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生まれつきワイルド

生まれつきワイルド

 最近、悲しいのです……これといって理由は分からないのですが。

 あなたは抑えている——それが問題のすべてかもしれない。あなたは生を信頼していない。どこか深いところに生への不信がある。自分がコントロールしなかったら物ごとはうまく運ばず、自分がコントロールして初めて物ごとはうまくいくのだから、自分はいつも物ごとを慎重にコントロールしていなければならないとでもいうかのようだ。それにはおそらく子どもの頃の条件付けが一役買っているのだろう。それが大きな害を及ぼしてきた。あらゆることをコントロールし始めると、その人の生は最小限にしか生きられないからだ。

 生はひじょうに広大な現象だ。コントロールすることはできない。そして、ほんとうにコントロールしたければ、それを最小限にまで切り詰めなければならない。そうすればコントロールできる。さもなければ、生はワイルドだ。 

 この雲たちやこの雨、このそよ風、この木々、この空と同じようにワイルドだ。ワイルドなのだ——ところが、あなたは自分のワイルドな部分を完全に切り取ってしまった。あなたはその部分が怖い——だからこそ、あなたはできる限り開こうとしないのだ。そして、それが悲しみを生み出してもいる。

 悲しみというのは、喜びになることができたのと同じエネルギー以外のなにものでもない。 

 自分の喜びが花開いていないことが分かると、あなたは悲しくなる。誰か幸せそうな人を見ると、きまってあなたは悲しくなる。なぜあなたには起こっていないのか? あなたにも起こりうるのだ! そこにはどんな問題もない。あなたは自分の過去を条件付けから解放すればいいだけだ。それが起こるためには、あなたは少し回り道しなければならない。だから、自分を開く努力を少ししてごらん。最初のうちはちょっと痛みを感じても……。最初のうちは痛みを感じるだろう。

 今夜から、夜にひとつの瞑想を始めるがいい。自分はまったく人間ではないかのように感じなさい。好きな動物をどれでも選べばいい。猫が好きなら、それでいい。犬が好きなら、それでいい……あるいは、虎、雄でも雌でも、好きなものならなんでもいい。ただ選ぶがいい。だが、それに固執しなさい。その動物になりなさい。部屋を四つん這いになって歩き、その動物になるのだ。

 15分間、できるだけその空想を楽しみなさい。犬だったら吼え、犬がやりそうなことをやりなさい——ほんとうにやるのだ! それを楽しむがいい。そして、コントロールしてはいけない。犬にはコントロールできないからだ。犬とは、完全な自由という意味だ。だから、その瞬間に起こったことはすべてやるがいい。コントロールという人間的な要素をその瞬間に持ち込んではいけない。ほんとうに犬になり切りなさい! 15分間、部屋中を吼え回る……吼え、飛び跳ねる。これを7日間つづけるがいい。これは役に立つ。

 あなたにはもう少し動物エネルギーが必要だ。あなたは洗練されすぎている、教養がありすぎる。それがあなたをだめにしているのだ。

 教養がありすぎるというのは、物ごとを麻痺させることだ。少しの量ならいいが、多すぎるとひじょうに危険だ。人はつねに動物になれるようでなければならない。   

 あなたの動物は解放されなければならない。私が見たところ、それが問題だ。もう少しワイルドになることを学べたら、あなたのすべての問題が消える。だから、今夜から始めるがいい——そして、それを楽しむことだ!

 

Osho, The Passion For the Impossible 

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神は面倒見がいい。最近つくづく感じる。瞑想を始めた当初は人生もめちゃくちゃであり、何もかもが混沌としていた。1日8時間だとか瞑想しているのにちっとも人生なんて変わりやしない。私は断定した。「やはり神はクソだ」と。



OSHOが、そして大乘住職が「ダイナミック瞑想をやるといい」と言うので言われるがままにやった。混沌とした深くて速い呼吸、フー!フー!と叫びながらのジャンプ、奇声をあげたり涙を流したりしながらの発狂、静寂、ダンス…この5つのステージからなる瞑想を1日2回やったりもした。



それでも人生が変わったとは思わなかった。やはり神はクソである。名前もまだない。次第に瞑想のことなんて忘れるようになってきた。だってずっと報われなくて涙が出ちゃう。男の子だもん。大乘住職にも正直に伝える。「男の子だし、最近は瞑想せずにテレビばっか見てます」。すると大乘住職は「おおそうか、それはよかった」なんてことを言っている。は?



そんなこんなで瞑想を忘れて暮らしていた。とはいえ毎日瞑想をしていたのだから矛盾極まりない男の子である。私の肉体はあまりに不健康ゆえ目が覚めてから起床するまで時間がかかるのだが、その時間を全てフルフィルメント瞑想に捧げていたのだ。「捧げていた」なんて言うと偉そうに努力して瞑想していたように聞こえるが、私は横になってゴロゴロしながら脳内でマントラを一言唱えて幾何学図形をイメージして、それであとは寝ていただけだ。当然体が眠りに落ちかけると瞑想も途絶えるのだが、その時にはまたマントラと幾何学図形の工程をやり直すだけだ。



そんなこんなをしながら日々を過ごしていると、次第に外側の生も落ち着き始める。が、落ち着かせようと思ったのではない。もはや「瞑想」とか「意識的」とか「観照」とか「真理」とか、そんなことを忘れてへらへら生きていたら勝手に落ち着いていた。しかもこれは当初想定していた「満足ある人生」を超えている。「当初の想定」なんてのはせいぜい月給100万円、美人な妻、大きな家、会社の社長、有名人になること…頭で考えられる「理想の人生」なんてせいぜいそんなもんだ。



が、今の私の外側はそんなものを遥かに凌駕している。別に月100万円稼いだりしているわけではないが、「これこそ私が心の底から望んでいた人生だ」と言わんばかりの有様である。しかもまだ発展途上だ。日々神の成す技を目撃しながら生きているわけだが、恐らくこれは死ぬまで続くのだろう。



しかし人間として大した役割を果たしているとは思わない。自分の生活全体を見ても一介の猫のようだ。私が果たしている役割なんてそこらへんの野良猫、あるいは猫カフェの猫くらいのものだろう。大乘住職とよく一緒に散歩をしたりコメダ珈琲に行ったりしていたのだが、その時に私が覚者であろう彼をつぶさに観察して感じたのは「猫か犬か何か」ぐらいの印象であった。ボーッとその辺の中空を凝視したかと思えばキョロキョロして、目を閉じて、突然何かを思い出したかのように喋り始める。



だからもしこの生の、この宇宙の恩恵を100%受けたいのなら猫か犬か何かのような「宇宙の自然物」になるしかない。私たちはコントロールを忘れる必要がある。もし今までの数十年、何もかもコントロールして満足な人生を送れなかったのだとしたら、いっそのことコントロールを手放して生きてみるのも手なのかもしれない。






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