1.うちなーぐち
2.六諭衍義
3.研究課題:沖縄の家庭祭祀②
 
1.うちなーぐち
 
 
 
 
2.六諭衍義
仲村さん、無意識と有意識があり、無意識は3世代続くと言われている。
 
 
 
 
3.研究課題:沖縄の家庭祭祀②
宮里さん
瀬底は男性と女性の役割が明確になっている祭りもある。
 
 
 
高良さん
沖縄の葬儀について
以前、地域によっては洗骨の風習があり、墓内のシルヒラシというところで死体を 3 年ほど寝かせて腐らせ、肉がとれた骨を拾って洗い、骨壷に収めなおした。
実際に遺体に触れ、それを清めるために水やお酒をかけるのは主婦の役割とされ、そのことが女性差別だと反対運動の声があがるほど、それはなまなましい死の凝視、死との接触で
あった。
しかし、明治以降、日本の国家体制に組み込まれた沖縄では、日本の他地域と同様に火葬
が徐々に広まり、洗骨や風葬、土葬の風習は廃れていった。また、火葬の普及のみならず、葬儀社や仏教教団の葬儀への介入も、沖縄の死の様相を大きく変化させたとみることができる。


1.伝統的な葬儀と供養
本部町では、従来、人が死ぬと湯灌をし、ユートゥジといわれる通夜をおこなった。そして、
葬式にあたる野辺送りで穢れを払った。葬式の翌日はナーチャミーとよばれる墓参りをし、その後は初七日(一週忌)にあたるハチナンカ(アラナンカ)、タナンカ(二週忌)、ミナンカ(三週忌)、ユナンカ(四週忌)、イチュナンカ(五週忌)、ムナンカ(六週忌)、シンジュウクンチ(四十九日・七週忌)をおこなった。このシンジュウクンチ前後に人々はユタを訪れた。ユタは死者の口寄せをして、死者の遺族への思いを語った。また、その日の夜はマブイワカシ(魂分かち)と称される、あの世へ旅立つ霊とこの世の人との決別式が、ユタやウガンサー(拝みをする人)など、民間巫者により施行された。

シンジュウクンチの後はミーサ(新仏)といわれる死後初の旧 1 月 16 日の墓参りがおこなわれ、さらにユヌイ(一年忌)、以前は洗骨をしたミツユヌイ(三年忌)、ナナトゥ(七年忌)、墓参りを伴うジュウサンニンチ(十三年忌)と続いた。
ユヌイからナナトゥまではワカジューコー(若焼香)とよばれる。そして、ウフジューコー(大焼香)といわれるニジュウゴニンチ(二十五年忌)やサンジュウサンニンチ(三十三年忌)がおこなわれ、それらを終えて死者ははじめてあの世(ニライカナイといわれる海の向こう、あるいは墓とつながる他界、アマランパシといわれる橋を渡った世界など、そのイメージは多様)に行き、祖霊になるとされた。
 
沖縄では死者儀礼が節目ごとに頻繁に執りおこなわれてきたことから、死者を子孫にとりめでたいものへと変質させ、祖霊化する丁寧な仕組みがあったと捉えられる。

日本における火葬の始まりには、仏教が関係するといわれる。仏教はインドの文化土壌か
ら生まれたもので、日本では最初は僧侶しか火葬せず、庶民は土葬が普通だった。それが庶民に普及したのは、寺院を戸籍制度に利用し、仏教の普及が起こった江戸時代、さらに近代化が始まり衛生概念の普及が重視された明治以降のことである。

明治以前の琉球王国では、薩摩の侵入後、宗教統制がなされてきた。仏教もその対象となり、僧侶による説教や托鉢が禁止された。特に民衆運動につながる浄土系の仏教は厳禁であった。薩摩は仏教ではなく儒教を浸透させようとした。
そのため、教養として禅宗などを学ぶことを許された士族を除き、庶民にとって仏教は無縁なものであった。仏教寺院は主に那覇や首里など、士族のいた中南部で建立され、最近まで名護より以北に仏教寺院はなかった。

沖縄における火葬場設置の時期に関しては、読谷村の 1959(昭和 34)年が比較的早く、続いて昭和 40 年代に国頭村や石垣市、伊江村、大宜味村などで設置された。本部の火葬場は 1979(昭和 54)年に設置許可を受けている。この昭和 50年代は本土復帰時代にあたり、沖縄において最も多くの火葬場が設置された時期である。

