天人峡温泉に到着すると、俄かに空が掻き曇り雨が落ち始めた。嶮しい柱状節理に囲まれた深い渓谷から見える空は極端に狭く、そこをゴンゴンと黒い雲が流れて行った。
バス待合小屋から温泉までは100m程あり、傘も差さず濡れて行くには少し遠過ぎた。小降りになるのを待って、タオル一本ぶら下げて「しきしま荘」に向かった。
駐車場には殆ど車の姿も無く閑散としているが、平日の午後ならば…こんなものだろう。
いや、待て待て。幾ら寂れた天人峡温泉でも、ちょっとヒト気が無さ過ぎじゃないか?気配すら感じないのは一体全体…。
「しきしま荘」の玄関に立った拙者は、その予感の真の意味を知ったノダ。
「誠に勝手ながら本日は休館とさせていただきます」
ガガ〜ん。
玄関の二重になった引き戸のガラスに貼られた紙には、温泉を楽しみに舗装路を3時間歩いて疲れ果てた人間を突き放すような非情な文言が書かれていた。
オフシーズンの平日、コロナ禍も手伝って宿泊客が居なかったのだろう。来るかどうか判らぬ日帰り入浴客の為に人員を割いて営業するよりも潔く休館を選んだ事情も理解出来る。
理解は出来るが…納得は出来ぬ。
拙者のこの、汗ばんだ肌をどうしてくれるノダ?
風呂上がりの、ゴクゴクぷっはーだけを楽しみに3時間も歩いて来たのだぞぉ。
これから温泉に入る為だけに旭岳温泉に向かうか?
いや、そいつは無理な相談だ。
陽も暮れ始め雨足も強まってきた。
旭岳温泉へ向かう連絡路(登山道)は、落差200mの「羽衣の滝」横を詰め上がる電光急登ルートなのだ。
何より、既に行動スイッチはOFFってしまった。もう…ゴクゴクスイッチしか入らん。
ま、温泉は諦めるとして…困った事が幾つかある。
いつも日帰り入浴の際に、親切そうなフロントの老紳士にお願いして、山行用の飲み水を所望して、プラティパス(水筒ね)二本分の水を貰っているのだが、それが貰えないとなると…明日の行動用飲み水にも困ってしまう。
いや、水は沢山…目の前の「忠別川」に流れておるノダ。もう…毎分何万リットルも、バスタブが1秒掛からず溢れるぐらい、流れておるノダ。
但し、河岸に降りる場所が無かった。
その時、玄関脇に地面に埋め込まれた水道蛇口があるのに気がついた。
蛇口を捻ってみると、ちゃんと水が出た。
ま、飲めなくは無いだろう。


一応、飲み水を確保して肩を落として「天人峡避難小屋」に戻る事にした。その途中、駐車場を見やると立ち昇る湯気が見えた。
そうか、足湯があったかぁ。
観光客用に「しきしま荘」が作ったらしい足湯が、何年か前に出来ていたノダ。
なんとか、アレに全身浸かれないだろうか?
周りにはヒト気は無いし、恐らくは…今「天人峡」には自分一人しか居ない筈だ。
薄暗くなりかけた中、足湯を偵察に行くと…水深は20cm程しか無い。これは、寝っ転がれば…と、微かな希望が湧いてきた途端、壁に「全身入浴しないで下さい」的な事が書いてあって、馬鹿の考えそうな事はしっかり見破れているのだった。
トホホホ…(早く山に登れよ)

