Mackeyのボヤき
Amebaでブログを始めよう!
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

私とモーグル 『最後の想い』

2013年3月3日。

札幌ばんけいスキー場には粒の大きな雪が舞い続けている。

翌日にはコースが埋もれてしまいそうな降り方だ。そんなコンディションにも関わらず北海道の大会はいつも進行がスムーズ。宮様国際スキー大会の男子決勝が定刻通り終了した。


場内アナウンスの順位発表に耳を傾ける。


ロイトン札幌で行われる表彰式に出席する義務がないことを確認したぼくは、少々残念な気持ちを道連れて足早に会場を離れ、チームばんけい専用のプレハブへと向かった。



プレハブに入るとキシキシと軋む年季の入ったパイプ椅子に座り、ヘルメットをテーブルの上に置いた。撤収作業用のグローブに履き替えるべく、ノースフェイスのカバンに手を伸ばす。カバンの中からグローブ、そしてクリアファイルを取り出した。


クリアファイルには全日本選手権大会のエントリー用紙が入っていた。


今回が『最後の大会』と決めていたが、僅かな心の迷いもあったのであろう。何かの間違いで気が変わった時のために、一応エントリー用紙を準備しておいた。あとはこれと一緒に大会本部にいる薮下さんにエントリー費を渡せば、富山県で開催される全日本選手権大会に出場することができる。


しかし、、、


先程の決勝での滑りが脳裏を過ぎり、エントリー用紙を手にしたままぼくは考え込んだ。


過去の自分と現在の自分を重ね合わせてみる。

どの角度からアプローチしても同じ様には重ならず、大きな隙間が至る所に存在し、そこから過去の自分の姿が透けて見える。その隙間を埋めるパズルのピースは、過ぎ去った日々に置き忘れ、今のぼくにはそれを埋める術がまるでない。

今日の滑りはそれを象徴するかのようにボロボロ。そして、かつての半分にも満たない低いエア。滑走する度に痛む左膝、、、。

全日本選手権大会までは二週間あるが、この体だと満足な練習を行うのは困難なことは容易に想像できる。

仮に出場したとしても、納得のランは出せないであろう。最大の目標であった決勝でゴールを切れる実力は何処にもない。それは紛れもない事実であった。


『・・・もう充分だ。これ以上カッコ悪い滑りは魅せられない。』


心の隅に残っていた選手としての僅かなプライドが、現状の自分を許すことができなかった。

ぼくはエントリー用紙を手に椅子から立ち上がり、扉の横にあるゴミ箱へと歩を進める。

そして『フッ』と微かに鼻で笑い、エントリー用紙をビリビリに破ってゴミ箱に捨てた。


その足取りでぼくは撤収作業へと向かった、、、。





2012年10月7日。

テイネウォータージャンプ最終日。現役最後のウォータージャンプ。


北風がビューと音を立てながらオリンピアスキー場のゲレンデを渡る。広葉樹の葉は落ち切り、ゲレンデはベージュのカーペットが敷かれたようで、手稲山はこれから雪を待つのみといったところ。

そんな周囲の風景とは異なり、テイネウォータージャンプは10月とは思えないほど暖かく、柴山さんとモエキが真夏と同様の服装でウォーミングアップをしている。その二人の姿をスタート台から眺めては、ひとり今シーズンへの思いを馳せていた。

{4A7E461A-7E40-4A2C-8760-DBBB48F87602}


この年は仕事が多忙で、思うようにトレーニングの時間を作れなかった。しかし、少ない時間で集中して取り組んだ為か、意外にも身体は研ぎ澄まされ、ウォータージャンプも9回しか足を運べなかったにも関わらず、過去最高の仕上がり具合だった。

現役最後の年になって感じる『時間の有効活用』。過去を振り返れば現在とは違い、学生の頃はなんだかんだで時間があった。その時間をもっと・・・改めて自分の思考力のなさ、計画性のなさ、行動力のなさを思い知る。ぼくは幾多の失敗経験を繰り返したのにも関わらず、最後まで自分を客観視できなかったのだ。



そして、そんな矢先の11月中旬・・・。


仕事中に今度は腰を負傷。休養を余儀なくされ、シーズンインは回復次第ということになった。



やがて12月になり、見渡す景色も白銀の世界へと変わるが、まだまだ滑走できそうにもない。

焦る気持ち、悔しさ、苛立ち・・・。

様々な葛藤が入り混じる中、ぼくはUSセレクションのライブ中継を見ながら日本選手の応援をする。


大会会場がウィンターパークからカッパーマウンテンに変更になったらしく、映像を見る限りでは斜度は緩く、恐らくコーススペックがFISレースの基準を満たしていないとも思われた。

そんな大会で日本人選手はみな調子よさそうで、特に空の動きが抜群によかった。しかし、全体に完走率が高く、エアの見栄えが劣るとスコアが伸びないように感じ、ケータ、素直、ヒロ、ヒサも予選を通過出来なかった。

この大会では空が大活躍。最後の最後で見事2位をゲットし、数年ぶりにW杯チームへと返り咲いた。

以前空は二度の前十字靭帯断裂を経験し、一度は心が折れかけたように見受けられたが、持ち前の明るさと不屈の精神で再びトップシーンへ這い上がった。このメンタルの強さを多くの選手が学ぶべきだと思う。



ようやく初滑りができたのは、年が明けた1月上旬だった。


チームばんけいのプレハブに到着したぼくは、素早く準備をしてオレンジリフトに乗り込みモーグルコースへと向かった。すると、このシーズンは早くもコースが完成しており、工藤さん指導のもと数名の選手がエア練に励んでいた。2本整地を滑ったぼくは、早速みんなに交じってエア練を始める。

ストレートジャンプ3本、バックレイアウト2本、コーク3本・・・。

11月に負傷した腰は問題なかったが、コークのランディングで再び左膝に痛みが走り、物足りなさを感じかながらも早々と練習を切り上げることにした。



それからは練習を週一回に絞り、1月のばんけいモーグルはエントリーを見送り、翌月の北海道選手権大会に目標を定めた。


しかし、モーグルは『感覚スポーツ』であり、週一回の練習で感覚を取り戻せるほど甘くはないことを実感する。過去の貯金は練習を積み重ねることにより、より確かな実態を得たものになる。

それでも可能な限り練習をした。


『おれはこんなもんじゃない。もっと上手く速く滑れるハズだし、もっと高く飛べるハズだ。』


思うように滑れなく、諦めそうになる度に自分に言い聞かす。

2008年の全日本選手権大会でW杯チームの選手に割り込んでの決勝進出。工藤さん、本濃さん、新井さんから日本一と評されたバックレイアウト。不可能を可能に変えてきた自分・・・そんな過去の小さな実績と経験などが心の支えとなり、自尊心と平常心を辛うじて保っている。

そしてシーズン前に定めた目標『過去の自分に勝つために、全日本選手権大会の決勝でゴールまで滑り切る』を果たしたい。そんな想いもあったのだ。



調整不足が響き、結局北海道選手権大会は選手としてではなく、フォーランナーとして出走することにした。

デュアルモーグル終了後の公式トレーニングで、ようやく初めてコース練習をする。久々に顔を合わせるタカヒロやリンタローくんなど後輩たちから


『今日のデュアルは出てなかったですが
明日は出るんですか?』


と問われ、回答に少々戸惑った(笑)。

公式トレーニングでは1エアでレイアウト、2エアでコークを飛んだ。ターンもエアも出来はかなり悪いが、まぁ一本通すくらい何とかなるだろう。そう思って明日を迎えようとしていた。



翌日、北海道選手権大会。


ほぼ1年ぶりに味わう大会の雰囲気。程よい緊張感を持ってフォーランナーに挑んだが、1エアのレイアウトを飛び、一つ目のコブに足を取られ敢え無く転倒(ーー;)

ゴールを切ると会場脇にポールを刺し、すぐさまコース係へと役を替え、スコップ片手に大会の行方を追うことした。


決勝はヒロ、ヒサ、吉川くんが素晴らしい滑りを魅せる。吉川くんが見事初優勝を飾った。



2日後。週末に開催される札幌大会、宮様大会に向け再び練習を始める。膝は相変わらず鈍痛を発し、気力を振り絞ってコースに立つ。この様子では全日本選手権大会で目標を達成するのは厳しいと感じたぼくは、札幌大会と宮様大会を『最後のレース』と捉えることにした。


『今回の二つの大会で全てを出し切る』


覚悟を決めると、痛みをも忘れ何かに取り憑かれたよう、日が暮れるまで滑り続けた。




3月2日。札幌モーグル競技会。


札幌には朝からどんよりとした分厚い雲が空一面に広がっている。そんな中、全日本選手権大会目前で多くの有力選手が集う二連戦が幕を開けた。


いつものよう、出走15分くらい前にスタートエリアに到着し、軽くアップをしながら順番待ちをする。

時折場内アナウンスで選手のスコアが発表される。素直とシュンヤのスコアがズバ抜けており、この二人の今シーズンの好調さが伺えた。


そしていよいよ出走順が回ってきた。

ぼくは相変わらず1エアのランディング後にスムーズにラインに入れることを重視し、レッドコースを選択した。

{6A518BA3-60E8-4832-BF80-99D32C8A2690}


・・・うーん。滑走後に映像を見ると予想以上に動きが悪い(笑)。これは予選落ち確定だなと思ったが、大会役員の原田さんは


『いや、大丈夫でしょ!ギリ予選は通るよ。』


と言って励ましてくれた。


とりあえずゴールエリアで選手の滑りを眺める。

旭川のターミネーターこと西村さんが果敢に攻めるも、2エアのバックレイアウトをオーバー。何と大腿骨を骨折し、担架に乗せられ病院へ緊急搬送。あの痛みに強い西村さんが物凄い苦しそうな表情をしていたことから、大腿骨の骨折は想像を絶する痛みだということが理解出来た・・・。


そして出走選手が残り3分の1を切ったところで天候が急転。会場は猛吹雪に見舞われ、札幌大会はあっさりと中止になってしまった。女子予選だけが大会として成立し、男子選手はみな残念そうだ。



帰宅してPCを開くと一通のメールが届いていた。


こーちゃんからだ!


