私が大好きなバンドがある。
THE1975である。
Chocolateという楽曲で一躍知名度を上げた印象がある。
https://open.spotify.com/track/0zHLJSfvw2QEKkWiSqMOdK?si=-QtNHwexSyuheKy3ouaHHA

日本の場合は、2ndアルバム収録Soundで知名度が上がっていった印象。

https://open.spotify.com/track/1oEaUN7PYQRwcUF52U2M9S?si=3lix-P8FSUya4wb41BV1pw

そんなTHE1975には死について問うた楽曲がある。

https://open.spotify.com/track/7iPlcFvOMOzt6v0QvcAueZ?si=6AKFhQpiSGyWaIMPQlorLQ

タイトルを和訳すると、『僕は毎日死にたい。時々』。

この楽曲の中にはこんな詞がある。

But your death it won't happen to you It happens to your family and your friends.

君の死は君に影響があることじゃない。君の死は君の周りにいた、家族や友人に影響があることだ

詳しい楽曲の解説や感想を読むと、この歌詞は『だから死ぬことは恐ろしいことじゃないよ』と言いたいそう。


この楽曲と出会って目が覚めた気がした。

死についての考え方が変わった。

けれどこの歌詞は正論だと思う。


個人的な話をすると、私はコロナで父親を亡くした。今年の8月12日に。

父親は糖尿病と足の持病(骨が曲がってしまった)と借金の影響で、人生の最後辺りはとても苦しかった人だった。

糖尿病の影響と足の持病で何度も何度も車の事故を起こし国家公務員だけれど休職が多くなり、お金に困っていた。国家公務員には給料から天引きにはなるけれど共済という形でお金を借りれるシステムがあるそうだ。それでもお金が借りれなくなり、サラ金に手を出した。アイフルだったかな。

そして家から出て行った母親と妹たちに取り残された私と2人で何年間か暮らした。私が成年後見人というか被保護者?という形で、父親が入院するたびに何かしらしていた。最終的に嫌になって放り出したけど。

父親は最終的に足を切断した。片足だけ。

それからは施設で暮らしていた。


山が大好き、漫画が大好き、車が大好き、ゴルフが大好き、博打が大好き、スポーツが大好き、歴史が大好き、アイドルが大好き、映画が大好き、テレビが大好き…とにかく何でも大好きな人だった。私は何回か教養があると言われたことがあるけれどそれは全て父親の影響である。博識で教養に富んだ凄い人だった。

最終的に職場でのパワハラで心が折れてしまい幼児退行してしまい、我慢が出来なくなってしまい更に感情任せになってしまったが、そうなるまでは父親を、威厳がある人でこの人は間違っていないと私は思って誇りにしていた。


この父親が糖尿病を抱えてもコロナになっても長生きし、今でもスマホ代が高いとかお金はあるかとか電話してきて生きていてくれたら私はこんなに辛い気持ちにならなかった。


父親は施設暮らしのお陰か糖尿病が快癒してきていたみたいだった。月に多くて4回くらい、少なくて1回くらいご飯を食べに行っていた。

8月は私と妹の誕生月でお寿司を食べにいこうと言っていた。8月15日に会うはずだった。今年の有馬記念も一緒に行くはずだった。毎年毎年必ずお誕生日おめでとうと言ってくれて、○○は仕事を頑張っていて偉いって思っているよ、お前は偉いよ、頑張っているって思うよって褒めてくれた。

なのに、突然施設で意識を失くし地元では有名なヤブ医者の集まり(病院の名前を言うだけで地元に住む店長からダメじゃん!って食い気味に言われた)の病院に搬送され、糖尿病とは関係ないコロナで搬送された次の日に亡くなった。


私はお父さんの最期の姿も見れなかった。

話も出来なかった。

私の唯一の家族は、お父さんの唯一の家族はお互いだけだった。

私は実は仕事をふたつ掛け持ちしていて、片方はスーパー銭湯なのだがそこの店長はとても良い人である。この店長は事情を知るなり気を遣いながら、ひと月は心のバランスが保てないよと色々気をつけることを教えてくれた。

もうひとつは駅ビルの仕事でこちらの店長も良い人で、直ぐに連絡をくれた。そして死にたい死にたいとずっと繰り返して取り付くしまも無い私に寄り添ってくれた。


お父さんはもうこの世にいなくて、裁縫が出来ない私の代わりに裁縫もしてくれないし、くだらない競馬の話や時事ネタに付き合ってくれないし、私を褒めてもくれない。

お父さんはもうこの世にいなくて、何度も何度も泣きじゃくっても、今も書きながら泣いているし今朝だって夢に出てきたけど、もう私のたった一人のお父さんには会えない。

死んだら人は無だと思う。何にも無くなる。見えなくて話が出来ないならそれに価値は無いと思う。漠然とそう思う。


しかもお父さんが亡くなってから時間を置かずに、愛犬で2匹いるうちの1匹が亡くなった。更に精神的に堪えたし仕事の事も併さって、こんなに私だけしんどい思いしなきゃいけないのはなんで?と、大嫌いな後輩カップルが幸せそうにしているのを見て憎んだ。


死は当人ではなく、周りにこそ意味があるとはまさにそうだと思うしそうなんだ。

当人は死んでしまったら消えて何も無くて何も感じない。けれど遺された側は深い深い泥の中に遺されて出ていけない。

私がひと月超えてもバランス崩しまくっているように。私がずっとお父さんの死をトラウマにして、苦しんで乗り越えられないでいるように。


大嫌いな後輩が前に言った。

死は贅沢だと。

通夜の寿司みたいな物だと。

そう言う考え方もあるかもしれないけれど、死に勝ち負けも贅沢じゃないも贅沢だも無い。

死は終わるだけ。

私からしてみたら死亡届出されて行政上消えるだけ、それが死だと思う。


死は当人ではなく周りに影響があるということに立ち戻って考えてみたら、借金が残るだとか遺産が残るだとか、遺品が残るだとか、やりかけの何かが残るだとかもそういう意味になるのだろう。

私が自殺したら私が完済出来なかった30万の借金が残る。

母親は借金完済してから死ねと言っていた。

私は一応30歳には自殺しようかと思っているので、それまでには完済したい。


それは結局、死んでも人は一人で生きれないと言う事になるのかもしれない。

死亡届の提出だとか行旅死亡人だとか、何かしらで影響が出るものが死。

誰かを亡くし悲しみから抜け出せないでいる人がいるなら、その人の元にその死が届いた瞬間にその人の死には意味が生まれる。


正直に言えばTHE1975のフロントマン、マシュー・ヒーリーがこんな歌詞を書けるとは思わなかった。

例えが悪いけれど漫☆画太郎の作品みたいに切り貼りしてストーリーなんか存在しないみたいなのがマシューの詞で、言っていることはクスリ!SEX!クスリ!しか無いのがマシューの詞で、深い意味は見出していなかった。Parisとタイトルで言いながらクスリ!クスリ!SEX!クスリ!って歌詞だったり。(パリは享楽都市!と皮肉っているならまた違ってくるけど)

そんなマシューが死というのはね…とこちらに問うてきたから私はマシューがまともな詞を上梓しただと!?と驚愕した、し、それにメロディーが洗練されているなと。シンプルで分かりやすいというか。

このあとに出たアルバムの収録曲を鑑みても、マシューの音楽的センスはそもそも既にそれなりに出来上がっていたけれど、このI Always Wanna Die(SomeTimes)が作詞家としては契機だったのではなかろうか。ひとつのキーポイントのように感じる。