おはようございます。
先ほど読み終えた平野啓一郎さんの「ある男」の感想を記憶が冷めないうちに書いてきたいと思います!*ネタバレ注で
全体の感想としては何かモヤっと心に残ったという印象で、面白いと思った箇所は2点です。
・愛に過去は必要か
・人は何をもってその人と言えるのか
この2点について考えてきたいです。
まず「愛に過去は必要か」については必要ないかと。それ以前に「愛」について考える必要もありそうですが、、
どちらとも言えるような気がしますが、作品の中では戸籍(その人の人生)を他人と入れ替えてその人の名前でそれからの新しいその人を生きていく事が描かれてます。
戸籍をロンダリングして新しい人物になり、結婚をして新しいその人の人生として生きていく事で、その時点から結婚相手との間には既に愛が成り立っている、でも新しい人生を歩み始めてもある事で死んでしまい、残された結婚相手からするとその人が一緒にいたそこにいた事実は変わらない。
過去に何をしてきたのか、何があったのかは生まれる環境やどうしようもない外的要因を受ける事はあり、本人にはコントロールできない事がたくさんある。
でも過去から得る事、学ぶ事、感じる事があってその要素は愛に影響を与えるのかなどありますが、その要素を知ってその人への愛が冷めるのか?(なんか論点が散ってきてる気が…)
過去は清算出来るわけでもないし、変えることはできないのでそれを受け入れた上で愛が無くなるのか続くのか。
うーん、締まりない。。
もう一つは人は何をもってその人と言えるのか。
戸籍が人と変える事ができる時、その人をその人であると証明できるのは何でしょうか?それこそ過去なんでしょうか?
作中では親が人を殺した。家族との軋轢がある。それが嫌で他人から後ろ指を指されて生きていくのが辛くなった人々が人生をやり直そうと戸籍トレードを行って新しい環境で生活をして新しいその人による人生が書かれてました。
過去をリセットできる時、人は自分を証明できるんでしょうか?
例えば過去であれば完全に記憶喪失になった場合は、その人の形成してきた時間は崩れてなくなり、戸籍も変える事ができるのであればその人を証明する手段は何でしょう。
作品を読んでて思ったのが、「他者と関わった時間」だけが唯一の証明手段かなと感じました。住む環境を変えてしまえば自分を知っている人がいなくなり、私を確立する方法はなくなってしまいます。
私とは誰なんでしょうか、結局人は1人では生きられないのですかね。