メールには本日の動画が添付されていた。コーチとして会場でビデオカメラを回しながら選手の滑りを見守り、選手以上に疲労しているにも関わらず感謝m(__)m

ぼくの滑りは案の定ボロボロで全く板に乗れていなく、明らかな練習不足を露わにしていた。

何度か映像を確認した後、こーちゃんにお礼のメールを返信する。


『いつも動画を撮っていただきありがとうございます。明日はぼくにとって最後の大会です。今日よりも良い滑りが出来るよう努めます。』


こーちゃんだけには最後の大会と伝えた。



翌朝、ぼくはいつものようにばんけいスキー場へと向け車を走らせる。

車通りが少なく、歩く人影も疎らな朝の札幌。朝帰りと思われる若いカップル。休日出勤だろうか?スーツで身を包んだサラリーマン。大きな荷物を引きずる観光客・・・。

大会の日に眺めるこの風景。200万都市の一日の始まりは穏やかで、いつしかこの時間帯が好きになっていた自分に気づく。



ばんけいスキー場に着くと早速ウォーミングアップを開始。このように選手として過ごす時間もこれが最後かと思うと、寂しい気持ちが心の中に満ちてくる。


皆様は想像出来るだろうか?自分が現役最後のレースに挑む姿を・・・。



公式トレーニングが終了し予選が始まる。

ぼくは前日同様、レッドコースを選んだ。滑走日数9日目にしてスキーを乗りこなしつつあり、今シーズン一番の滑りが出来たのだが、蓋を開ければ予選は超ギリギリのスコアで辛うじて通過。

ぼく以上に若手選手が素晴らしい滑りを見せたので当たり前であろう。



決勝のインスペクションから徐々に降雪が強くなり、柔らかい雪がコースに積もりゆく。予選よりも滑り易くなったこともあり、最後は今のぼく自身が可能なフルアタックをかけることを決意する。


『次が最後の一本か・・・。』


ぼくはオレンジリフトに乗って上空を見上げた。雪は止まることなく降り続け、ヘルメットや肩にまで積もり、時折それを手でほろう。



スタートエリアに着くと女子決勝が始まっていた。

何となく待機している選手たちに目をやる。

鋭い目つきをした選手。

緊張気味で顔が強張っている選手。

それらとは対照的に笑顔を見せる選手、、、。

多少趣旨や思考が違えど、皆『モーグルが好き』という共通した思いがある。そんな選手の皆様と同じ空間にいれるのも今日が最後なのだ。



続いて男子決勝。

1番スタートのイッセーが滑り終えるとすぐに出番。

ぼくはスタートコールがかかると同時にコースへと勢いよく身を投じた。

{69583046-5935-42BF-A179-2A09385465BD}


1エアはまずまず。


若干ランディング後にもたついたがミドルでスピードに乗りたい。


ミドル中盤から後半にかけて工藤さんが仕掛けたコブとコブの感覚が狭いクイック地獄に、今の自分では上手く対処出来なかった。

{F4EC4951-5E63-4566-9D0A-644928103CF8}



それでも2エアに向けてのアプローチスピードは充分。誰よりも大きく飛ぶつもりでいたが、拍子抜けしてしまうほど小さなバックレイアウトになり、空中で思わず笑ってしまった。

{BE136349-597C-4F01-8EFB-822D98813455}


そのため、予定していたランディング地点より遥か手前に落ち、一つ目のコブを待つような形になり、ジャッジからすると印象が悪い。

ボトムを滑り切りゴールをすると、ぼくは上空を見上げた。


『終わった、、、。』


白い粉みたいな雪が次から次へと降り続け、空との境界線がぼんやりと歪んで見えた。



素直、ヒロ、ヒサ、シュンヤの上位四人によるスーパーファイナルは実に見応えのあるものだった。

誰もが持てる力を発揮したように見え、ジャッジは採点に頭を悩ましたであろう。

遠い昔、ぼくを始めとする先輩たちを見上げていたであろう彼らは、当たり前だがいつしかぼくが見上げる選手にまで成長していた。

これからは勢いのある彼ら若手が、モーグル界を引っ張ってゆくだろう。その彼らを追い、チームばんけいのタクヤやショータなど北海道の金の卵たちがどのような成長を遂げるか?

今の選手の皆様には、どうか怪我なく伸び伸びと滑り続けてほしい。そんな願いを胸に、ぼくの現役最後のレースが誰にも知らされることなくひっそりと終わりを告げた。





数名の選手と役員が宮様大会の表彰式に出席するため、撤収作業の人数は少なめだった。しかし、それに慣れっ子の選手や役員は手際よく作業を進め、一時間後には決勝の熱気も機材も全て片付いた静かなモーグルコースへと戻っていた。



ぼくは最後に一人でスタートエリアへ向かい、撤収作業の最終チェックを行いながらゴールエリアまで滑り降りた。


ゴールエリアに残っていた数本のポールを手に取り、何となくフッと首を横に向け、誰もいないモーグルコースを眺めた。


つい先程まで大会が行われていたとは思えないほど、ばんけいのモーグルコースはしーんと静まり返っている。

雪がしんしんと降り積もる音さえもしっかり聴こえるほどだ。

ナイター照明も点灯し、全長240メートルのモーグルコースを薄闇の中に徐々に浮かび上がってくる。


このスキー場のモーグルコースを初めて訪れた時から、一体どれほどの時間が経過したのであろう?

{7E066570-CD17-4281-B5D2-A377AEAE75DD}


目を瞑れば八巻さんに連れられ滑っていた若き日の自分。

初めて目の当たりにした全日本選手権。

フラットの重要性に気づき試行錯誤した日々。

掴みかけていたチャンスを逃した全日本選手権の決勝。

再び左膝を痛めてしまった北海道選手権。

そして今日の最後のレース、、、。


それら過去の出来事が走馬灯のよう一瞬で脳内を駆け巡る。

ここはぼくにとってかけがえのない思い出が詰まったモーグルコースなのだ。

ぼくは独りでに懐かしき日々を振り返りつつも、視線は遥か彼方にある新しいステージをぼんやりと眺めていた。


『本当にお世話になりました、、、。』


そう呟くと、誰もいないモーグルコースに向かい頭を下げた。


新しい時計の針が動き出した。


ぼくはモーグルコースに背を向け、チームばんけいのプレハブに向かって斜面を滑り降りる。

ナイター照明が10秒後の未来を照らしている。

途中、山間から札幌の街並みが見えた。


ひとつ、またひとつと街に灯りが灯り始めていた、、、。







それから1年半ほど経過したある日。ぼくの元に一通のメールが届く。

開封すると、それは以前ぼくのブログにコメントを寄せてくれた松尾さんからでした。

松尾さんは本州在住のスキーヤーで、モーグル技術からトレーニング法、また用具のことまで熱心に研究しており、マニアックなモーグル話が出来る面白い人だ。そのような話をメールでやり取りをしていると、徐々に過去の記憶が鮮明に蘇ってきました。


そんなある時、共通の知人である岡田さんの話題になり、ぼくはフッと七年前に岡田さんと交わした約束を思い出したのです、、、。


『大会が落ち着いたらニセコで一緒に滑りましょう。』


それを07/08シーズンに約束をしていたのだ。しかし、生憎ケガなどが重なり、その約束を果たせぬままにいたことに気づいた。社交辞令をも真に受けてしまう(単に社交辞令ってのが空約束みたいで嫌いな)ぼくは、数年ぶりに岡田さんに連絡をとってみた。


それを契機に度々連絡を取り合い、昔話やモーグル技術、話は飛んで結婚秘話や子供のことなど時には3時間(笑)も通話することもW(`0`)W←現在も(笑)!

電話の向こうから岡田さんのモーグルに対する熱意が伝わってきて、ついつい長電話してしまうのでした(笑)。

そんな会話の中で岡田さんが


『はた◯やまさんの貴重な失敗経験をぜひ後輩たちにも伝えてあげて下さい。それは役に立つハズです。北海道のモーグル界に明らかに足りないのは、OBからのサポートです。』


との言葉を発した。

その言葉を聞いたぼくの脳裏にある人物が過ぎり、再び忘れかけていた思い出を引き出しからそっと出すよう、ゆっくりと記憶の糸をたどり始めた、、、。




時は2010年4月。



当時のぼくは某医薬品会社に勤めており、仕事柄札幌市内の病院や調剤薬局を回る日々を送っていた。

その得意先には白石区のがんセンターもあった。

そのがんセンターには尚志学園と北海道スキー連盟の強化コーチである本濃さんが入院しており、時間を見つけては(仕事をサボっては)病室に顔を出していた。


本濃さんは2008年から骨髄腫という病に侵され、闘病生活を送る日々を過ごしながらも、モーグル関係者と連絡を取り合い、最後の最後まで現場復帰を諦めていなかったと伺っております。

そんな本濃さんのお見舞い時の話の内容は、やはりモーグルのことで、お互い夢中になって話を続け、意見をぶつけ合っていた。



ぼくが半月板の手術を終え、仕事復帰して間もなく、医薬品をがんセンターに納品すると、売店で飲み物を数本購入し、いつものように本濃さんの病室を訪れた。

すると本濃さんはベットに横たわり、窓の外を眺めながら、ぼんやりと何か考え事をしているように見えた。

ぼくの訪問に気づくと、本濃さんはムクッと起き上がり、笑顔を見せてデイルームへと移動し話をすることに。

しかし、その笑顔とは裏腹に少々力のない目をしていたのが気になっていた。


もしかして、先ほど横たわっていた本濃さんは落ち込んでいたのではないだろうか?


骨髄腫という病、長期の入院、家族のこと、モーグルのこと、、、。


本濃さんの心の内を思うと胸が締め付けられるような気持ちになる。

だからほんの少しでも前向きな気持ちになってほしい。そんな思いでぼくは明るく振る舞うよう心掛けた。


だが気づくと、たかだか半月板の手術をしてシーズンを棒に振ったぼくを逆に励ましている本濃さんがいた。本濃さんは本当に優しく他人想いの方です(雪上ではけっこう毒舌でしたが笑)。

その時、本濃さんがこんな言葉を発した。


『ま◯ゆきはモーグルでたくさんの失敗経験をして、他の選手より多くの事を学んだでしょ。いつかその経験を下の世代にも伝えてあげてほしいな〜。』


ぼくは生前の本濃さんにそんな『お願い』をされていたことを思い出しました。




それから四年の時を経て、岡田さんと過去の本濃さんの言葉が重なり合い、ぼくの中に眠っていた『想い』が、昔の恋人と過ごした甘く懐かしい日々の如く蘇ってきました。


『そうだ、やり残したことがあるではないか、、、。』


果たしてぼくの数多くの失敗経験は、今の選手に役立つものなのか?

そんな疑問を抱きつつも、大先輩である二人との約束を果たすためにも、何より今の若い選手の皆様のお役に0.1%でも立てればとの思いで、2014年の12月より当ブログで連載を始めました。



何故、このように長期にわたる連載になってしまったかと言うと、『失敗』に至る経緯とそこから何を学んできたかを説明する必要性があると感じたので、自伝を織り交ぜつつ記事を書くことにしました。

単刀直入にあれをやって失敗した、これをしなければよかった、だからこうした方がいい、、、など部分的に伝えても説得力はないし、何より押し付けがましくなりそうなのでそれを避けました(結局のところ説得力に欠ける稚拙な文章しか書けませんでしたが笑)。

それに実績も実力もなく、チームばんけいのスローガンである『勝っても負けても尊敬される選手』ではなかった、自己中な落ちこぼれ選手の発する言葉なので最初から目を通さなかったり、途中で読むのを止めた方も多いと思います。それを承知で掲載し続けたので、見苦しさもあったでしょう。



競技から離れ四年が経過しようとしている今、モーグル界が何やら騒がしい?度々、呆れるような情報を耳にします。

しかし、北海道を始めとする国内各地でモーグル活性化プロジェクト?が進行し始め、数年以内にはSAJを凌ぐほどの組織力、指導力、そして環境を兼ね備えた団体、都道県連盟が誕生するかもしれません。

これはあくまで予想と言いますか、理想と言ったらいいのだろうか。平昌オリンピックを機に、現在の常識をひっくり返すくらいの理論と実践力を兼ね備えたコーチが台頭してくるでしょう。

そんな熱意とバイタリティーを持った方々にモーグル界を任せ、ぼくは第三者として眺め、遠くから皆様のご活躍を願いつつも、次の新たなチャレンジに向け準備をしている最中です。




ぼくのモーグルに対する最後の想いです。


今でもスキーがモーグルが好きです。

心の何処かにこれからもモーグルと携わっていたいという想いがあるのも事実です。

小学生の頃に偶然出会ったモーグルが、未だに一番カッコいいスポーツだと思っております。



そして、やはり良い環境に人が集い、良い選手を育むと思います。

その環境を作り、選手の『可能性』を広げ『底辺拡大』を図るのが連盟、役員、コーチ、OBなど『大人たち』の最大の役目です。そして皮肉なことに、選手(子供たち)の『可能性』を潰してしまうのもまた『大人たち』です。