さらに、従来は遺族をはじめ、村落共同体で担っていた死者供養も、次第に専門業者である葬儀社が関わるようになり、その様相が変化していった。
本部町で唯一の葬儀社である K 商店は、骨壺売りからスタートし、現在は霊柩車を借りて搬送もしている。

本部町は 20 何カ字あり、土地ごとに葬儀のやり方が異なるので、おおまかなことは葬儀社でやり、あとは各字のお年寄りの言うことを聞く。海に行って葬儀後足を洗う風習があるところもある。本部は自宅葬が多い。

本部町には、海洋博のころから僧侶がいた。しかし、僧侶をよばなくてもユタが祭祀をしていた。
田舎では、ウグヮンウサギヤー(御願をおこなう人)が今でも仕切っている。彼女たちは、一年忌以降の法事や墓のことなどを扱う。

本島北部における 1970年代以降の急激な近代化・本土化の流れ、すなわ
ちグローバル化は、ユタと僧侶の相克を生むこととなった。そして、一般の人々はユタよりも僧侶に葬儀を依頼することが多くなった。それは、以下の事例からもうかがえる。
事例 1「最近はお坊さんを頼む。葬祭場も坊さんがやるし。昔は埋葬だからユタがやった。自分が高校の頃までガン(棺を運ぶもの)に入れてシンクチ(洗骨)をやっていて、埋葬だった。亡くなったら、海洋博公園の洞穴のところで通夜をした。
トゥールカガマといって、トンネルみたいに穴が開いている入り口と出口のある洞穴で、ゴーリバマーというすごいところだった。火葬は海洋博以降。

本部町では 1960 年代には首里・那覇出身者が葬儀社を起こし、沖縄国際海洋博覧会(1975 年)後まもなく火葬場設置と時期を一にして、遺体の搬送を始めたり、僧侶を葬儀によぶなど、葬儀の本土化が浸透していく過程が明らかとなった。
そのため葬儀に関する伝統的な風習のいくつかは消滅・変化していった。
参考:沖縄における死の現在 ―火葬の普及・葬儀社の利用・僧侶への依頼― 塩月 亮子
 
 
 
仲村さん
ヒラウコーの使い方
 

三本御香

天、地、海(竜宮)へ捧げるもの。お盆やシーミー、彼岸などで、よその仏壇にお供えする際は、三本線香

 

十二本御香

十二支、十二か月、十二方位と考えられてて、「普段使い」の本数。

 

十五本御香

十二本と三本を足して、十五本。

ついたち・じゅうごにち、健康御願、安全御願など、願いをたてる時の本数。

 

十七本御香

十二本と三本と二本で十七本。

「外し御香」、「下げ御香」といわれ、「ウグヮンブトゥチ」「シディガフー」など、立てた御願に対しての感謝を込めて、御願を下げる時に使う。

 

基本的に、線香の貸し借りはしてはいけないと言われている。シーミーやお盆などで実家や親せき廻りをする時は、線香を持参したほうがよい。ウチカビも同様。

 

 

ビンシー

1.カラミハナ(乾いた米)

洗っていないお米

 

2.アライミハナ(洗われたお米)

水で七回すすいだ米。

 

3.塩

「黄金(クガニ)マース、「白金(ナンジャ)マース」。海からの

贈り物は尊いものと考えられ、穢れをはらい清める力を与えてくださいという意味も。

 

4.酒

徳利2本準備して、左右両方から真ん中に置いた盃に注ぎます。夫・妻からという意味を込めています。

お酒は泡盛。拝みの際ちゅうは、徳利のふたはあけっぱなしにします。

 

 
ウサンミ(御三味)

天・地・海の恵みでつくったウサンミと呼ばれるクヮッチー(ごちそう)を重箱に詰めます。仏事には四段を用意。

ウサンミの例

1.揚げ豆腐 2.かまぼこ 3.カステラかまぼこ 4.豚肉(祝い事は皮は下、仏事は皮は上) 5.魚のてんぷら

6.田芋 7.ごぼう 8.昆布(祝い事は結び昆布、仏事は返し昆布) 9.こんにゃく(昆布同様)

*2つ用意しているのは、集まった人と先祖に向けてという意味がある。

 

補足:返し昆布の作り方

 

 

 
次回の予告です。
第73回沖縄ももじゃら大学
■日時:3月18日(土)
■時間:10時~
■場所:銀座or高円寺

1.うちなーぐち
2.六諭衍義
3.研究課題:沖縄の家庭祭祀のまとめ③