レポートが終わらないのでブログ文章を書いている。タスクがたまればたまるほど他のことに手が付く癖、やめたい。

 最近人間関係がすこしだけ移り変わって、ちなみにわたしはあんまり悪くないんだけど、でもまあ「私は悪くない」と思ってしまったらたぶん私が悪くなるので、自己保身、そのたびに自己嫌悪という自己卑下の精神を再確認。よくない。自己に関する四字熟語が多いのは、結局自己愛は果てしなく強いものだからなんでしょうかね。知らんけど。書くことは特にないです。

 

 

 

小説と映画録

・アッシャー家の崩壊

 エドガー・アラン・ポーの原作を読了。原文で読んだけど、私レベルでも比較的すらすら読み進められるくらいには、だいぶ文法・単語がわかりよい。取り乱しているひとのセリフとか、日本語より英語の方がフレーズのレパートリーの言い換えがスピーディで焦燥感を伝えるのに向いている気がした。

 最初から最後までずっとゴシック小説~と思いながら読んでた。あとSやDの連続使用、そういう効果を使うのが非常に天才的。The fall of the house of Usherのタイトルも、概念的な崩壊の方だけだと思ってたのに最後に屋敷ごと崩れ去るの、あきらかに超自然的なのがゴシックの極みだしfallのタイトル回収だし「信頼できない語り手」の確定だしで非常にげきあつだった。「ピムの物語」とか「アナベル・リー」とか、そのへんは有名な一節くらいしか知らないからそっちも読んでみようかなと思う。

 

・屋根の上のサワン

 花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ でお馴染み井伏鱒二の初期作品。

 しぬほどよかった。強度がえぐい。作品だった。芸術の神様が宿るとしたらああいうのなのだろうと思ってしまうくらい。アンドレジッドの「大切なものは見られたものの中でなく 君の眼差しの中にある」が真実なら、真実なら、どれほど尊い、眼差しそのものみたいな作品。眼差しには素直な嘘も含まれるでしょう? きみの眼差しにはいつも新鮮な嘘が雑じってるでしょう。そういうのなんか愛せるはずないけど、愛おしいものとして再結晶させんとするあれは心に痛くて眼に優しい。

 

・十年来の友達が「アルジャーノンに花束を」を読んでめちゃくちゃつまらなかったと言っていた。私は好きだった記憶がある。軽くワンシーンだけ読み直したけど文章、文章、文章力よ……。やさしさよ……。

 

・ウエスト・サイド・ストーリー

 スティーヴン・スピルバーグ監督版を鑑賞。よかったぁ。まツッコミどころはだいぶあったんですけどね。でも”アメリカ”のところの映像が良すぎてもうなんかどうでも良くなった。トニー、背が高すぎてかっこいい。ベルナルドはだいぶ嫌い。ロミジュリオマージュだし有名だからなんとなくの展開は知っていたけど、ドンパチシーンとかは一ミリも良いとは思わなかったけど、アニータが「マリアは死んだ」と噓を言うに至る顛末、を含む一連のシーンはかなり膝を打った。グラツィエラが良い味すぎてる。チノはあいつなに?あれ。だるすぎ。

 

・マイケル・コリンズ

 アイルランド独立運動を主導したマイケル・コリンズの生涯を描いた歴史映画。イースター蜂起後から暗殺あたりまで。登場人物もデ・ヴァレラとか含めて結構忠実だったけど、相方のハリー・ボランドのみ架空の人物だったのかなぁ、調べても出てこなかった。あんなに重要ポジだったのに? 私のリサーチ力不足かもだけど。

 全体の感想としてはなかなかどうして泣けますね。泣ける。やめてくれ。幸せになって。ひとのことなんて考えないでいいよ。

 

・シェルブールの雨傘

 1960年代のジャック・ドゥミのフランス映画。全編がミュージカルで、他のセリフが一切ない画期的な作品。なのに飽きがこない。映像内がとてもカラフルで、動きも軽やかで、カメラワークも常に優雅に回っていて、フランス~~~な感じがした。ミュージカルだから本当に極力口元が絶対に画面内にうつりこむように工夫がされていて、それに気付いたときから面白くて仕方なかった。複数人居てデュエットみたいになるときとか、ここ狭い部屋だよ~、どうすんのぉ~!?ってわくわくしてたら女の子の方が鏡の前に移動して、男の子の背後に鏡越しに女の子の口元もばっちり見えたりして、もうスタオベでしたね。すぅごい。これはヌーヴェルヴァーグなんでしょうか。時期的にはそうなんでしょうけど。

 