どの業界、どの組織でも見られるような存在意義の誇示、不毛な権力争い、お金の問題、理不尽すぎる主張、、、など大人たちの哀れな姿、言動を選手たちとその親御さんたちはよく見て聞いています。

また、義務教育(軍人、奴隷教育)のような右向け右の指導法、気合根性論だけでは選手は育ちません。人それぞれの身のこなし方と思考があり、万人に受ける指導というのは存在しないと思います。

移り変わりの激しい現代では、昔の概念にとらわれず、時代の変化に対応できる柔軟性と思考力が必要に感じます。それと同様にモーグルは日進月歩のスピードで進化しています。





逆に役員、コーチなど大人たちも選手の行動と言動を『よく』見て聞いています。お互いに『誰かに見られている』のです。

だから選手自身もそのことを認識し、指導を受ける立場でも受け身になり過ぎず、自身の感覚を信じ、考え行動して欲しいです。

そして自分の小さなプライドを守る為か、言い訳をする選手は絶対に目標を達成できないと断言できます。


『でも、しかし、だけど、、、』


そんな『不要なプライド』は何の役にも立ちません。プライドはない方が人も情報も集まってきて、結果自分の成長に繋がります。


あと時折耳にしますが


『お金がないから〜できない。』


『時間がないから〜できない。』


こんな言い訳は敗北宣言です。選手が口にすべき言葉ではないと思います。そんな言葉を発する前に


『お金がないけど、時間がないけど、自分ならこうしてみよう。あぁしてみよう。』


と徹底的に知恵を振り絞り行動をして下さい。お金は人間関係の『信用』によって動き、時間は万人に平等なこの世で一番の財産です。ミカエルもマットもジャスティンも皆同じ24時間を過ごしております。

選手の環境により資金や時間という資源はそれぞれですが、頭脳には限界はありません。

そもそもスキーが出来る環境と丈夫な体があるだけで、選手として充分幸せだと気づき、当たり前に過ごしている日常に感謝の気持ちを添えるべきです。今まで怪我や環境の変化によって、バーンを去った多くの選手を見てきたのでそう言い切れます。

モーグルをやりたくて出来なくなった人は、本当にたくさんいます。



こんな事を言ったら一部から反感を買うでしょうが、ぼくは選手だからといって必ずしもオリンピックを目指さなくて良いと思っています。


好きだからやっている。


楽しいからやっている。


上手くなりたいからやっている。


教える人(コーチ)になりたいからやっている。


立派な目的ではありませんか。

それら数ある目的の延長線上の一つにオリンピックが存在します。

つまりオリンピックは選手の選択肢の一つで、それを目指したい選手は目指せばいいし、コーチ(指導者)なんかは今の日本モーグル界に一番必要ではないでしょうか。

技術を教えるのも大事ですが、『楽しさ』を教えれる指導者が増えれば、それこそ『底辺拡大』に繋がると思います。

大人たちが勝手に作り出した同調圧力で、選手を無理やりオリンピック選手にさせようとするのは愚の骨頂です。そこまでするのであれば、挫折した選手の『心のケア』をする手段も用意して下さい(最終的に立ち直るのは自分自身の力ですが)。

しかし、まずは選手の『可能性』を広げれるような環境作りが先決です(それが整いつつある団体もあります)。


『モーグル選手として活躍出来る時間は本当に短い』です。ご存知の通り、引退後の生活の方が遥かに長いのです。

しかし、その短い時間は真剣になればなるほど多くの経験、出会いがあり、今後の人生においてかけがえのない財産となります。


ぼく自身モーグルから離れても、選手時代に出会った方々と繋がりがあり、時折連絡を取り合ったりお会いすることもあります。その時は昔話や今現在取り組んでいることなど刺激や力をいただいて、自分の行動の源にもなっています。そんな皆様には本当に感謝しております。


ぼくは人一倍数多くの失敗経験をし、自分のことしか考えれなかった本当に愚かな選手でした。『世界最高峰の舞台で滑る』という夢を叶えることも出来ませんでした。

そして、現在はモーグルから離れて過ごしており、発する言葉には力が不足していることは自覚しております。関係者からは机上の空論に聞こえているかもしれません。

しかし、一つだけ確信を持って言えることが御座います。


『モーグル選手時代に身を持って経験をした多くの出来事、多くの出会いが私の宝です。』


選手の皆様、そしてモーグルから離れた元選手の皆様。今の行動の『積み重ね』が未来を形成します。それぞれの目標に向かい、『全力』で我が道を突き進んで下さい。陰ながら応援しております。



最後は綺麗事で締めさせていただきますが


モーグルをやってて良かった。


モーグルに携われて良かった。


選手、役員、コーチ、、、誰もが人生の幕を閉じる瞬間にそう思える様な日本モーグル界であって欲しい。

それが願いです。

{4AE25ACC-0C0B-4E5D-90D6-D93BEC8D60A4}
14/15シーズン、ばんけいで行われた全日本選手権大会にて。ちゃっかり集合写真に紛れ込む。

私とモーグル part15

2011年7月14日。

ぼくは再びテイネウォータージャンプのスタート台に立っていた。



左膝がグチャグチャになった09/10シーズン以来のウォータージャンプ。そのシーズンを不完全燃焼で終えたことから、もう1シーズンだけ競技を続けようと再起を期していた矢先の六月、まさかの前十字靭帯再断裂。

その後、一度はモーグルを捨て、所持していたスキー用具を全て後輩に渡した。しかし、本濃さんとの別れや過去の自分に対する後悔の念、つまり『やり残した』ことを思い出し2年という時間を決め、競技復帰をすることに至った。



今日は空が異様に蒼い。所々に散らばる初夏の真っ白い雲が、心地の良い爽やかな風に吹かれゆっくりと動いている。耳を澄ますと、北海道の短い夏を謳歌するかのように蝉の大合唱が聴こえる。視線を遠くに向けると、空と海の境界線にくっきりと暑寒別連峰が浮いている。

二年ぶりのテイネウォータージャンプは、ぼくを優しく迎え入れてくれた。


千鶴子さん、松本先生、関さん、岡田さん、こーちゃんが見守る中、ぼくは意を決しアプローチを滑り出す。空中へと勢いよく飛び出した。

滑るという感覚、飛ぶという感覚。

二年前までは当たり前のように感じていた、懐かしいそれらの忘れかけた感覚。

ぼくは幸福感に満ちていた。この瞬間を待っていたのだ、、、。


着水すると、嬉しさのあまり自然と瞼から滴がこぼれ落ちる。

プールの水で涙を誤魔化しつつ、コーチ方に感想を伝える。


『全然上手く飛べないけど、めちゃくちゃ楽しいです(涙)!』


あの時の喜び、蘇った感覚、周囲の風景、その場にいたコーチや選手との会話、、、ぼくは今でもハッキリと覚えている。再びモーグルが出来ることに胸がときめき、二年もの間もがき苦しんだ過去が、プールの水で綺麗に浄化され、一つの思い出へと変わってゆくような気がした。


この日は道連、札連のウォータージャンプ合宿が行われ、ぼくもそれに招集されたのでした。二年間モーグルから離れ、競技者登録も抹消し、一時期はモーグルを完全に捨てていた。しかし、コーチ陣は再び戻ってくることを信じてくれ、道連強化指定選手にぼくの名前を残しておいてくれたのだ。その配慮も本当に嬉しかった。

そしてさらに嬉しいことに、ぼくが競技を離れていた間にニセコやばんけいのジュニア選手が増え、楽しそうにアップをしてウォーターを飛ぶその姿が微笑ましい。みんな『それぞれ目標や課題が違う』けど、『モーグルが好き』という思いは一緒。ぼくみたいに怪我をせず伸び伸びと心身ともに成長してほしい。素直にそう思った。



ぼくはこの日以来、毎週のようにウォータージャンプへ通い、様々なエアを飛び続けた。以前のぼくは大会で使う技しか練習しなかったが、モーグルはフリースタイルスキー。様々なエアを飛ぶことによって得られる『新たな感覚』を遅まきながら身につけようとしていた。

また、二年前までは『自分が勝つこと』しか考えず、周囲の選手とのコミュニケーションや、後輩の面倒を見ていなかった愚かな自分を反省し、それらの改善を可能な範囲で心掛けた。


自分がウォーター行く日は、普段公共の乗り物でテイネに向かうジュニア選手たちに声をかけ、途中で拾ったりした。

当時、札幌の高校に通っていたワナカもその中の一人だ。彼女はこの時既に卒業後アメリカに渡り、理学療法かアウトドア観光業を学び、将来的に地元ニセコに貢献したいと眼を輝かせながら話していた。この年齢でビジョンがしっかりしており、ぼくが16歳の頃と今のワナカを比較すると、彼女の方が遥かに成熟した大人に思える。

現在、ワナカは有言実行しアメリカで頑張っている。それは本当に素晴らしいことだし、個人的に応援しています(^_^)




そして冬将軍が到来した11月。

ぼくはセッキーさん、こーちゃん、工場長、ひろあき、すなお、ユーポン、ヒロ、ヒサ、マイ、カッツとキロロで二年ぶりの雪上滑走。

いきなりラインコブ滑って体が悲鳴をあげたが、スキーの楽しさを再確認できた。



年が明けて一月。

今度はグランヒラフで道連、札連の強化合宿。

{8BA1DFB0-D215-4AD5-A4F2-D7261954398C:01}
グチャグチャの寝室


この合宿にはW杯チームに昇格したケータも参加。彼は一度ナショナルチームを落ちたが、カナダ修行を経てパワーアップし、その勢いのままW杯チームへ。一度落ちた成績を上回るのは本当に難しいが、それを努力で越えたケータは流石としか言いようがない。ぼくは彼がW杯チームに昇格したことが嬉しかったし、後輩ながらとても尊敬している。


ヒラフの積雪量は申し分ないのだが、生憎2壁の高速リフトが運転しておらず、ゴンドラで回して別のコースで練習することになりました。

そのコースには不規則で落差の大きなラインコブしかなく、USセレクションでコースを滑り込んできた選手には不満があったように見えた。

そんな中、数名の選手が不満を吐き出し、コーチに叱咤されていた。

大会さながらのコースで練習したい選手の気持ちも、自然コブに近い斜面を滑るテクニックも必要だと言うコーチの考えも理解できる。


ぼくの考えはこうだ。

以前もお話したようモーグルは『アウトドアスポーツ』で、様々な天候やバーンコンディションで滑る必要性があること。そして『今、眼の前にある環境で最大限の練習をする』ことに意義がある。もちろんコース練習が大事だが、それが不可能であれば『分解練習(分州法)』をすべきだと思う。

そのように考えると、雪不足が叫ばれている昨今だが、雪があれば最低限の練習は可能ではないだろうか?

