こんにちは。
迎へ梅雨の季節となりました。
皆さん、如何お過ごしでいらっしゃいますか。今回は選択の誤りについて考えて見ます。
私達は、日々の生活に於いて各自の置かれている立場は異なっていても、又、意識するしないに拘らず、言語、食事、服装等に於いて様々な選択を迫られています。日常生活に於いて私達が下している決断の数は想像以上に多い事でしょう。又このような日常生活に於ける選択とは別に、趣味志向の選択、人生を左右する進路や職業の選択、人間関係や思想信条の選択等多岐にわたります。それらの中には間違った選択により、取返しのつかない事態になる事もありますからよくよく注意しなければなりません。
皆さんは、これらの選択の中で何が一番重要だと思われますか。
私は誰をそして何を信じるかと言う思想信条の選択こそが最も重要だと考えます。何故なら、たとえ進路や職業選択が完全で順風満帆な人生を歩んでいたとしても、信じる対象を間違えていたり、自分の考えだけを信じて生きていたのなら、いつか必ず何処かで躓く事になるからです。結果最後には、「こんな筈ではなかった。」とか「一体何処で間違えてしまったのか。」等と酷く後悔する事になり、このような生き方は本末転倒と言えます。「終わり良ければ全て良し」と言う諺もあるように人生は最後が重要です。
この何を誰を信じるのかと言う選択は一見すると非常に難しい問題であると思われるかも知れませんが、実は単純明快な事でもあります。一度も誤りを犯なかった方の生き方を模範とすればよいからです。
皆さんは一体誰が生涯一度も間違いを犯さず私達の模範となられたと思われますか。
新約聖書 ペトロの手紙一 二章二十一節
「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」
上記の聖句から分かるように、私達に生き方の模範を示されたのは主イエス・キリストです。
皆さんの中には主イエス・キリストが神だからそのような事が出来たのだと思われる方が、もしかしたらいらっしゃるかも知れませんが、それは大きな間違いです。どう言う事かと言いますと、主イエス・キリストは神でありながらも受肉をして、人性を取りこの世に来られ生き方の模範を示されたと言う事です。
新約聖書 ヨハネによる福音書 一章十四節(ミカエル氏訳)
「言は人となって、我等の間に住みはった。」
ここで言う、言とは主イエス・キリストの事です。
主イエスは人性を取られた事で様々な誘惑や試練にあい苦しまれましたが、一度も罪を犯す事なく、死に至る迄神の律法、掟、戒めに従順であられました。重要な事は十字架の勝利や従順さは人間の性質に於いて成されたと言う事です。私はこれらの事をミカエル氏の「主イエスの受肉」で学び主イエスこそが本物の神である事を確信するに至りました。
新約聖書 ペトロの手紙一 二章二十三〜二十四節
「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担って下さいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。」
主イエス・キリストは罪の贖いのためだけにこの世に来られたのではなく、人間にも罪に勝利する事が出来ると言う事を証明するために来られたと言う事です。私達人間は、神が示された生き方の模範を決して無下にしないように日々肉の誘惑に打ち勝って行かなければなりません。
「主イエスの受肉」の記事は全ての方に読んで頂きたい内容です。
又、記事の内容は私自身が人の深層を見抜くための大きな教訓ともなりました。私はミカエル氏の記事を最初から読み進めて行く上で常に思った事があります。それは、ミカエル氏は非常に高い知能指数の持ち主であり、抜群に頭が良いからこそ、難解な聖書の真理を理解する事が出来き、あのような素晴らしい記事を書けるのだ等と考えていましたが、「主イエスの受肉」の記事を読みそれは大きな間違いである事に気づかされました。主イエスの神性ばかりに注目し、人性を軽視するのであれば、主イエスを真に理解する事は出来ないと同様に、ミカエル氏の能力や才能と言う面だけに注目していたならば、ミカエル氏の聖書に対する熱情や神や隣人に対する真意を決して理解する事は出来ないと言う事に気付かされたのです。ミカエル氏は聖書の真理を研究し伝道するにあたり、大変な苦しみや悩み等を経験され、身を粉にして神と隣人のために聖書の解読に成功されたと言う事を「主イエスの受肉」の記事を読む事で理解が出来たのです。ミカエル氏は長年受け入れられた正しい底本であるTR底本を基に翻訳されていますが、市販聖書ではTR底本を改竄した改訂版のRV底本を基に翻訳されています。これは決定的な違いです。正しい底本を基に原語に忠実に翻訳する大変さは想像さえ出来ない程です。その過程に於いては当然悩みや苦しみが生じ、時に大きな壁に何度となく突き当たるかも知れません。ミカエル氏はご自身の人生の全てをかけて、命がけで聖書解読に成功されたと言う事です。そして、それらを惜しげなく全ての人々に無償公開されている姿は正に主イエスを模範とする生き方そのものであると言えるのではないでしょうか。
聖書は単なる文字ではなく、霊的な力を宿していますが、ミカエル氏の記事も又霊的力を宿しているからこそ、私達は常に魂を揺さぶられ、心から記事の内容に共感する事が出来るのだと思います。聖書の神の御言葉と「真の聖書福音と預言」の記事は見事に一致していますが、それは聖霊の一致だと思われます。これは聖書を読む事なしには確認出来ない事ですので、皆さんが時節に遅れないように、一刻も早く聖書を手に取ってお読み頂けます事を切に願います。
新約聖書 ヨハネの手紙一 四章五〜六節(ミカエル氏訳)
「偽預言者たちは世から出ており、それ故、世のことを話し、世は彼らに聞き従います。我等は神から出ています。神を知る人は我等に聞き従いますが、神から出てへん者は我等に聞き従いません。これによって、真理の霊と迷謬の霊とを知る。」
聖句引用元:(真の聖書福音と預言「主イエスの受肉」)
上記の聖句から、この世には真理の霊か迷謬の霊か二つしかないと言う事が分かります。
新約聖書 ヨハネの手紙一 四章二節
「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。」