翌朝、未明まで降り続いた雨は止んで、青空が覗いていた。車の音で目が覚めると駐車場には何台もの車が停まっていた。
そうかぁ、今日は土曜日だったか…。
皆さん結構な重装備だから、昨年改築された「ヒサゴ沼避難小屋」に泊まって美味しいものでも食べようと企てておるのだな?
車の台数からすると、既に5パーティ程入山しておるようだ。
煙草を吸いに外に出て「忠別川」の様子を見ると、昨日から三割ほど水量が増えてるようだ。
つー事は、後半…雨水路を辿る天人峡ルートは、水がルート上を流れ「沢登り」の如き悪路に変貌しているという事だな(何故か嬉しそう)。
「天人峡ルート」が昔から、このルートを上がる奴は「本物の馬鹿か、正真正銘のマゾか、或いは…その、両方だ」と言われた所以は、単に長距離だけでは無く、悪路にあると言っても過言では無い。
現在こそ、木道が敷かれた高層湿原の「第一公園」も嘗ては、踏めば水が滲み出す泥炭湿地でマトモに歩ける場所が雨水路以外に殆ど無かったし、年々酷くなるだけの根曲がり竹の藪と、浸食され続ける雨水路にはハイマツの根が張り出して、さながら障害物競走だった。
今日のように、まとまった量の降雨後には、雨水路には大地に吸収されなかった雨水が流れとなり、音を立てながら飛沫を上げ登山者の行手を遮る。
足場を探し、時にはハイマツを手掛かりに、根曲がり竹を踏みつけ、中空に浮いたハイマツの根に全体重を預ける。
こんな野生剥き出しの登山道なんて、内地ではお目にかかった記憶が無い。
あったとしても、一般登山道とは認識されない「破線ルート」として地形図に載せられ、バリエーション・ルート扱いされるだろう。

さてさて、先行者との充分な間隔が開いただろうから、拙者も出発の準備に取り掛かろう。
ナニ、これは…昨今口やかましい「ソーシャル・ディスタンス」などでは無く、山では極力ニンゲンの姿を見たくない自分なりの「パーソナル・スペース」だ。
山に入ったら誰とも遭いたくは無い。
山と自分の一対一の関係性を、ピリピリとヒリつくような緊張感を、外殻が剥離し無垢なる者に回帰しようとする自己の変容を、不純物に阻害されたく無かった。
5日間…誰とも遭わずに過ごした、何年か前の「東大雪縦走」は面白かったな〜。

柱状節理が発達した尾根に乗るには、天人峡からだと節理の横の急峻な斜面の僅かな隙間を攀じるしか無い。
「三十三曲がり」と呼ばれる九十九折道…我々、山ヤが「電光ルート」(電光=稲妻)と呼ぶジグザグの登山道を少しづつ高度を稼がねばならない。
朝イチの、この登坂がハンパ無くキツイのだ。
見通しの利かない樹林帯の退屈な九十九折を、俯きながら黙々と登るしか無い。ただただ、我慢の時間だ。
退屈なので、名前の通りの「三十三回」の切り返しがあるのか数えるのだが、1時間程掛かる登坂なので途中で数を忘れてしまう。
十回程ここを登っているが、名前の通り三十三回になった試しがない。
今回も三十一回で尾根上に乗ってしまった(なして?)。
確か何年か前にお節介な誰かが、コーナー毎に回数の札を付けていたが、その時ですら拙者のカウントでは40回程になった記憶がある。
これらの事実から導き出されるのは、ルートの途中に時空の歪みが存在するのは確実だ(んな事は無い)。

尾根に乗ったからと気は抜けない。
此処から長大な尾根歩きが始まるノダ。大した地形的変化も無い、コースタイム3時間に及ぶ樹林帯の尾根歩きも辛抱の時間だ。
しかし、キノコ採集に目覚めた今は退屈している暇は無い。
風抜けの良い混交林の為に、高度を上げる度に種々様々のキノコに出会えるノダ。
今回も九十九折を登ってる間に早生のボリボリ(ナラタケ)を幾つか見掛けていた。キツイ登坂中だったので、スルーしたが緩やかな尾根道に入れば、立ち止まって採集する余裕もあるというものだ。
しかし、期待に反して尾根道にキノコの姿は殆ど無かった。
恐らく、この夏の少雨の影響が大雪山系でも出ているのだろう。
昨夜のまとまった雨で、少しは森も潤った筈だが、キノコ発生には3〜4日掛かるだろう。
とりあえず、「羽衣の滝」を正面に見る「滝見台」で休憩して一服つける。
昨夜の雨で渇水期の滝も水量を増して
迫力がある。
休憩後、出発しても一度スイッチの入った…キノコ・センサーは登山道脇のキノコ探索に忙しい。
五分程歩いたトコロで、笹藪の中に特徴的な鮮やかな赤色を見つけた。
おお…タマゴダケではないかっ。
高度が低いとはいえ、夏のキノコであるタマゴダケがあるなら、秋のキノコのナラタケは見当たらない筈だ。
まだまだ、山は暖かいノダ。
秋が旬だと思われてるキノコだが、気温や湿度の気候条件さえ合えば一年中発生するし、秋よりも意外に夏の方が多様な種類と出会う事が可能ナノだ。