また少し話が逸れるが『本当に』スキーが好きなら、プロであるなら、競技者であるなら何故雪が少ないのか(レジームシフトになりつつあるのか)?根本的な部分を追求し、それを解決するための行動(結果が出る出ないは別として、まずは行動するという姿勢)に移してほしいと願います(ぼくは二年ほどそんな仕事をしましたが、大怪我をして挫折してしまいましたので、そこまで大声で言えませんけど)。活動のベースである雪がなくては困る方は多いと思います。



合宿が終わると今度はばんけいでコース作り。年々皆の手際が良くなってきており、工藤さんもニンマリ( ̄+ー ̄)このように自分達でコースを作ることに対し、賛否両論あるが選手としてプラスに働く部分もあると思います。




そして復帰戦のばんけいモーグル競技会まで一週間を切ったある日のこと。


ぼくは視界が良くなるナイター照明が点灯し始めてからコースへと向かった。

コースに着くとUSセレクションに出場した伸び盛りのモエキとイツキたちが練習をしていた。二人ともぼくがモーグルから離れた二年の間に驚くべきほど急成長し、猛スピードでコースを滑り抜く。

彼らの成長が嬉しい反面、目の前に強力なライバルとして立ちはだかっている事実。


『今のおれは彼らに勝てるのだろうか?それとも、、、』


フッとそんな疑問が脳裏をかすめる。


その日の夜は何とも面白い夢を見ることが出来た、、、

場面はばんけいモーグル競技会の表彰式。

成績発表をまだかまだかと待ち構えるぼくは、自身の優勝を確信していたのだが、最初に呼ばれたのは、何とモエキの名前。

ぼくの名前は次に呼ばれ、愕然としてトボトボと二番目に高い表彰台へと登った。そこから見上げるモエキはドヤ顔で賞状を受け取り、ぼくを見下すようにニヤニヤしていた。

すると、モエキが信じられないような言葉を発した。

『はた◯やまさんって大したことないですね\(^o^)/楽勝でした!』


うぁーーー((((;゚Д゚)))))))敗北感と絶望感に苛まれぼくは絶叫した。


、、、その時ハッと目が覚めた。

なんだ、夢だったか。。

あまりにも現実味を帯びた悪夢に、ぼくは冷や汗をかいており、掌は軽く湿っていた(笑)。



それから数日が経過し、復帰戦であるばんけいモーグル競技会の公式トレーニングの日がやってきました。

モエキに会い、ぼくは先日魘された悪夢の話をしてやると


『それは正夢になりますよ。エヘヘψ(`∇´)ψ』


と、本人は勝つ気満々(笑)。その言葉を聞いたぼくは、ちっぽけなアスリート魂に火がつき、B級大会だが大人気なくフルルーティーンで全力で勝ちに行くことを決意した。



翌日、ばんけいモーグル競技会第1戦。


薄い雲間から太陽が顔を出し、冷え込んだ札幌の地に光を射す。上々の天候だ。

8時にスキー場に到着したぼくは、チームばんけいのプレハブに荷物を置くと、早速アップを開始する。大会の朝独特の緊張感と冷たい空気が漂う駐車場で行うアップをしていると、過去にばんけいで行われた大会のことを次々と思い出す。あの頃とは体の状態が違えど、今このように再び大会に挑めることに対し改めて感謝をする。

アップを一通り終え、プレハブに戻ろうとする途中で島谷さんに遭遇。挨拶をすると島谷さんは


『今日は優勝だな!』


と言ってぼくにプレッシャーを与えニヤリと笑った。後輩たちが急成長しているとはいえ、まだまだ負けてはいられない。外から見ると勝って当たり前だが、『勝負に絶対はない』と自分に言い聞かせつつも、敢えて勝ちを狙いにいくことにした。



インスペクションが終わり10分後に公式トレーニングが始まる。

ぼくは前日同様センターコースを選び、やや受けコブ気味のコースを滑りだした。久々の大会にだけあって、多少の緊張がぼくの体の一部を支配しているようで、若干動きが固い。それでも大会に出場できる『喜びとコーフン』が緊張よりも勝り、例えどのような状況に陥ったとしても、コースを滑り抜き勝つ自信があった。

最後の一本を滑る。出場者が少ないせいか、コースはさほど荒れておらず、多量の降雪や気温の変化がない限り、このコースコンディションを維持できそうな感じだ。



女子予選が始まったかと思えば、すぐさま男子予選。

あっという間にぼくの出走順が回ってきた。


スタート台に立つ。

帰ってきた。再び選手としてここに立っているのだ。

選手にとって大会で滑るコースとは舞台であり、25秒程の間、練習通りの演技を多くの方々に観てもらう特別で贅沢な空間。大会に出場する選手は成績を残すことを追求する者もいるが、大会という舞台で味わえる緊張感、そして『非日常』を求める者もいる。

今の自分は前者と後者のどちらか?己に問うてみる。

しかし、どちらでもなかった。

ただ大好きなモーグルが出来ることが、大会の雰囲気を味わえることが嬉しく愛しい時間に感じる。その気持ちは、10年前に奇しくも同じ場所で同じ大会で初めて公認大会に出場した、若き日の自分と一寸の狂いもなくオーバーラップした。


『あぁ、あの時と一緒だなぁ。。』


そう思ったぼくはコースを眺めながらニヤけてしまった。


DJサヤのアナウンスでスタートコールがかかる。

この瞬間を待っていました!と言わんばかりに、ぼくはコースへ飛び出す。

1エアはコザック。

ランディングで数々の怪我(失敗経験)を重ねただけあって、その処理が我ながら上手くなったよう感じる。ミドルから中盤で若干後ろ乗りになったため、板を詰まらせるようにスピードコントロールをしながら慎重に2エアへ。

2エアはダブルツイスターだ。

ボトムもしっかりターンを刻み、会場でぼくの滑りを眺めていた者の眼には手を抜いているように映ったであろう。特にエアは。


そのエアには意図があった。。

シーズン始めに千葉県連コーチの祓川さんと電話していた時のこと。

今シーズンから再び選手としてモーグル界に戻るとの旨を話すと祓川さんは


『それじゃー、復帰戦のばんけいBは公認大会デビューした時と同じエアを飛んだら?初心の気持ちを思い出すためにも。』


との言葉に同意したぼくは、迷わずに祓川さんと約束を交わした。コザックとダブルツイスター。大会でアップライトを飛ぶのは何年ぶりだろう?元々アップライト世代だし、ツイスターは6発振ったことがあるため、その時は練習の必要はないだろうと思っていた。


このような経緯でアップライトを飛んだワケだが、自分の考えが甘かった(笑)。コザックは脚の開きが悪く、ツイスターも捻りが足りん(T_T)

アップライトも練習しなくてはビシッと飛べないし、『むしろアップライトでしっかりテイクオフ』を切る練習もすべきだったと反省。『現代のエアは全てアップライトの延長戦に存在している』ので。『エアが低い選手』に限って、アップライトの技が出来ない傾向があるように思います。それにエアは何でも飛べる方がカッコいいし、『様々な感覚』が身に着くという副産物もある。



全体のエントリー数が50名ほどと少なく、大会進行がスムーズのためか、予選は早々と終了した。

大会会場の隅にある掲示板に予選のリザルトが貼り出される。確認するとぼくは予選を一位通過し、その下にはモエキや岩手の佐々木兄弟が下剋上を狙うかの如く名を連ねていた。少しでも手を抜くとやられる。そのように気を引き締め、決勝はフルアタックをかけることを決めた。



先ほどまで晴れ間を覗かせていた札幌の空だったが、徐々に雪雲が太陽を遮断してゆく。

インスペクションが終わると決勝の公トレが始まった。

1本目はバックレイアウトとループでコースを滑る。1エアの手前に横掘れした不要のコブがあり、台への進入がややしにくい。


そのため2本目は予定を変更し、1エアはこのシーズン初めて飛んだ360。やや暴走気味のまま2エアに進入。

今までの感覚ではミドルで暴走しようが、最低限のコントロール出来る範囲ではればバックレイアウトを飛んでポジョンを立て直すことが可能であった。

しかし

二年という空白の歳月のせいなのか、怪我による感覚の変化なのか?見事にバックレイアウトをオーバーし、ランディング後の一コブ目に弾かれ、雪面に叩きつけられるようにクラッシュ。

体の痛みは全くなく、ぼくは何事もなかったかのように立ち上がり、ゴールエリアへと滑り下りて板を外す。


数分後、公トレが終わると、スタートエリアに上がるため再び板を履く。

が、思わぬトラブルが発生してしまった。。

左膝の外側に激痛が走り、ぼくはビンディングを踏み込めずにいた。しかし経験上、前十字靭帯は断裂していないことだけは理解できた。この神経的な嫌らしい痛みは、、、軟骨損傷だろうか。。

ぼくは先ほどのクラッシュで左膝外側を傷めたのだ。あれくらいのクラッシュは、今までも幾度となく経験している。だが、4度の手術を繰り返した左膝は、もうその衝撃に耐え切れなくなっており、もう自分の体は過去とは全くの別物となっていたのだ。

あの頃とは違う、、、。ぼくに『現実』という悲しい波が打ち寄せ、そのまま波打ち際の砂のように、みるみると巻き込まれていきそうな気がした。


『これが現実。もう過去の自分ではない。決勝は棄権すべきか?』


自分に問うてみる。

過去に無茶をして数々の怪我を繰り返してきた経験が脳裏に浮かぶ。やはり棄権するのが賢明であろう。でなければ、過去の失敗経験を無駄にしてしまう。あの時、一体何を学んだのだ?

しかし

少し間を置き、ぼくは大馬鹿者だと気づいた。

無意識のうち左膝外側に荷重をかけぬよう、慎重にビンディングを踏み込んでいた。心は自然と決勝の舞台へと傾いていたのだ。


『やっぱりおれはバカだ。滑りたいという気持ちを抑えられない。』


ぼくは自分の愚かさに呆れつつも、少しニヤけ、ゴールエリアからコースを眺めた。


『もう一本滑ろう。』


やはり、ぼくは自分をコントロール出来なかった。だからこそ、トップ選手になれなかったし、数々の怪我を繰り返してきたのだろう。ぼくはこんな選手でしたが、今の選手の皆様には『自分を大切にして欲しい』と思います。


幸いな事に、左膝に荷重をかけなければそこまで痛みは感じない。徐々に腫れてはきているが滑走は可能であろう。ぼくはリフト乗り場へと向かった。


リフトから山頂方面を眺めると、上空からの雪雲に覆われ始め、チラチラと雪が舞ってきた。山頂に近づくにつれ、粒が大きくなってくる。


ぼくがスタートエリアに到着すると同時に男子決勝がスタートした。

一番スタートのハルキはバランスを崩しながらも粘り強い滑りで、2エアで見事な360を飛んだ。今朝、ばんけいに向かう車内で


『決勝に進出して、実力でA級大会出場権をゲットしたいです!』


と眼を輝かせながら喋っていた。実力的にはまだ危ういと思ったが、それは余計な心配であった。有言実行。素晴らしい。


次々と選手が滑り下りる。モエキや佐々木くんが予選よりもいい滑りを魅せる。しかし、まだ負けてはいられない。

スタート係に促され、ぼくはスタートエリアへ。1エア横でコース係を担当しているヒロタカが手を振り応援してくれている。


『膝よ、これ以上ぶっ壊れないでくれ。』


そんな願いを込め、ゴール目指してスタートを切った。

ボロボロの360を飛んでミドルセクションへ。左膝が腫れているためか、テンポが悪く今ひとつスピードに乗り切れない。何度もバランスを崩し、これなら予選の方がいい滑りをしていたな~と思いながら2エアへ。

まともにテイクオフを切れないことは理解していたので、不本意ながらスピード任せの抜き気味のバックレイアウトを飛ぶ。

{91BD4691-92E2-4498-A82F-A393AA9BDAB9:01}
バックレイアウト


ボトムも雑だった。

ぼくはゴールを切ると一瞬安堵の表情を浮かべ、駆け寄ってきたコーチやバシくんと一言二言交わし、一目散にチームばんけいのプレハブへと向かった。早くブーツを脱いで、アイシングをしたい、、、。