ミカエル氏は二千十七年の「主イエスの受肉」の記事で主イエスが受肉をされてこの世に来られた事を明言されている訳ですから、真理の霊によって記事を書かれている事は疑いようもない事です。皆さんが聖書を手に取ってお読みになり、ミカエル氏の記事の内容と聖書が見事に一致している事を確認して頂けましたら幸甚です。何故なら、残された時間は後僅かだからです。
くり返しになりますがこの世には真理の霊か迷謬の霊、キリストの霊か反キリストの霊か常に二つの霊しかありません。迷謬の霊に惑わされないためにも聖書通読は必須です。
新約聖書 ペトロの手紙二 二章一節 「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるに違いありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分達を贖ってくださった主を拒否しました。」
異端をひそかに持ち込むとあるように、殆どの人々が気がつかないやり方で持ち込み、あたかもそれが正統であるかのように錯覚をさせるのだと思われます。
ミカエル氏はパウロが偽使徒である事をあらゆる根拠を基に論証されています。詳しくは(真の聖書福音と預言の(
「パウロは偽使徒」の動画)をご覧下さい。
たとえば、律法について見ても主イエスの主張とパウロの主張には大きな違いがあります。
ガラテヤの信徒への手紙 五章十四節
律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。」
パウロは上記のように述べましたが聖書の真理と合致しているでしょうか。
新約聖書 マタイによる福音書 二十二章三十七〜三十八節
イエスは言われた。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。」
主イエスは神を愛する事が第一の掟であると明言されているのにも拘らず、パウロは第二の掟だけで律法全体は全うされると述べています。この聖句からもパウロの主張は聖書の真理と一致していない事が明確に分かります。
新約聖書 マタイによる福音書 五章四十八節
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
ミカエル氏は常々私達に律法を守って完全な者となるように教えて下さっています。「真の聖書福音と預言」の記事を読めばミカエル氏が一貫して律法遵守の立場をとっておられる事がご確認出来る筈です。
新約聖書 マタイによる福音書 五章十七〜十八節
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」
皆さんはこの主イエスの御言葉を聞いてどのように思われますか。
私はこの聖句の「一点一画」と言う言葉から律法がどれ程重要であるかを理解し、律法こそが聖書の根幹である事を確信するに至りました。律法を守って神に善人と認められて、後の世で神と共に永遠に生きる事だけがこの理不尽な仮の世の中で生きている私達の唯一の希望と言えるのではないでしょうか。主イエスは人間にもそれが出来るのだと証明するためにこの世に来られた事を忘てはなりませんね。
私が聖書と「真の聖書福音と預言」のブログを読んで大きく変化した事は色々ありますが、その一つに選択間違いをしなくなった事があります。少し前に身近にいる者から相談を受けた際に迷わず聖書と「真の聖書福音と預言」から学んだ事を基に忠告をしましたが、結果的に事なきを得た事からも、やはり聖書の教えはどのような時でも私達に正しく生きて行く道を教えてくれる人生の手引き書である事を身に染みて感じた次第です。又、以前は人の外見を見てあの人は洗練された人だ等と思った時もありましたが、このような短絡的な思考をする事も一切なくなりました。聖書を読んで分かった事は洗練された人とは、律法を守って正しい生活をしている人であり、そのような人こそが真の意味で洗練された私達が見倣い憧れるべき存在である事を理解する事が出来きました。人間的視点ではなく神の視点から物事を捉える事が出来るようになった事で、選択間違いを犯す事がなくなりました。神の律法、掟、戒めを守り抜く事は当然苦しみを伴う事もありますが、その過程に於いて人は人格が練り清めらて神の品性に近づく事が出来るのだと思います。
新約聖書 マタイによる福音書 七章十三〜十四節
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門は何と狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
狭く細い道を選択するのか、それとも広々とした道を取るのか聖書は常に私達に二つの選択を迫っているように思えます。主イエスが歩まれた律法遵守の細く険しい道を歩くのか、それとも大多数の人々が歩く広々とした道を歩くのか選択は二者択一であり、第三の選択肢は人間には与えられていないと言う事です。
ミカエル氏の
キリスト道こそが命に通じる狭い門であり、細く険しい道です。その道を見出す事が出来る人間となりたいものです。そして、それは私達の意志次第でなれると言う事です。
これらの事を総括した結果、言える事は間違いのない選択をするためには、主イエスが苦しめられながらも生涯一度も罪を犯さずに神の律法、掟、戒めを最後まで守り抜いた、その生き方を模範として生きれば良いと言う事になります。
旧約聖書 レビ記 二十六章三〜四節
「あなたたちがわたしの掟に従って歩み、わたしの戒めを忠実に守るならばわたしは時節に応じて雨を与える。」
ここでの雨とは聖霊だと思われます。
神の掟を忍耐して守り抜き、聖霊を与えられて全ての選択肢の中から善のみを選択出来る人間に共に成長して参りましょう。
下記の記事の通り、ミカエル氏はアメブロでの伝道を終了され、伝道の場をサブスタックに変更されました。全世界に向けて聖書の真理を惜しみなく無償公開されていますので皆さんも是非ご覧になって下さい。あの時読んで確認すべきだったとならない事を切に願うものです。
新約聖書 マタイによる福音書 十一章十四〜十五節
「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい。」
最後までお読み下さり本当にありがとうございました。