歩き始めて3時間、もうそろそろ退屈も限界だぁ、と思い始めた頃…それまでとは明らかに違う地形に出くわす。
尾根を外れ凹地に入り込むと、巨大な岩塊が散見出来る。
見上げると樹林の隙間から、高層湿原が乗る台地状の縁(へり)の垂直に近い斜度を持つ岩壁が望見できた。
恐らく、崩落崖だろうと思われる斜面は二十年程前に一度大規模に崩落し、通行止めになった事もある。
露頭した角礫に苔が付いているのは、暫くは比較的安定した状態ナノだろう。
20分程電光ルートを詰めると、劇的な様相の変化を目の当たりにする。
根曲がり竹の刈払い道を抜けると、草紅葉の淡い色彩を纏った高層湿原帯が眼前に展開する。
背の低い歪に湾曲した幹と枝を東側に伸ばす蝦夷松の若木、濃い這松の枝葉、立ち枯れた蝦夷松の骸骨のような白い幹が碧空に浮かび上がる。
木道の上にザックを投げ出して、それにもたれながら昼食にする。
かなりな距離を歩き疲労が蓄積しているが、行程的には約半分という感じだろう。
木道の脇には昨晩の雨が小さな流れを作っていた。

「第一公園」を出発すると木道が切れた先に沢形か現れる。普段は水流の無い涸れ沢だが、今日は結構な水量の流れが音を立てている。
浄水器を取り出して今日一日分の行動用の飲み水を作る。
雨水だが若い草のような匂いがして美味かった。
木道が切れた先は、根曲がり竹の刈分けの中に雨水路が延びるルートだ。
いや、これをルートと呼ぶのは北海道だけかも知れない。雨水の通り道故に藪が濃くないだけの、ただの沢なのだ。こんな道を歩いてるのは沢ヤ(沢登りやるヒトね)だけだ。
こういう道を平気な顔をして当たり前のように歩いてる北海道の岳人達は、自覚していないだろうが、凄い実力を持っているノダ。
雨水路には大地に吸収しきれなかったた…かなりな水量が勢い良く流れ、先行している登山靴を履いたパーティは大変だったろうな。
拙者は長靴だから、逡巡する事無く一定のペースで進めるし、足場を探す苦労も無い。
雨後の「天人峡ルート」を歩くのならば、長靴はマストだろう。
「大雪山」の深部で長靴を履いた登山者を見たら、「天人峡」か「沼の原」(クッチャンベツ)からだと思って間違い無い。

泥炭湿地の「第二公園」を過ぎると、ルートは更に野性味を増す。もう沢登り並みのルーファイ(ルート・ファインディング道探し)技術を要求される。
這松の浮いた根を足掛かりに、根曲がり竹に掴まりながら体を持ち上げる。
小さな谷地を過ぎてルートが尾根に乗り、這松トンネルが現れると稜線はもう少しだ。
やがて両側の這松の背が低くなり腰ぐらいの高さになると目の前が急に開ける。吹き付ける風の為に生育を阻まれた背の低い這松は、そこが植物にとっても人間にとっても平穏に寿命を全うする事が難しい環境である事を示している。
緩やかに登る稜線を右手に「ポンカウン」を見ながら歩いていると、トレランの二人とスライドした。今日初めて遭う登山者だが、挨拶だけ交わして別れた。
小高いポコを越え細かい砂礫斜面を詰め「化雲岳」への最後の登りに差し掛かると濃いガスに巻かれた。
YAMAPのGPSによれば残り200m程だが、その姿を見せない。こういう時の精神状態が一番こたえる。
ガスの中に「化雲」の姿を見つけた時の安堵感は、一抹の寂寥を伴うのは何故だろう。

つづく。

【写真1】第一公園の木道
【写真2】雨水路、長靴マストな理由がこれだ
【写真3】やっと化雲岳