大会ドクターの井上先生と松本先生に膝を触診してもらう。やはり前十字靭帯は無事で、軟骨損傷だろうとの見解だった。決勝を滑ったためか、膝はさらに大きく腫れてきた。


気づくと表彰式の時間。ぼくは慌てて靴を履き、プレハブを飛び出した。

久々に眺める表彰台の真ん中からの景色。応援に駆けつけてくれたバシくんが写真撮るから笑ってーと促すが、その笑顔の裏側には険しい顔をした別の自分がいた。



翌日、北新病院にて診察。パンパンに腫れ、まともに歩行をできなかったが、見るからに太い注射で水抜きをすると、何事もなかったかのよう膝が楽になった。しかし、軟骨の痛みは水と一緒に抜けることはなかった。衝撃を与えれば再度苦痛に見舞われるであろう。そんなことは簡単に予測できる。


『この状況で、今シーズンを滑り抜くにはどうすべきか?』


ぼくは帰宅すると徹底的に考え、結論が出た頃には陽が傾き、すっかり夕闇が街を包み込んでいた。




一週間の休養を経て、ぼくは帰宅ラッシュの渋滞を避けながらフッズへと向かった。膝に負担のかからない滑りを見つけるべく、再び関さんの教えを問うことにした。

三週間後の札幌大会、宮様大会に向け、ぼくはそれまでエアを封印し、スライド主体の滑りを身につけようと考えていた。

以前の記事でもお話したよう、関さんは基礎技術指導に定評があり、ぼくは07\08シーズンの全日本選手権大会前に指導を受け、ターンの改造に成功。それにより、決勝の舞台に上がることができた。その実績からぼくは関さんに大きな信頼を寄せおり、今回もターンの改造の指導を依頼したのだ。


二週続けて火曜と木曜フッズチームの練習会に参加し、その他の日はばんけいで個人練習。その結果、短い期間ながら大幅に滑りを改造することに成功。やはり『指導者の力』と『一つの課題に集中した練習』は、自分に大きな確変をもたらしてくれる。


大会一週間前にようやくモーグルバーンを滑り始める。ターンは手応えを感じとれたものの、案の定全く練習をしていなかったエアは、思わず眼をそむけたくなるほど悲惨なものだった。。

{6A623818-7D36-4E71-9D75-E14810F4F855:01}
A級大会に向けコースをリメイク




2月25日札幌モーグル競技会。

ぼくは4位で、シーズン特別枠での全日本選手権大会への出場権を獲得。だが、リザルトを見て愕然とした。なぜなら抑えたつもりは一切ないにも関わらず、タイムがあり得ないほど遅すぎる。。

優勝はチームメイトのヒサタカ。予選、決勝ともに他を寄せつけず圧勝。迫力の滑りと会心のガッツポーズは今でも記憶に残っている。このシーズン一番成長したのは彼だ。


帰宅後にこーちゃんから送られた札幌大会の映像を見る。確かに一ヶ月前とターンの質が違う。改造に成功したのだ。だが、このスライド主体の滑りに何か違和感を感じていたし、スピードを出すことが容易ではないことに、今日の大会で気づいた。それは単純にスライド主体の滑りが『自分の身のこなし方に合わない』滑りだということだ。



翌日の宮様大会は滑りの迷いから中途半端な滑りに終わる。

さらに翌週の北海道選手権大会(女子シングルでなんと小学生だったBJのキサラちゃんが優勝した大会)では、結局以前のカービング主体の板を縦に落としていく滑りに変えようと試みた。しかし、3週間という短い期間ではあったが、スライド主体の滑りが『クセ』として身についてしまっており、そこからの脱却ができずに苦しんだ。

さらに滑れば滑るほど膝は痛みを発し調子が崩れていく。おまけにエアも全くテイクオフを切れない。

元を辿ればばんけいモーグル競技会で膝を負傷したことが事の発端。それは自分でも理解していたが、競技者として大会に出場している以上膝のせいにはしたくなかった。

それと同時に脳裏に別の思考が過る。

自分に負けるようで悔しいし、言い訳はしたくないが、今のこの体が『現実』をそして『限界』を物語っているのではないか?

四度の膝の手術を繰り返した膝はボロボロで痛みを伴う。ぼくの体はもうこれ以上滑ることを拒絶しているのではないだろうか?

一ヶ月ほどエアを飛べなかったとはいえ、ぼくの最大の武器であったエアの高さ(瞬発力)の低下は特に著しく、もうかつての自分とは違うとの判断をせざるを得なかった。つまり確実に『衰え』てきているという『事実』を受け容れるしかないのだ。。




北海道選手権大会の三日後。

苫小牧よりフェリーに乗り込み、北海道チームは新潟へと向かった。このシーズンはリステルで全日本選手権大会が開催だ。


ぼくは道中、膝の悩み、滑りの悩み、引き際についての悩みで、人を惹き付けない負のオーラを出し、独りで問題を抱え込んでいた。多くの若手選手が参加しており、彼らを引っ張らなくてはいけない立場にあるにも関わらず、『自分のこと』で精一杯だった。この遠征でご一緒した選手皆様、本当に申し訳ございませんm(__)m

そんなぼくの元気のなさを察知したのかサヤが


『元気がなさそうですが大丈夫ですか?』


と何度か声をかけてくれた。サヤは優しく周囲に気を配れる本当にいいヤツだ。そんなサヤに曖昧な言葉でしか返せなく情けなかった。


元気のない、覇気のない自分とは対照的にマイ、ワナカ、まっしーなどジュニア選手たちは特に元気だ。

猪苗代で買い物をしている際にまっしーも暗い顔をしたぼくに気づいたのか


『ねぇねぇドラえもんのモノマネして下さーい!』


と無茶振りをしてきた。ぼくは苦し紛れに似ても似つかないドラえもんのモノマネをすると、まっしーは屈託のない笑顔を見せる。その笑顔が今の自分にはあまりにも眩しく、淀んだ目では決して直視してはいけないような気がした。

このように後輩に気を遣わし、おれは一体何をしているのだろうか?そう自分に問うたびに、心の奥底に罪だけが増えていく。


『お世話になった方々に恩返しがしたい。』


『自分が先輩方にもらった恩恵を後輩方に返したい。』


『もっと自分から積極的に選手の皆にコミュニケーションをとり、ただモーグルを楽しみたい。』


そんな思いで競技復帰したのに結局自分のことで精一杯。本当にぼくは愚かな選手です。



このような心の持ちようなので、全日本選手権大会はミドルセクションでコースアウトという無様な結果に終わった(シングルは悪天候のため中止でデュアルのみの開催だった)。

3つは相変わらず猫みたいな器用な滑りで予選一位の快走。中学生のイツキも難コースを攻略し予選突破。他にもW杯チームのケータ、空、素直、フミヤ、ユーポンも決勝へ(悔しかったから憶えている笑)空が二位、ケータが三位に入った。

この大会では終始ケータも険しい顔つきをしていたのが印象に残っている。オリンピックに向け、結果を求められる立ち位置にいるケータには、他人のぼくには想像し難いプレッシャーがあったのだろう。。




結局、このシーズンは全日本選手権大会で滑走を終え、ボロボロの膝を休めることにした。

スキーをしなくては、という自分が作り出した脅迫観念から逃れられ、何故だかひと安心というのが本音だった。同時に、脅迫観念でスキーをしていた自分に対し失望をする。一月の復帰戦で負傷して以来、何よりも好きなスキーをモーグルを、気づけば脅迫観念で惰性で滑っていた自分がいたのだ。それは、ぼくにとって哀しい事実であった。

そんな思考でいるためか来シーズン、モーグルバーンを滑走している自分を全くイメージできなかった。このとき初めて滑り続けるメリットより、デメリットの方が勝ったのだ。


『膝はボロボロで今までのように滑ることが出来なく、これ以上滑り続ける理由が見当たらない。』




やがて見渡す風景が彩りを取り戻してきた初夏。予想に反して膝が回復の兆しを見せ、またしても心がグラッグラに揺らぐ。

冷静になり昨シーズンを振り返ると、このままでモーグルバーンを去るにはあまりにも中途半端だった。

お世話になった方々に挨拶もしていないし、両親や友人に最後の滑りを見せたい。そんな礼儀と欲が心の隅にあったのだ。


終業後、ぼくは柄にもなく港へと向かい、海へと沈みゆく夕陽を眺めては新たな決意をする。


『もう一年。もう一年だけ可能な限り滑ろう。』


側から見ると諦めが悪いし、大変醜いものであろう。それは百も承知で滑りたい。

12/13シーズンの全日本選手権大会を最後にモーグルを卒業する。

ぼくはすっかり陽が沈んだ港をあとにし、最後の悪足掻をひっそりと始めることにしました。



長きに渡った連載も次号で最後です。大袈裟ですが、モーグル界(特に北海道のモーグル界)の将来を見据えた最後の想いを綴っていこうと思います。

個人的な意見なので、各方面から様々な反論もあると思いますが、モーグルが好きで好きで仕方がなかった落ちこぼれ選手の一つの意見として読んでいただけたら幸いですm(__)m

{50401F6B-9588-4AD9-BBFC-A0DDE798798A:01}
結果的に最後の全日本選手権大会となった11/12シーズンのリステルにて


私とモーグル part14

『もしかすると、これが最後の競技シーズンになるかもしれない。』


春の冷たい空気が漂う夜道を走りながら、ひとり物思いにふける。

気づくとジョギングコースの中間地点である、我が母校の札幌市立東栄中学校の前に。ぼくは一度足を止め、懐かしの学び舎をぼんやりと眺める。

ここを卒業してからもう9年。当時の友人にモーグルの選手になってオリンピックに出ると豪語したが、果たしておれはその夢に近づけているのだろうか?それとも遠退いているのか?


・・・。


おれはまだまだ甘いな。だが、このまま口先だけのピエロで終わるつもりはない。おれは有言実行してやる。。


当時の友人たちも、また様々な夢を持っていた。

100メートル走でオリンピックに出る、医者になる、プロボクサーになる、警察になる、NBAの選手になる、教師になる・・・。

しかし、多くの友人たちの夢は破れ、または夢が途中で変わったりした。家庭状況が変わったり、厳しい現実を目の当たりにしたり、途中で諦めざるを得ない状況になったり。その中には単純に挫折もあるし、不可抗力が働いたり外的要因もあるだろう。そのように本人にしかわからない夢を諦めた理由が存在する。だからこそ、当時の夢を諦めた友人たちを否定しないし、夢や目標が変わるのは悪いことではないと思う。


それでも、おれは当時の夢を追い続ける。そして叶えてみせる。絶対に諦めない。モーグルが好きだから。


初めてモーグルに出会った11歳の頃から今に至るまで、モーグルはぼくの心を捉えて離さない。未だにモーグルは一番カッコいいスポーツだと思っている(もちろん現在も)。


学び舎を眺めてノスタルジアに浸りながらも決意をしっかりと固め、ぼくは前半よりもペースアップして再び走り出した。


もし、今シーズンが最後の競技生活になるとしたら・・・今の自分のやるべきことはただ一つ。09/10シーズン終了時に『おれは全てをやりきった、悔いはない』と思えるよう日々行動することだ。

近い将来モーグルから離れ、09/10シーズンを振り返り、『あの時、もっと頑張れば良かった』など思うような辛い毎日は過ごしたくはない。

そのように考えると、自分のやるべきことや課題が面白いように浮かんでくる。それらを消去法でこなし、そして新たな力を手に入れる。誰よりもモーグルが上手くなりたい、そして勝ちたい。