・ちょっと思い出しただけ

 最高。彼氏欲しくなって、結婚したくなくなって、彼氏と結婚したくなった。ああいう男の人が後輩からモテるのはかなりわかる。追い込まれた表象文化論のヌーヴェルヴァーグに関するレポート、これを使って書いたら一瞬で片付きました。ほんとうにありがとう。ほんとうにありがとう。

 思い出す、という感覚、感傷はなぜこうも格別なんだろう。たぶん一切の労力を必要としないからとか、そういう下らない理由もありそうだけど、ナンセンスさへの忌避で相殺されてもいいような気がするのに。

 虚しさだけが煮詰められていく。でも思い出の温度、みたいなものが一瞬鼻を抜けて、自分の身体を思い出す時間がある。自分の身体だけが「今」と結びつく最後の砦である、みたいな誰かの言説にも私はおおむね賛同するから、相対化という手段だとしても「今」を浮かび上がらせる行為に価値をつけていっている、みたいなことなのかな。なら愛おしいけどね。

 

 

 『屋根の上のサワン』に感銘を受けて、井伏鱒二をお迎えするべく家の本棚を整理し始めた。もう疾うに読まなくなった宮部みゆきや瀬尾まいこを中心にこうべを垂れつつ間引いていると、奥のほうから昔、ひとからもらった文庫本を発掘した。よくお互いの琴線に触れた本を交換して読み合いっこしていた間柄で、一人暮らしには見合わぬ大きさの本棚を持っていたひとだった。好きなのもってって読みな、と御許しをもらったもののハードカバーの本が多くて、そういうのは帰らなきゃな時間になるたびにまた来て読めばいいよ、重いだろうからと言ってくれて、たまたま数少ない文庫本に手を出したタイミングで縁が切れた。これだけのために連絡するのもちょっと変な意味が入り込む余地が発生しそうで、なんとなく本という存在にそれを介入させるのだけは嫌で、まあ私の本も何冊か貸しっぱにしたままだし、お気に入りというわけでもなさそうだったからいいかな、と自分に言い訳した。それごと思い出した。

 別に今ではもうその手の熱病じみた好意が残っているわけではないという前提でだけれど、この本について彼は「文章は単純で質量もあまり無いし、特段なにもひっかからないんだけど、でもなんか、うーん、なんかなんだよな」と評していて、腹立たしいことにそれを聞いてページを捲りだした瞬間私にとって稀有な質量をもった文章に大成するのである。特別なひと、という定義はこれに基づくといってもいいくらい当然のこと、というような顔をしているからやや憎らしいけど、その類の”質量”を持った本なんて当然なかなか無いので捨てるに捨てられない。ひとがなにかをみてなにかを感じた、残った、という事実は私にとって強烈に興味深くて、それが特別なひとであればあるほど、質量がないとかくだらないとかそういうマイナスな評価であったとしても「残った」という事象は興味深くて、とくべつに成っていってしまう。彼の評価も高いわけではなかったし、実際レビューを見る限り世間の評価もとても高いとは言えないけど、何回自分に「レトリックに征服されてるだけ」と言い聞かせて見てもやけにやたらなかなかどうして味わい深い文章に感じてしまって、もう、なんなんだよ、と思ったりする。

 一度縁を切ったタイミングで、その時期にまたそんな事実をまざまざと感じるのは癪で続きを読むのをやめてしまった。『さよならモルテン』の冒頭があまりに美しくて私のこの事象がなおさらチンケでしょうがない。というわけで読んできます。消費や消化の仕方はきっと二種類あって、食事か供養か、自分の一部にするか、自分の一部を犠牲にして、みたいな。後者の方がより尊いみたいな、そういう舐めプライフなんかくそくらえですよね。

 

 

 

 

 

 ・メイクの変化に必ず気付いてくれるバ先のおじが、最近口癖のように「エロくなったね」と言ってくる。正直たぶん、髪をいつもより綺麗に巻いて、一方でメイクをいつもより薄くしているからなだけな気がする。おじだなと思った。人と会うときに自分をメイクすることがわりと好き、というか、そうでもしないと人に会えない。礼儀的にもモチベ的にも。

 

 ・『忘れてください』という曲を聞いている。本心からかけはなれた言葉を使って、本心への撞着を謳った曲。執着を他人に向けたくない。特に君には。理解なんていらない。自分だけが分かっていればいい。もし機会があれば、それは分かってほしい。そんな曲。ロールモデルかな? 歌声が耳に触れるように優しい。ちょっと思い出しただけ、くらい思い出してしまうものがある。同じ部屋に住むというのはどんなに短期間であっても、匂いとか足音とか衣擦れとか、そういうのが脳にこべりついてしまうもので、言葉を投げると彼/彼女から返ってくる、そういうことが日の常になってしまうのはきっとわたしを壊すに容易い。同棲というのは生殺与奪の権をゆっくりと他人に譲渡していく行為だから。

