商業発展の背景

◦1879年(明治12)年に、第一尚氏王統の時代から数え、およそ450年間存在した琉球王国が消滅し沖縄県となる(琉球処分)

*この際、王国が苦しんだ鹿児島に対する債務は帳消しになった

◦明治政府は琉球士族の反乱を恐れ、当面の間、王国時代の制度などを維持し、急激な変革を回避

*旧慣措置(旧慣温存、旧慣存続)

◦温存された旧慣とは、琉球国時代のしくみのこと。土地制度(特に地割性)、租税制度(特に砂糖への統制、先島では人頭税)、上級士族の給与システム(家禄)、村(当時は間切)の統治機構、村落共同体内部の不文の慣行(内法)などさまざま。沖縄が日本の近代的な制度を受容するのは日清戦争が終結してからになる。

参照:「沖縄経済と業界発展」より

 

 

寄留商人と商業の発展

理由1:販売市場にビジネス機会があった

当時の沖縄の商取引は、露天市場で、売り手と買い手が交渉しながら価格を決める「相対売り(あいたいうり)」が一般的であった。そのような時代に、寄留商人たちは民家を間借りし、商品に値札をつけ、見栄え良く陳列し販売。商業の発展途上段階にあった沖縄に、あらたな商法を持ち込んだ。

(寄留商人の中には大きな成功を収め、被選挙権を得て、政界へ進出するものもあった)

 → 沖縄では商業が発達していなかった。

在来の那覇市場:衛生問題有

寄留商人の活動市場:衛生を意識

 

相対売り小ネタ:牧志公設市場などでは、今でも相対売りが継承されていて、一人一人の客を大切にするとても温かい雰囲気で商売が行われている。

 

理由2:砂糖取引という供給市場としての魅力があった

砂糖は琉球時代の制限令が撤廃され、農家の換金作物となっていた。それを寄留商人は仲買人として砂糖を買い占め、富を築いた。(寄留商人は貿易や開墾、鉱山開発にも進出したが、多くが手掛けたのは砂糖取引だった)

薩摩藩の特権的御用商人であった鹿児島証人を中心に、農家から黒糖を買い入れ、それを大阪の市場で販売。砂糖取引の仕組みは秘密にされ、供給者である沖縄の農家の中には、砂糖の相場や品質の鑑定方法を知るものはなかった。寄留商人たちは砂糖を安値で買い取ることで、莫大な利益を手にすることができた。ただ、農家に不利な取引を黙ってみていたわけでななく、出張先の大阪で砂糖取引の様子をみた県庁使員の仲吉朝助が、農家の所得を増やすために、砂糖委託問屋の丸七商店を立ち上げた。同商店は農家から黒糖を委託糖として預かり、大阪から招いた鑑定士の評価のもとに、寄留商人と取引し、不利を解消。丸七商店の成功に刺激を受け、県内各地に砂糖委託問屋が誕生した。

 

 

寄留商人と琉球士族層1

◦琉球=沖縄社会の「世替わり」の先導役をになったのは、日本本上(ヤマト)からきた内地人(ヤマトゥンチュ)、すなわち他府県出身の寄留人であった。寄留人のなかには県官吏・警察官・軍人・教師として赴任した者も含まれる。その多くは経済活動に従事するために渡来した商人たち。その増加がめだつようになったのは一八八〇年代以後のことである。

 

◦一八八〇年代後半(明治二十年代)には寄留商人は約二〇〇〇人に達し、県内で「内地人の威張る有様は、丁度欧米人の日本に来て威張ると同じ釣合にて、利のある仕事は総て内地人の手に入り、引合はざる役廻りは常に土人に帰し、内地人は殿様にて土人は下僕たり」(琉球見聞雑記)という状況が現出した。

 

◦寄留商人は県当局の支援をうけながら、那覇に拠点をおいて商業・貿易・製造業をはじめ、金融・海運・開墾・鉱山開発などの分野に進出し、一八九〇年代前半までには県経済界の中枢部を掌握した。寄留商人のなかでも、中馬辰次郎・大坪岩次郎らの鹿児島系グループと、平尾喜八・児玉常七らの関西系グループが二大勢力を形成した。北九州系の古賀辰四郎も海産物商として財をなし、尖閣諸島の開発などに尽力した。寄留商人団をはじめとする内地人(ヤマトゥンチュ)は、政治的にも新生沖縄県の日本国への完全併合をめざす併合派を形成し、琉球士族層の二グループ(開明派=自治派、守旧派=独立派)と対抗した。

 

寄留商人と琉球士族層2

◦「世替わり」が外来者=寄留人によって主導され、政界・官界・教育界から経済界に至るまで、内地人(ヤマトゥンチュ)に独占される形勢のなかで、尚家一族をはじめとする琉球士族層も、廃琉置県で失われた政治的・経済的影響力の復活をめざして活動した。尚家一族は二〇万円の公債証書や認定された膨大な私有財産を元手に、明治十六(一八八三)年貿易会社の丸一商店を設立、同十九(一八八六)年沖縄広運会社を創設したほか、一八九〇年代までには金融・開墾・鉱山開発・新開発行などの方面へも進出し、多角的な経営を展開して尚家財閥を形成するに至り、寄留商人と対抗しうる勢力に成長した。

 

◦旧慣温存方針によって優遇された尚家とその周辺のエリート層は、明治政府=県当局に協力的な姿勢を示しはじめた。しかし、琉球士族層の九割を占める約七〇〇〇戸(三万余人)の無禄士族層は、廃琉置県によって路頭に放りだされ、失業状態のままに放置された。「世替わり」の最大の犠牲者 であった無禄士族層の一部は救国運動に希望を託し、密貿易をかねながら独立派の協力者として琉球と清国のあいだを往来した。首里・那覇の失業士族のなかには、なれない商売をはじめたり、入力車挽きや職業的な芝居役者として生計を立てる者もあらわれた。都市生活を諦めて農村へ移住する者も多く、移住士族は各地に屋取集落(やーどぅい)を形成し、農民の土地を賃借したり、原野を開墾して農業経営に従事するようになった。