このシーズンのオフトレは自分でも驚くほど集中して取り組めた。職場の飲み会、合コン、大好きな釣りに登山、友人や女性からのお誘いなど殆ど断り、週5~6日でトレーニングに取り組んだ。その結果、体が明らかに変化していき、ウォータージャンプでは新たな技もマスターできた。


当時の年齢は25歳。正直もう競技者として、10代選手と比較して急成長はあり得ないだろうし、ナショナルチーム入りなんて狭き門と言うかほぼ不可能に近いことも十分に理解していた。

だが、モーグルがまだまだ上手くなれるという手応えがあったし、肉体的にも進化できる余地があるとの自信があり、『不可能を可能にする』チャレンジ精神で溢れていた。

しかし、今思い返せば、このシーズンのぼくは勝つという『結果』だけに捉われ、本当に視野の狭い人間、選手になっていた。北海道強化選手として最年長にも関わらず、若い選手とのコミニュケーションを必要最低限しかとらず、『自分の成績』を出すことだけを考え行動していたように思う。つまり、後輩たちの世話を全くせず、ぼくが昔先輩から受けた恩恵を後輩たちにお返ししようとしていなかったのだ。本当に愚かな人間でした。



尚、この時期のモーグル界の状況や二度目の前十字靭帯損傷などの苦悩の日々、そして二年間スキーから離れ再び競技復帰を決意した当時の赤裸々な気持ちを記した過去の記事があるので、もしお時間がございましたらご覧になっていただけたらと思いますm(__)m
↓↓↓



そしてシーズンイン。

{6894E7F9-E457-4AAE-A8F3-2636418FDFC2:01}
原田パパ、レッド、ぼく、セッキーさんと。国際スキー場にて。

{55EA9350-82CF-4506-84A0-2260E7748A7D:01}
正月休みももちろん練習。フッズで不整地を滑り込む。

{7A2BB3F7-21CC-42DF-B062-E711CA5EBE02:01}
必勝を期して挑んだリステル。ユーポンの圧勝。ぼくは3位に終わる。




リステルの二連戦を経て、忘れもしない2010年2月14日。北海道選手権大会シングルモーグル決勝。


ばんけいスキー場にはどんよりとした雲に覆われ、薄暗く重苦しい雰囲気の中、大会は進行していった。

正確には、重苦しいのは天候の所為ではない。ぼくは二日前の公トレで滑り込み過ぎ、あれほどオフトレで体力をつけたにも関わらず、もう既にバーンを滑り抜く力が枯渇していた。地球に物凄い重力がかかっているかの如く、自分の体が恐ろしいほど重い。


しかし、無情にもそんな体など御構い無しに大会は進行してゆく。


男子決勝が始まった。

一番スタートのゲンは予選とは見違える堂々たる滑りで、ゴールをするとガッツポーズが飛び出した。会場が物凄く湧いた。


『頼む、もう少しだけ進行を遅らせてくれ。』


『いや、本当は決勝を棄権すべきだったのではないか?』


ぼくは心の中で『マイナス』な言葉を呟く精神状態で、とてもじゃないが体は大会に挑めるコンディションではなかった。


全ての原因は二日前の公トレで滑り過ぎたこと、、、。


ぼくは今更ながら、大会慣れしていな選手ですら犯すことのない過ちを犯してしまった自分を酷く呪う。




北海道選手権大会の一週間前。

北海道スキー連盟の日帰り合宿が、同じくばんけいスキー場で行われた。

午前中に出来上がったばかりの大会コースで、午後から通し練習(全集法)をすることになったのは自然な流れか。

しかし、ぼくは課題であった2エアでのコーク7の修正をすべく、コーチに無理やり頼み込み、一人エア練習をすることになった。当時のぼくは通しでのコークに難があり、何としてでも一週間後の大会に間に合わせたかった。全日本選手権大会までちょうど一ヶ月だから、今思えばちょっとした『焦り』もあったのでしょう。


アプローチの4コブを滑ってまず一本ストレートを飛ぶ。


2エアはいつもよりアールが弱く、ばんけいにしてはやや発射台系に感じた。ぼくが最も苦手とする形状だ。

だが、それはそれで練習になるだろうとポジティブに捉え、コークを飛んでみる。

縦軸が弱く、下半身も捻れ気味だった為、ギリギリのところでランディングが間に合った感じだ。


かけ急ぎと腰が回転についてこなかったことを反省し、もう一本トライ。


空中に出た瞬間『あっ、やばい!』と思いランディング場所を確認するものの、体軸が戻らず横落ちしてしまった。


ほんの一瞬、気を失っていた。


『大丈夫かー!?』


ゴールエリアで眺めていたコーチ陣の声がぼんやりと聞こえた。頭が痛い。脳が荒ぶる波に揉まれる船のように不快に揺れている。

コーチ陣に心配かけまいと、ぼくは無理やり立ち上がり、ゴールエリアへと滑り降りた。そして不自然なくらい笑ってコーチに


『いってー!、、、けど大丈夫です!』


と言葉を放った。本当は今にも吐き出しそうな程、気分が悪かった。


以後、その時のダメージがなかなか抜けなかった。大事をとって金曜日の公トレまで滑走を控え、体調の回復に専念をすることにした。



2月12日。北海道選手権大会公トレ。


{9B39EF2A-CC96-41BA-8924-E50551CD01D7:01}
公トレ時のぼくと3つとゲン。


ぼくはゲレンデに降り立ち、日曜からこの日まで練習出来なかったことにいささか不安を感じつつ、オレンジリフトを降りて大会コースへと向かった。


正直、体調はまだまだ優れない。軽い頭痛と上体の左側にダメージが残っている。

ところが、滑り出すと痛みなどを忘れるくらい調子が良かった。『ゾーン』には入っていないが、体がイメージ通り自由に動く。滑走前に抱いていた不安は瞬く間に消え去り、嬉しさの余り全開でコースを滑り続けた。四日間、練習出来なかった分を取り戻す勢いで。


もし、この日が大会本番だったらぼくが勝っていたかもしれない。それほど調子が良かった。いや、『調子が良すぎた』のでしょう。その為か、自分では気づかぬうちに『本番までの体力』を消耗してしまっていのです。公トレは『練習ではなく確認の場』なのですがね(笑)。


{9DB55878-BDAC-45B5-9E35-660541A87405:01}
デュアルモーグルは6位止まり。ってか、素直もおれも若い(笑)。




そんな重大な過ちをぼくは後悔していた。でも、あと二人でスタート順が巡ってくる。


『何を今更後悔してるんだ?ここまで来たらやるしかない!体力がなくても気合と根性で滑り抜けクソヤロウ!』


恫喝に近い精神論で弱気な自分をねじ伏せ、無理やり気持ちを決勝の一本へと傾けた。ぼくはボロボロの状態で『ムリをして』滑ってしまったのだ。


その結果、、、。


ぼくは2エアのコークのランディングで左膝外側の半月板と軟骨を損傷。『ゴリッ!』という音が今でも耳に残っている。



先に結論を話すと、ぼくはこの怪我がキッカケで二年もの間、スキーが出来ない状態になり、今でもその痛みに苛まれています。

冷静に考えると、北海道選手権大会のぼくは公トレで練習をしてしまうという『明らかな作戦ミス』をし、結果『大会で滑り抜ける体力を使い果たし、まともな精神状態』ではなかった。

もしもあの時、『自分の重大な過ち』に気づき、せめてシングルモーグルを棄権する『勇気』があれば、今も痛む左膝を負傷することはなかったハズ。それ以前に、ぼくは様々な局面で客観的に自分を見ることが出来ない身の程知らずで『無茶、無理』をして怪我を繰り返した。これらの出来事が『競技に対する最大の反省』です。ちなみにそれよりも大きな反省もありますが、それはこの連載の最後に綴りたいと思います。




ぼくはこのケガを契機にスキーから離れ、競技から退くことを決めた。突然、今まで当たり前のように動いていた体、そしてモーグルでオリンピックに行く夢が消え去り、数ヶ月もの間精神が病んでしまっていた。


この年は本当に様々なことが起きた。北海道選手権大会で外側半月板を損傷し、無茶をして2週間後にコブを滑走した際に今度は内側半月板を損傷しロッキング。

{CBA8B7EC-F69D-4BBE-B6B8-BD67D0E301F5:01}
オリンピック帰りのアリサを囲んで。北海道新聞の記事より。




3月に手術を受け、地味で苦しいリハビリを経て復帰した6月。体力測定の反復横跳びでまさかの左膝前十字靭帯を損傷。


たかが反復横跳びで損傷?


そう疑問に思った方も多いでしょう(笑)。


実は半月板手術の際に内視鏡で膝の中を確認したところ、前十字靭帯の3~4割が部分断裂しているのがわかった。

しかし、主治医は完全断裂していないので、前十字靭帯はこのままで行こうとの結論を出した。確かに難しい判断であったと思う。

その判断にぼくは難色を示した。なぜなら北海道選手権大会で外側半月板を損傷した翌日、以前前十字靭帯を損傷したときと同じくらい腫れ上がり、黒々とした血が溜まっていたのだ。半月板のみの損傷だと血は溜まらないハズ?

だが、主治医がこのままで行こうとの判断と、モニターに映し出された残っている6~7割の前十字靭帯を信じ、ぼくは主治医の判断に身を委ねた。



そして膝の腫れが収まり、筋力も回復した6月。北海道スキー連盟の体力測定。

反復横跳びを測定中、左膝が外れぼくは地べたに転がる。この膝が外れる感覚は一体何を意味しているのか一瞬で理解できた。何故なら、以前忘れられない経験をした過去があるからだ。


『前十字靭帯再断裂』



ぼくの持論はこうだ。

北海道選手権大会で半月板を損傷した時点で、ぼくの前十字靭帯が部分断裂し、その靭帯から出血して膝がパンパンに腫れ上がった。つまりこの時既に靭帯が靭帯としての正常な機能をしなくなっており、3月の手術中にモニターに映った6~7割の前十字靭帯はただの飾りにしか過ぎなかったのだ。

結果、体力測定中に前代未聞の反復横跳びで『飾り』の前十字靭帯が断裂した。この際は以前、前十字靭帯を損傷した時のような腫れはなかった。ぼくは『飾り』の前十字靭帯に希望を見出し、モーグルがやりたいという思いにしがみ付いてたのだ・・・。

プロである医者の見解は違うかもしれませんが、ぼくはこのような結論に至りました。

損傷直後は、3月の時点で前十字靭帯再建手術を施さないという判断を下した主治医を恨みましたが、ケガをしたのは『自分の意思』で行動した結果なのだ。恨むべきは、反省すべきは自分の愚かさなのではないだろうか?時が経つにつれそう思うようになりました。

しかし、ぼくは前十字靭帯が部分断裂してたことが判明した時点で、セカンドオピニオンを探し、他の医師の意見を聞いてみるべきだった。ぼくの主治医は前十字靭帯の再建手術を勧めなかったが、他の医師は違う判断を下していたかもしれない。経験上、『医者も十人十色』で見解が少なからず皆違いがあると思います。

もし、このブログを読んでいる選手の方で、何処か怪我を抱えている選手がいましたら、『今の治療をすることにより、症状が改善してるかしてないか?』考えてみて下さい。改善されていないようでしたら、他の病院を当たったり、整骨院や接骨院にも行ってみるのもアリだと思います。



話は戻るが、あのシーズンは前十字靭帯を損傷した選手が本当に多かった。ぼくの知るところ北海道では空、タツロー、ユーポン、ぼく。本州では松本さん、伊藤あずさ、、、あと他にもいたような?

