ぐうたらIntersection~ももない康詩 & 妙致希林のブログ

ぐうたらIntersection~ももない康詩 & 妙致希林のブログ

ごいんきょ・ももない康詩 & 妙致希林(momonaiye)がつれづれに綴ったブログになります。
かなり解りずらいですが、まあ「考えるな、感じろ…!」で見てください。
見た目から「ハワイの人攫い」とも云われル修行者デス……なんで……?

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天気不明 高熱のため一日床に。ひどく疲れたことが原因。昨日夜より深く眠り続けた。だが眠るとも眠れない。体調不良を何とかしようと、横になったままでずっと修行してきた気功の小周転と、とき折思いついたら大周転を行い全身に「気」を巡らせた。
ときたまプラーナ管で気を取り入れたりも。鼻呼吸を心がけ、丹田に気を貯めた。小周転はほんわかする気を集め、ツボの長強・腰兪という尾てい骨から背中の正中線の督脈沿いに流し、後頂・百会そして上星・神底に流した。頭頂にとどめて意識して転がすというかたゆたわせると、だんだんスーッとして目がさわやかになる。気は頭頂でブレーキが効かなくても、鼻の頭の素髎あたりで止まった。両目に流れる気もあったが、意識して水溝方面、正面の正中線の任脈に落として、承ショウ・廉泉というところから、のどぼとけあたりを通して鎖骨と交わる天突から華蓋、胸元の玉堂やダン中、ヘソのあたりの下脘、ヘソの中央の神闕、そして丹田に戻し、また関元や会陰に落とし、また督脈の長強に繋げる。その流れを繰り返して気を練っていき、ときたまプラーナ管で呼吸を意識してチャクラに意識を向けていたりしていたら、突然、背中の肩甲骨沿い、神道から至陽にかけてのあたりからブワッと気が羽が生えるようにというか、仏像でいう後光を形作るというか、吹き出した。
それとともに身体全体から、重怠さも気怠さなども含め、疲れという疲れが取り除かれて、さわやかになりスッキリとし、なんともいえない心地よさで満たされた。時間の流れがあるのなら、あくまでもとどまることを知らない安堵と安寧の思い、幸い以上の感覚で満たされた境地。何の不安も恐怖も憂いもなかった。時間の流れもなくこの法越境の中にとどまっていた。甘露な三昧の境地。ああこれが禅定入定なのだと感得した。
生や死の認識、自身の認識さえ省みなければなくなっていた。同時に大小であらわすことも憚られるが(はっきり申してこんな言葉では言い表せない)、わかりやすく言い換えてもっと大きな自身であることを知っていた。
そしてこの境地の中に合一したときに、人は最終的にはこの境地の中に入らなくてはいけない。そうならなくてはいけない。そのためによく生きて、よく死ななければいけないのだと納得した。
夢も見ていなかった。安らぎと安寧と心地よさにひたすら浸っていた。そして、自分一人では達成しなかったであろうこの境地にあらゆるものが導いてくれたことに、心底感謝した。
目覚めたときにはスッキリしていたが、自身を見て、肉体を持つ人間がこれほど醜く意地汚いものかとも見えた。心魂が浄化されたためなのかと勝手に思い、現状の世情の中にあることに失望した。だが常にあの境地に心魂を置かなくてはいけないことは覚えた。一つの到達点だ。
なるほど、無常有情関わりない。ただ一心に、心を清めて正直になり、心を軽くして生き、そのためにも気にかかることは進んで片付け、身勝手な判断ながらも、自身を含めたあらゆるものに心を配りつつ、とにもかくにも悪いことはせず良いことを実践していこうと思えた。
日常の中でも修行は出来る。そう、日常の生活生業が修行なのだ。修行の目標、頂上が見えた。無意識の感謝が出来るようになった。ありがたや、ありがとう。
でもこれからも山稜のプロムナードは続く。飛んでいけるようになるかもしれないが……


なお、その逆のパターンも感じ取った。
「気」がないゆえに「虚」の中に陥ってしまい、さみしさとさもしさと、よからぬ、けしからぬとが、心や魂にじわじわ、うじうじ、いがいがと分け入り染みこみ、引き裂かれ、粉々に打ち砕かれながらも、残っていなくてはならないような不安と苦しみのただ中にほおりこまれ、湧き出るように起こり続ける原因不明の訳のわからないすべてへのいらだち、よこしまでおどろおどろしくもかき回される、訳のわからない恐怖と不安感に苦しみさいなやまされ続けるというものだ。
さむい、冷たい、震えるばかり。温度ではない。心のさみしさというべきか、当てはめられる適当な言葉が見当たらない……
無力感を取り越し絶望も通り越し、ただなんとかしてほしいと、助けを探り求めもがき続ける。
皮膚の下から生じるえげつない、まどろっこしい、ムカデが数千匹も這いずり回っているような違和感。有機物をいきなり無機物にすげ替えたために強烈になじませようとすることへの抵抗から来る拒絶感。(これは子供の頃にはこの肉体にあることがなんとも耐えがたく狂ったように抜け出したかった感覚に同じだった)本当の心の病の究極の感覚。ただ震えおびえ続けるしかない。
心や魂を崩壊させることなく閉じ込める。「虚ろ」以上に気持ちが悪いのを通り越して不快が過ぎる境地だった。いや、「気」持ちが悪いからこのような症状が起こるのか。
先のポジティブを超えた境地とは違った絶対的なネガティブ。しかも自身の行い、行うことのほかに救いはないのだ。
けれども何もないから何も出来ない。
こんなところに心や魂が閉じ込められたままならまさに「地獄」というほかにない。
この境遇に心魂を置いてはならない。
まさにそう確信した。
人間が生きて目指すべきは恐悦至極の、それこそ時間があるなら永遠の、時間という概念がなくなっても、もはやゆらぎのない、心魂の安寧三昧であり、その境地の中に浸り続けること、浸ることである。
これが無漏の極意なのかもしれない。

「よろづを有漏と知りぬれば、阿鼻の炎も心から、極楽浄土の池水も、心澄みては隔てなし」


 

 

 

 

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