辻という華街


辻の歴史・背景

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1526年尚真王時代に始まった遊郭。女性の力のみで築かれた世界。約300軒近くある妓楼(遊女屋)で支配者の男性は存在ぜず、女性だけの自治行政が敷かれてきた。
琉球王府を支え続けた辻や仲島遊郭は1879年の琉球王国滅亡(廃藩置県)以降も存続し1944年のアメリカ軍による10.10空襲で那覇が焼けつくされるまで、約400年間、存続した。

そしてそこに生きた大勢のジュリは明治以降も沖縄芸能の重要な担い手であり継承者たちであった。さらに辻遊郭崩壊後の沖縄の芸能史において元ジュリの女性たちが継承してきた芸能は戦後から現在に至るまで、しっかり沖縄の土壌に根を張り、新しい創作を生み出し、その輝きは絶えることはない。

各楼は、2~3人の芸妓を抱えた営業主の抱親(アンマー)により営まれる。
(男性を入れない女性社会だったそうです。)
抱親からお年寄り、中元老、大元老が辻全体を運営し、抱親は「詰尾類(チミジュリ)」と呼ばれ、一人の旦那を守る女性だった。
尾類になる際は、大方家庭の困窮で売買されてきた例が多く、女は辻の尾類(じゅり)、男はウミンチュとなる。



辻と文化の発展

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辻では、先輩尾類から着物の裁ち方、縫い方や料理、芸事、などを教え合い、代々受け継がれてきた。

また尾類(ジュリ)はいわゆる娼妓・芸妓である。
「古来、琉球の遊女は、琉歌と三味線4と琉球舞踊を習得するのが常であった」
と、民俗学者 金城朝永は著書『異態習俗考』(六文館、1933年)に書いている。金城が著書の中で「琉球の遊女」について書き留めた1933年にまだ辻遊郭は健在で、歌、三線、琉球舞踊は琉球の男たちと辻の尾類にのみ限った芸能だった。

琉球に始めて三線が伝わったのが1392年の察渡王の時代で、琉球王府の土台が確立した1500年代の尚真王の治世に歌の伴奏として発展したと矢野輝雄は著書『沖縄芸能史話』(榕樹社、1993年)で紹介している。特に士族の中でも古謡オモロ楽人に弾きこなされやがて士族へそして辻や仲島遊郭のジュリたちにも親しまれたことが、琉球の史書『球陽』からも読み取れる。
つまり金城が古来と称した時代は辻村(遊郭)設立の1672年を想定することが可能だ。爾来、16世紀から盛んになった琉歌と三線、舞踊が歓待芸能として辻や仲島でもジュリたちのたしなみとなり、素養の一つになったと言える。


また辻には明治の頃からはじめった沖縄そばの発祥の地とも言えるだろう。
「ウシンマーそば」はかつて辻の遊女だったウシンマーが前之毛で始めたもので、氾濫していた小汚い支那そば屋と違って、適度の油を加味したものに、小さく刻んだカマボコを混ぜ、ちょっぴり黒い胡椒のようなヒーバーチを浮かした辛味が大評判で、大量乱売せず、夜八時には閉店する営業ぶりが客の心理をあおったそうだ。


辻文化が多様な面で琉球・沖縄の市井文化の宝庫であること、また遊女の定義に関して必ずしも遊女=ジュリではなく、ジュリが江戸時代や近代以降の吉原の遊女などと異なっていた。




辻という華街

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「詰尾類(チミジュリ)」は、琉球式の囲い女で、一人の殿方だけをまもることになる。人によっては、抱えられた殿方の経済事情から、糸紡ぎや布織りの内職をして収入の足しにすることもあった。
抱親は、抱妓を多くの殿方に売るということはせず、手内職で稼ぐことを覚えさせ、自力で借金を払うように仕向けて馴染み客1~2人を持たせるように努めていた。




辻の掟

$沖縄ももじゃら大学のブログ-辻の掟

辻では「義理、人情、報恩」の三原則が厳しく仕込まれる。たとえ抱妓を持って独立しても、元の抱親との親子のつながりは続き、三原則に反すると、勘当を受け辻では暮らせなくなったとも言われている。

ある逸話では、売られてきた娘がこの辻社会において三原則を遵守し、数年間生活していた時に、両親がお金で娘を取り戻そうとしてきたそうだ。
しかし、辻の娘は両親の誘いを断り、この三原則を遵守し、辻に残ると固持したと言われている。




追記
現在のような辻のイメージ・在り方は、江戸の風俗の在り方を持ってきた本土の業者によって変えられていったと言われている。

私がイメージしていた辻文化は今回の学びで大きく変化した。
辻がもたらした文化は400年の多岐に渡り、琉球・沖縄に大きく貢献してきただろうと言える。