面白いことに、実はこの前十字靭帯を損傷した選手には『ある共通点』が存在します。それは、体に負荷が掛かりやすいある『道具』を使用していたからとぼくは結論付けました。賛否両論あるとは思いますが、このことについては連載の最後に書きたいと思います。




次号は11/12シーズンの競技復帰戦でまさかの負傷と、12/13の最後のシーズンです。

あともう少しだけお付き合い下さいm(__)m

{3870A27F-8605-4809-A7BA-CBF42BA5320E:01}


私とモーグル part13

3月12日。

北海道チームは白馬さのさかスキー場に到着した。辺りを見渡すと、その視界に入る景色が完全に春真っ盛りで、埃混じりの緩い風が肌をかすめる。。昨日まで寒空の下過ごしていた体が驚くほど暖かい。

路面も露出しており、夏タイヤでも全く問題なさそうなほどだ(ちなみに加藤のアニキは帯広から既に夏タイヤ笑。3月の北海道でそれは自殺行為笑)。


今回の宿はスキー場からは目と鼻の先で、環境的には申し分ない。


『いよいよリベンジマッチが始まる、、、。』


就寝前に決戦の舞台であるスキー場を眺めながら、ぼくは静かに闘志を燃やしつつ、少々コーフンし気味のなか布団に潜り込んだ。フェリーでの長旅の疲れが手伝ってか、ものの数分で深い眠りに落ちていった。




翌日。

大会バーンは朝からザックザクの春雪。北海道勢はこの雪質で滑るのが今年初で、半数くらいの選手が手を焼いているように見えた。

それとは対照的に、本州の若手選手や百戦錬磨のW杯チームはこの雪質をもろともせず、コースを勢いよく滑り降りてくる。本州は北海道と違い、『雪質の変化が著しい』ので対応能力は明らかに本州勢の方が上だ。改めて『北海道勢は練習や遠征で様々なスキー場、雪質で練習する必要がある』と感じた。


さて、そんなぼくは春雪の対応に悪戦苦闘。なんと!公トレで一本も通すことが出来ず、本番を迎えることになりました(笑)。情けない。。



3月14日。第29回全日本フリースタイル選手権大会シングルモーグル。


天候は薄曇り。コースコンディションは昨日と変わらず、シャバシャバの重たい春雪だ。

しかし、公トレでは多少この雪質に慣れた為か、前日よりも滑りやすく感じ、不安はほぼ消え去り調子も気分も上向き( ̄▽ ̄)何とか本番に合わせることができた。。



このようにピーキングがギリギリで上手くいき、死力を尽くしたのだが、、、。



結果は昨年と同様に16位。。



『おれは結局16位止まりの選手なのか、、、。』



厳しい現実を突きつけられ、戦意を失いかけていたが、落ち込んではいられない。


『こんなハズじゃない。おれはもっと上へ行けるハズだ!』


そんな言葉を自分に何度も何度も言い聞かせ自己暗示して、腐敗のムードを強引にねじ伏せた。




しかし、そんな気持ちとは裏腹に翌日のデュアルは最悪だった。

{CFFB30A6-A7D0-4E62-818D-F37F5E8990F9:01}
大会会場


1エアのテイクオフとランディングを誤る。

いつもならこのような大きな失敗をした時点で集中力が切れるのだが、脳裏に昨シーズンと前日の悔しさが浮かび『最後まで絶対に諦めない』との強い気持ちでぼくは滑り続けた。

もう予選を通過できないことも、ナショナルチームに入ることも、オリンピックの舞台に上がれないこともわかっていた。一瞬のミスで夢がバラバラに砕け散ったのだ。


だが


ぼくはゴールに向かって全力で滑り続けた。

『絶対に諦めない、絶対に諦めない、、、』

そう自分に言い聞かせながら。


もしかするとあの時のランは、ぼくの競技人生の中である意味一番『気持ちの入った滑り』だったかもしれない。内容は見ての通りボロボロでだったが、『最後まで全力で滑り切る』という気持ちだけは誰にも負けてなかったように思う。


ぼくはゴールすると会場の外れの方へ行き、雪上に仰向けに倒れ、白馬の何処までも広がる青い空を眺めていた。


『これで全てが終わった。おれは所詮これまでの選手なのか、、、?』


自分に問いかける。


そして、昨シーズンの全日本選手権大会から今大会までの過程を振り返る。


どこに間違えがあったのか?やれることは全てやったか?時間を有効に使えたか?全力で日々を過ごしたか?


ありとあらゆる問いを自分自身に投げかける。すると、、、一つだけ心に引っかかることがあった。


それはオフトレだ。


前十字靭帯の再建手術を受け、ウォータージャンプやパワー系や走り込みなどに取り組めず、リハビリに多くの時間を費やしたのだった。

ぼくはそれらを最後の最後まで言い訳にはしたくなかった。なぜなら選手としてのチッポケなプライドがあったからだ。

前十字靭帯を損傷したのは紛れもなく自分の過ちだし、時間というのは万人に平等。つまり一日24時間というのは、ぼくにも他の選手にも同様に与えられる。ぼくはその時間を有効に使えなかっただけなのではないだろうか。


しかし、、、


冷静に考えれば考えるほど、オフトレに取り組めなかったことが大きく影響しているようしか思えなく、どのように表現したらいいかわからない悔しさと、モヤモヤが心の底から湧いてくる。


、、、。


『こんなハズじゃない。おれもオフトレをしっかりやれば、絶対に誰にも負けない。このまま終わってたまるか。』


そんな心の声が、モーグルに対する情熱が再びぼくを立ち上がらせてくれた。見ていろ、来シーズンこそは、、、。



ぼくは気持ちを切り替え会場に戻り、決勝のデュアルモーグルを観戦することにしました。

決勝には多くの北海道勢が残っており、ぼくは悔しさを堪えながら声を絞り出し、皆の応援をしていた。加藤のアニキ以外は一回戦負けだったが、皆とてもいい滑りをしていたよう目に映った。

特にケータの滑りが一番印象に残っている。このシーズンお世辞にも調子が良いとは言えない成績だったが、当時W杯チームだったりゅーじ君とのデュアルはサイドバイサイドの迫力満点の滑り。2エアのフロントは素晴らしくバカデカかった。この全日本選手権大会に賭けている強い気持ちが
、滑りと彼の目に表れていたようにぼくには見えた。



デュアルモーグルは前日同様、W杯チームが上位を独占。やはりW杯チームは群を抜いて力があった。



死力を尽くした全日本選手権大会を終え札幌に戻ってきたぼくは、三日後に再び新潟行きのフェリーへと乗り込んだ。

今回は引率コーチとして関さん、コーちゃんと若い選手を連れて、松之山温泉スキー場へ。そう、ジュニアオリンピックです。


フェリーは小樽港を出港し、選手が寝静まった深夜。ぼくとコーちゃんは薄暗いロビーに行き、軽く一杯引っ掛ける。

このようにコーちゃんと遠征するのはいつ以来だろう?

青森遠征以来だから実に7年ぶりだ。遠征するのも、ゆっくり話すのも久しぶりなだけあって、昔話から現在コーチとして本格的に動き始めた経緯まで会話は弾んだ。一時期、コーちゃんはモーグルから気持ちが離れかけていたが、再びコーチとして戻ってきたことがぼくは本当に嬉しかった。やはりお互い『モーグルが好き』みたいだ\(^o^)/



春の日本海の荒波に揉まれながら新潟に到着。助手席に座る森島のケータイのナビに助けられ、19時過ぎに松之山温泉の宿にチェックイン。



翌朝。散歩とストレッチのため皆で温泉街を散策。ぼくは前日の長旅の疲労がどっさりと残っており、頭がボーっとし体も気怠さを道連れている。この松之山の生温い気候も影響しているのだろう。

そんな中でも数名の選手たちは朝から元気。ぼくが持参したサッカーボールを蹴ってキャッキャッと遊んでいる。すると、、、ヒロタカが蹴ったボールが思わぬところへ飛んでいき、その勢いのまま川に吸い込まれるように転がり、どんぶらこっこと流れる桃太郎のように流下していった(笑)。

OMG((((;゚Д゚)))))))



午前10時。コースオープンと共にコーチの配置を決め、選手の滑りとコース状況をチェックすることに。

初めて目の当たりにする松之山温泉スキー場のモーグルバーンは何とも摩訶不思議なコースというのが率直な感想だ。ミドル中盤から急激に緩斜面になり、ゴールから眺めて左側は極端な方斜面。選手は得意方向のターンによってコースを選択すべきか?


ぼくはゴールエリアから選手を眺め、滑り降りてくる度に一言アドバイスというか声をかける。正直、ぼくの言葉は本当に選手に届き、かつ試合に向け役立つようなものなのか?

このような公トレ時のアドバイスは、他のコーチはどのような感じなのか疑問に思った。そして今までは選手としてアドバイスをいただく立場にいたため、いざ自分がコーチとなったら『コーチ目線(ジャッジ目線、第三者目線)のアドバイス』と『選手目線のアドバイス』と両方の観点からアドバイスをしなくては伝わらないのでは?とフッと気づいた。そのことから『コーチとは選手以上に広い視野を持つ』ことの重要があると思った。だからこそコーチング素人のぼくでさえ『コーチは選手以上に難しい』ものだと身を持って理解することができた。



大会当日。松之山温泉スキー場には爽やかな蒼い春空が広がっていた。


大会コース自体の難易度は低く、シャバシャバの春雪なのでスピードとエア勝負になることは簡単に予想できた。

そうなると北海道勢はかなり不利だ。何度も同じ事を言うが、この時期の北海道は場合によりまだハイシーズン並みのコンディションで、選手たちはまだ春雪には接していない。しかも、前日の公トレでハッキリしたのだが北海道勢は『エア』が飛べない(これは現在もそう←ぼくも人のことは言えないが笑)。本州勢とのこの差は何なのだろうか???疑問に思っている関係者も多いハズ。



蓋を開ければ各クラスとも本州勢の圧勝だった。北海道勢はナオキ(公トレ時に板を破損し、急遽ぼくの板で大会に臨んだにも関わらず、予選を上位通過した)、アツシ、ナツキがいい滑りを魅せるものの、特にエアの面では明らかな差を痛感する結果となった。


その日の夜は食後にミィーティングがあり、選手たちと本大会を振り返り、今後の課題を明確にすべく話し合いをした。

一部の選手はこの惨敗具合に本当に悔しそうな表情をしていたのが、印象に強く残っている。その悔しさをバネに、日々トレーニングを積み重ねてほしいと思った。

それとともに、ぼくはこの遠征で初めてコーチとして選手の引率をしたが、慣れないコーチングなどぎこちなさや至らない点も多々あったことも事実です。選手が目標を達成できなかった一部の原因は自分(コーチ)にもあります。当時ジュニアオリンピックに出場した皆様、お力になれず申し訳ございませんm(__)m

コーチ目線でモーグルを見ることができ、選手として勉強にもなったジュニアオリンピックの遠征であった。

{D11DDF78-6BC2-4814-BABF-E66B59DDAA3E:01}
集合写真。懐かしいメンバー。



遠征後は柴山さん、ゲン、ケータ、ヒロ、ヒサとキロロの春スキーシーズン券を購入し、5月のGWまで毎週のようにゲレンデへ。

関さんも駆けつけてくれ、整地、コブともに充実した練習ができたように思う。特に朝一のカチカチに締まった整地での大パラ、中パラの練習では新たな感覚を掴め、来シーズンへの手応えを感じずにはいられなかった。関さん、貴重な休日を選手のために使っていただき、ありがとうございましたm(__)m



