フィリピンの大学院に来て1年が経過した。

年中常夏で四季を感じられないせいか、それとも私がだらけているだけなのか、月日が経ってもメリハリを感じる事がない。

 

お正月にはお節料理を楽しみ、春になると家族と共にお花見の話題で盛り上がる。

 

日本に居た頃はあまり意識しなかったそんなイベントを、ここに来ると悶々と考えてしまうのだ。

 

 

たまたま出会ったとある日本人とホームシックについて語っていた時、その人から「故郷が恋しくなったら小説を読むといいよ」とアドバイスを頂いた。

 

そして、その人が愛読していた小説を数冊譲り受けることになった。

 

小説嫌いだと言えずにその状況になってしまったのだが、フィクションにも慣れておくことで感受性が磨かれる、と何処かの誰かが地元の講演でそう話していたのを思い出し、先ずは試しにと、三島由紀夫の「金閣寺」から先にピックアップした。

 

三島の作品に手を出したのはそれが初めてだった。主人公が抱えている心の闇とそれに付随する人間関係を、少々グロテスクとも捉えられる表現で味わった時、この日本語を楽しめる日本人で良かったと改めて実感した。

 

しかしその作品を読み終えても、私自身の心のモヤモヤは未だに消化されないまま喉に突っ掛かっている。日本語・英語力共に語彙力に乏しい私にはうまく説明出来ないが、登場人物に感情移入しすぎたのだろうか、自分で無意識のうちに勝手に作り上げていた作品の光景が、頭から離れない。カルピスの原液を飲んだとき、どんなにツバを飲み込んでもへばり付くあの塊のようなものを、ずっと抱えているのである。

 

ヘルマンヘッセの「クジャクヤママユ」を思い出した。小学5年生の頃、国語の教科書の1番最後のページに掲載されていたのを見て、好奇心からページをめくっていったのだが、主人公のエーミールの嫉妬に駆られて友達のコレクションを盗むシーンと、悪事を働く自分に嫌気をさして自分の作品まで破壊するシーンとで、胸が締め付けられる感覚に走った。

 

私はこれまで小説を読むことを避け、学術書や新書ばかりを漁っていた。フィクションはたかがフィクション、そう思っていた。

 

ただ今振り返ってみると、あれは単なる小説嫌いではなかったと分かった。

 

たかがフィクション、されどフィクション。物語の人物と自分を重ね合わせ、自分がこれまでに抱いていた想いが小説家によって言語化された時のスッキリした感覚と、自分の数少ない経験を振り返ったときのせつなさが同時に入り乱れる事に戸惑いを覚えていたのである。

 

当時は小学生で、ヘッセを読むには若すぎたのかもしれない。フィクションだからと割り切れるキャパシティが無かったとも考えられる。

 

25歳を過ぎた私は、出会った日本人の言葉を時々思い出しては、古本屋に出向くようになった。

 

嫌いだったはずの小説を捜し求め、酸化した紙の臭いを嗅ぎ分けながら素晴らしい作品に出会う事の楽しさを、ヘッセが16年の時を越えて私に教えてくれたのかもしれない。

 

 

 

ホームシック × 活字 = 日本人有り難う(笑)