学習院の 中だけでなく 宮中にも あがり
陛下の ごく側で 学生時代を 過ごしたと言う。
戦前の学習院の総長候補として
父伯爵が 推挙されたが 陸軍の横やりで それは 叶わなかったそうだ。
私には さほど 活字に書かれた そうした『衝撃の過去』に 興味がなかった。
それよりも 桃園の千人の 子どもに かわって ひと気のない 夜中の桃園を 一人で 守る オジサンが 立派に 思えた 昔の自分が
微笑ましく思い出された。
その中吊り広告のあと また センダさんを 思い出したのは ほんの半月ほど前。
クリスマスの前日のことだ。
気がつくと 私も桃園の 仲間も あの頃の センダさんの年に 近づいていた。
私には
サイドカー付きのハーレーも
立派な猟犬も
まだない…。
[終わりへ つづく]
桃園のヒッチコック(7)─終わらない終わり[前編]
わたしが 子どもだったころ
大人の 世界と 子どもの 世界は 今よりも はっきり 分かれていた。
少なくとも わたしの 家では…そうだった。
父が センダさんに 会った日の 晩
わたしたちを 相手に
伯爵 子爵 男爵の 爵位の違いを 語り
「桃園小学校の 守衛さんは
あの戦争さえ なかったら
お殿さまだった お方だぞ。」
と 我が家の専制君主は言った。
「めったに 会えないはずの お方なんだ。」
「じゃ 今はなんで…なんで 毎日 桃園で 会えてるわけ???」
「ウチに お殿さまが 来てもいいの?」
父は 咳払いをしてから
「戦争が 終わって 日本は… 」
「昔は天皇や 皇族はえらかった…」
などと 語っていった。
父の 説明が 10歳未満の姉弟には 難しくなって
双方が 戸惑った頃あいを 見て
母は 父に 助け舟を 出した。
「もう 子どもは 寝る時間よ。」
「大人の話しに 子どもは 口をはさまないの」
「パパが 言ったんだよ」
「歯もまだ 磨いてないんでしょ?」
「そうだ。時間だな」
その晩 布団に入ってから わたしは センダさんの
お殿さまの姿を 想像した。
シンデレラのお城を前に
キラビヤかな着物を着たオジサンが
守衛さんスタイルで 腰には 教室ごとのカギを束ねた ジャラジャラ音のする鎖をつけ
片手で 護衛用の 長い棍棒をついて
もう片方の手で 二頭の 猟犬の手綱を引いているのだった…。
[やはりつづく]
桃園のヒッチコック(6)─あのお方の 正体[後編]
たいていの家の 父親は
多かれ 少なかれ 家長としての 威厳があったように思う。
または ことに わたしの 家では
父は 専制君主だった。
父の 言葉には 家族は 絶対服従が 原則だった。
父は[家長の威厳]を示すために テレビの チャンネル権まで 死守していた。
つまり「このテレビは パパが 買ったんだぞ。パパのテレビだ。」
母も「ヒッチコック劇場なんか もう 見るな。」
と言われたくなかった のだろうと─
わたしは 推理した。
少し前に
わたしは『少年探偵団』を
「くだらない。消しなさい」と
一喝されて以来
あの 主題歌を テレビに合わせて 歌える夜が 消えたのだ…。
母は ともかく センダ・ヒッチコックさんは
はたして 自分の テレビを見すぎていたのか…。
幼かった わたしには 判断は つかない。
母は その昼間に 仕入れた とびきりの 話題を
封印した。
夜の アメリカドラマ見たさに。
その日以来
センダさんは たまに やって来ては
猟犬をお供に 上がり框で お茶を 飲んだ。
「奥さん カステラは 文明堂?… ならばよろしいが…お買いになるなら 文明堂の○○店が なお よろしい…」とか
「天皇陛下は 私と…」とか
「当時の 学習院では…」
と 母を相手に
ウンチク話か ムカシ話を ひとしきり 語ると 帰って行った。
母は 初対面のときの ぎこちなさは ないにしろ
「まぁ」「えぇ」「あら」くらいしか 反す言葉もなく ひたすら 和製ヒッチコックの
話しに 正座を崩さないまま 相打ちをするばかりだった。
それは テレビと わたしたちの 関係に 似て 一方的であった。
ある日 久しぶりに センダさんが 来ると 家には 父がいた。
センダさんの はなしを 「テレビの見すぎ」と 断言してしまった 我が家の 専制君主は
実物の センダさんを 見て 跳び上がった。
その晩 父は わたしと 弟を 相手に 夕飯の席で 言った。
「今日 ウチにいらした方は お殿様だった人なんだぞ。」
「ヒッチコックさんでしょ?」
「あんな 映画を作るアメリカ人 なんかよりも ず~っと えらい人 だったんだよ」
「じゃ テレビに出てないんだ。じゃ 誰なの?」
「小笠原伯爵…」
[まだまだまだまだ つづく]