 

 ・こべりつくという表現、こびりつくじゃね?なんかむずむずするな、と思っていた時期があった気がするのにいつのまにかこびりつくが安っぽく感じ始めている自分が居て面白い。てめぇの吐く言葉なんて全部安いんだから安心して眠ればいいのに。

 

 ・米津玄師の『毎日』、何が好きかって「あなただけ消えないでダーリン 爆ぜるまで抱き合ってクレイジー この日々を踊り切るにはただ一人じゃあまりに永いのに」の部分のメロディラインなんですよね。永遠にループしている。そういう癖が昔からぬけない。永遠に続いたことはないので”狂ったように”という日本語が正しいか。ダーリン、クレイジー、あまりに、永いのに、の i の韻が堪らなく好きなのもあります。というかダーリン、の n のひっかかりが”あまりに永い”箇所の”にナガい”の、に、な、の、ね、ここに引き継がれてるのがね、さらに良といった具合で。

 やっぱり私は「くちあたり」というものが大好きなので、万葉集、ちゃんと読んでみようかなぁ。好きを自覚してるくせに教養がだいぶ足りていない。結局身をもってぶち当たったものからしか芯のある言葉はでてこないのに。小手先のなんとやらでなんとかしようとしてみちゃう現代人らしい傲慢さが私の根っこにも跋扈している。

 

 ・お盆休みで、しばらく母方の実家に帰省する。東京に帰ってきたらまたすぐに京都に出るので、八月はほんとうにこっちに居ないことになる。関東圏だって行きたいところがまだまだたくさんある。

 ・脚本を書かねばならない。どうせ書けない。熱海のあの簡易宿泊施設のラウンジにまたこもりたい。

 ・庭から夏草の匂いがする。西から新幹線で帰ってきて東京駅に降り立つ瞬間がわりと好きだ。ひとの生き様の匂いがする。遅れて自分事だと気づく瞬間がある。

 ・墓参りに行こうと思う。

 ・最近、ひとりで行動することが好きでしようがない。耳にn_bunaをつっこんでおけばなんにでもなるような気がしている。ラジオを10時間ぶんくらいゆったりループさせて聞いているのと、『非実在少年は眠らない』と『アイロニ』、『exダーリン』のcoverを適当にヘビロテするなどしている。『エロ』とか『二十九、三十』とか一時期ちょっと聞いていて、『exダーリン』はまただいぶ違う雰囲気の曲で好き。尾崎世界観自身のことは全然知らないけど、こないだ結婚した塩入冬湖と同じく歳の重ね方が楽しみな人。ていうか、わたしは可憐な乙女だからあんまり他人に言えたことはないんだけど、『エロ』のイントロやメロディが好きすぎてめちゃくちゃおすすめして回りたいんですよね。歌詞もちゃんと良いし。

 

 尾崎つながりで思い出した。京都の観光地を探していた時に目に留まった龍崖寺の井泉水と放哉のエピソードがとてもよかった。二週間ほど蚊帳の中で一人分の布団を分けて二人で添い寝したという話。不肖の弟子に対する井泉水のポーズから愛がチラ見えしていてとても良い。『獣の奏者外伝:刹那』の二章目「秘め事」の、エサルとユアンの山籠もりエピソードをちょっと彷彿とさせるものがある。あれは男女が絡むけど。エサルに対するユアンの感情、行動、視線、距離感、そういうのの全部がきっと不誠実の枠の中なんだけど、あれが一番好きなんだよな。でもあれって許嫁の文化が無いと成り立たない関係だからな。二人で山にこもってしていた調査の研究の論文を、エサルが書き上げてユアンに送り付けて、それから数年後に序文から丁寧な挿絵がついた一冊の立派な書物が贈り返されてくるシーンがあって、わたしにとって愛はこれであって、そう在りたくて、それにはきっと教養がやっぱり足りていない。情慾は脇において愛をしたいなら素養を蓄えなければならない。強度の強い想い合いでないと満たされないのなら。思考を放棄することの言い訳をあらゆるところからかき集める様な習性がある、ように思う。それに打ち勝たなければならない。そのための教養。そんな夏にしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 わたしは君の詩、とてもすきです。

 

 この気持ちを伝えるのに"すき"という言葉で手詰まりなのが堪らなく口惜しい。

 そういう風に物事を解す君の眼に曝されるのが怖いと思ってしまった。

 

 敵いたいよ。