ぼくは来シーズン(09\10シーズン)で25歳になる。学校を卒業してから、それは自分にとって『一区切りをつける』と予め決めておいた年齢でもあった。

つまりこれが競技生活最後のシーズンになる。もちろんモーグルは好きだし、競技から退いても滑り続けはするけど。

だが、最後のシーズンを避けるための道を一本だけ用意した。その道とは『ナショナルチーム』に入ることだ。

夢の続きが見たければ、モーグル競技を続けたければナショナルチームに入るしかない。それが叶わなければ、きっぱり諦める。

勿論、最後のシーズンにするつもりなど微塵もなかった。絶対にナショナルチームに入る。オリンピックイヤーだから選手の大幅な入れ替えがあり、チャンスは必ずあるハズだ。

そのように自分を追い込み、GWが終わった翌日よりオフトレを開始。ぼくは終業後、ランニングシューズに履き替え、まだ冷たい空気が漂う春の夜道を走り出しました。



落ちこぼれ選手の昔話はあと少しだけ続きます((((;゚Д゚)))))))



私とモーグル part12

春の陽光が傾きかけた頃、ぼくと空はばんけいスキー場に到着した。

足を引きずりながらのらりくらりと歩を進め、怪我の報告がてら大会本部に顔を出してみる。すると宮下さんが目を丸くしてガバっと椅子から立ち上がり


『膝やったばかりなんだから歩くな!安静にしてなきゃダメだぞ!』


とぼくらに注意を促す。

そんな宮下さんも以前に前十字靭帯を損傷し、その足でアメリカ遠征の引率に行き、帰国後に手術を受けるつもりだったらしい。しかし、手術時に膝の中を観た医師が『こんなグシャグシャな状態では手術できない。』と言って、宮下さんの手術は延期となった。本人曰く無理に動き回ったせいだとのことだ。

その経験から発せられた言葉なので、ぼくらは真摯に受け止め、大会本部を出てトボトボとチームばんけいのプレハブへと移動し椅子に腰掛けた。

すると、団体戦を終えた選手たちが続々と下りてきてプレハブの中へと流れ込み、たちまちギュウギュウの満員御礼状態に。

本当はおれも出場するハズだったんだけどなぁ、と昨日の怪我を悔やみつつ皆と言葉を交わす。誰もがとてもいい表情をしている。団体戦は大盛況のうち終わったことが理解でき、そんな皆の笑顔があまりも眩しかった。

少し間を置き、ユーゴさんと昨日の大会について話す機会があった。


『この結果に後悔はしていません。どうしてもあのエアのルーティーンで勝負をしたかったですし、今回の全日本で入賞できるのなら死んでもいい。そのくらい人生を賭けていました。』


そう話すぼくにユーゴさんが


『本当に後悔していないの?決勝の公トレで滑りを見ていたけど、あのエアのルーティーンには無理があったんじゃない?だからおれは2エアのフルツイストを失敗して怪我をしたと思っていたよ。』


さらにユーゴさんは続ける。


『自分が確実にこなせる技で勝負しなきゃ話にならないでしょ。もし仮にこれが競技人生で最大の大会(自分にとってはオリンピック。しかも金メダルとれるかとれないかくらいの状況)だったら今回のような博打に近いエアのルーティーンでいいかもしれないけどさ。おれだって今のエアのルーティーンなんて飛びたくないけど、それが確実にこなせる技なんだ。』


ぼくはハッとさせられた。そうか、そんな考え方もあったんだ。。自分にとって、いま確実に飛べるエアは360とバックレイアウトで、この二つの技なら日本で一番上手く飛べる自信があった。。

つまりユーゴさんが言いたかったのは、自分の最終目標を見据え、目の前の大会を『いま確実に出来るエア、滑りで勝負』して、一歩一歩前に進んで行くことの重要性ではないだろうか。そしてモーグルは『ジャッジスポーツ』。いくら難度点が高いエアを飛んでも完成度が低ければ、完璧に飛べる難度点の低いエアの方が結果的に高得点に繋がる。。

もし、仮にぼくがコーチや先輩として当時の自分や、それと同じ状況にいる選手にアドバイスするとしたら、ユーゴさんと同じことを伝えるであろう。それが『確実』な選択肢であるし、何より選手の未来を案じて。


しかし、、、


当時の自分にとっては今回の全日本選手権が、オリンピックと同等のものであると思っていたに違いない。年齢や今後の生活を考えると、この大会で目標を達成するしかナショナルチームに入り、2010年のバンクーバーオリンピックに出場するチャンスを掴めないことがわかっていた。

いや、何よりこのシーズンにお世話になった方々に対し、感謝の気持ちを還元したいという『強い意思』とこの大会に賭ける『覚悟』が、自分の脳内を占めていた。だからこそ無謀な賭けであるレイアウトとフルツイストを飛び、尚且つ膝を負傷するリスクがあると分かっていても全力で試合に挑んだ。


だから


今もし当時の自分に戻れたとても、ぼくは全く同じ気持ちで、全く同じ行動をとるであろう。結果としてチャンスを掴み損ね、大怪我をしたとしても、、、。


そんな思考でいたからぼくは世界に通用する選手になれなかったのかな(笑)?また、選手として冷静さと適切な判断能力が欠けていたのかもしれないし、決勝の滑りについても『コーチや第三者に少しでも相談すべき』だったのかもしれない。


、、、。


でも確かなことは、死んでもいいという究極の覚悟を持たなくても、フルルーティーンのエアを無理して飛ばなても、いつも通りの『心の余裕』を持った滑りで目標を達成出来るようにならなくてはいけないこと。

そして、、、あの時の膝の状況からするとどんなエアを飛ぼうが、もし決勝でゴールできたとしても、近い将来に前十字靭帯を損傷していたでしょう。

つまり、全体的な技術の底上げが必要だし、膝はケガをする運命だったのは確かだったのだ(そもそも予防は出来たことなのだが)。。


『とりあえず、おれもまだまだ実力不足だなぁ、、、。』


そんな自分の実力のなさやユーゴさんの言葉、そして今後の選手活動や人生についてなど様々な思いが脳内を駆け巡る中スキー場をあとにした。


{B9328D90-7F3E-47CE-924D-416553F82FE7:01}
先に手術を受けた空とケガしたフリのレッド



一ヶ月後。

ぼくはNTT東日本札幌病院にて左膝前十字靱帯再建手術を受け、競技復帰へ向けて歩き始めた。

入院中、友人やモーグル関係者、選手やその親御さんまでお見舞いに訪れてくれ、たくさんの差し入れと活力を頂く。来院して下さった皆様、本当にありがとうございました。


退院後はひたすら地味で苦しいリハビリが待っており、来る日も来る日も希望と絶望を繰り返しながらもリハビリに取り組む。寒川先生、吉田先生、Tさんのトレーニングはスーパーハードで、今思い返しただけでも吐き気がするし、よくぞあのようなトレーニングをこなしてきたと感心するほどだ。経験された方はご理解出来ると思うが、前十字靱帯再建手術後のリハビリはどんなトレーニングなんかよりも遥かに辛い(笑)!



紆余曲折、様々なことが身に降りかかりながらも12月。

ぼくは札幌国際スキー場で、あの日以来のスキーを履き、再び選手として一スキーヤーとして白銀のゲレンデへと飛び込んだ。

『再びスキーが出来る喜び』に満ちていた。



年が明けて2月。競技復帰戦である長野県、埼玉県大会にエントリー。有さん、フジヤンさんとフェリーに乗り込み、長野県へと向かう。

{E50292FE-D917-4E4B-809C-11446577BC8D:01}
さのさか



公式トレーニング当日。

会場に到着すると松之山で開催された国体に出場した道内のメンバーや、W杯選手以外の猛者が揃っていた。3月の全日本選手権大会はここ白馬さのさかスキー場で開催されるので、前哨戦である二つの大会に選手が集い、ハイレベルな争いになるのは必然である。


大会バーンは大変緩やかで、ハイシーズンにも関わらず雪質が春の様にシャバり気味だ。一番印象的だったのは、エア台の角度がかなりあり、すっぽ抜ける選手が多数いたこと。公トレ1本目でド派手なバックドロップをしたゲンはケガこそしていなかったが、数名ほどそこそこ重傷なケガを負ってしまっていた。

全体的に難易度は低いコースだが、エア台だけが不釣り合いな感じに少々不満を持ちながら、ぼくは公トレをこなしていった。だが、久々に滑る大会バーンが楽しくて仕方なく、独りニヤけて滑っていたに違いない。本当に嬉しかった。



明くる朝。白馬の上空は薄い雲がかかっているが、その上には春を思わせる太陽が力強い輝きを放っていた。


公トレが終わるとコブの表面がシャバり始め、決勝が始まる頃には芯まで緩みそうな気配がしていた。


しかし、まず予選に集中。


ぼくは緊張感より、競技復帰できる喜びの方がはるかに勝っており、出走をまだかまだかとワクワクしながら待ち構えていた。このワクワク感は大会デビューした16歳の頃以来(笑)?


予選は『いつも通り』フツーに滑り、7か8位くらいで通過。その順位や滑りに満足はしていないが、正直なところちょっと安心した。なぜなら、昨シーズン絶好の練習時期である春スキーと、ウォータージャンプやパワー系のオフトレを一切できなかったし、今シーズンの前半はいつものように滑り込めないでいた。そのことからライバル達は自分よりはるか遠くに行ってしまったように思え、今の自分の立ち位置が全く予測できなく、そのようなある種の不安が心の隅にあったからだ。


『あぁ、自分にはちょっとだけ過去の貯金があったんだな。』


そう思えた瞬間に不安が解消し、ぼくは晴れ晴れとした気持ちで決勝に挑もうとしていた。


だが、、、トラブルが発生してしまった。。


前日の公トレから嬉しさの余り、ガツガツ滑って全力でエアを飛んでいた所為か、ここに来て膝の痛みに苛まれてしまう。徐々に身体を慣らして滑ればよかったのですがね。なんせ大会となると、ちっぽけなアスリート魂に火がついてしまい、消火器でも鎮火不能レベルまで燃えてしまったのです(笑)。


決勝の公トレは一本のみ滑り、膝の様子を伺ったがやはり痛みが気になる!(◎_◎;)

昨シーズン、ぼくと同じ時期に前十字靭帯再建手術を受けた有さんが


『大丈夫?復帰戦なんだし無理しなくてもいいと思うよ。』


と声をかけてくれた。ぼくには決勝を棄権する選択肢もありかなり悩んだが、決勝の一本を滑りたいという『欲』がぼくを後押しした。

それらのことからかなり不本意ではあるが、安全策として決勝を予選より抑えて挑むことにする。



決勝が始まる頃には太陽が山陰に隠れ始め、大会バーンが一気に締まってきた。

急激な雪質の変化に対応しきれず、多くの有力選手がミスを連発する中、ぼくは抑えて滑ったため無難にゴールすることができた。どれくらい抑えたかというと、ラップのミッツよりも何と3~4秒も遅かったくらいだ(笑)。ホントにとてもつまらなく、不満しか残らない滑りだった。。



表彰式はセンターロッジ前で行なわれ、ぼくはまるで部外者のような眼差しで表彰式の準備する様をボンヤリと眺めていた。今回の滑りでは表彰は絶対ないだろうと思っていたのだ。

すると、そんなぼくにキクリンさんが歩み寄ってきて


『おめでとうございます。』


とニヤけながら声をかけた。ぼくは一体何がおめでとうございますなのか?その意味を全く理解できず、さっきのキクリンさんの言葉かが頭の中でグルグルと回り続けている。


そんな中、男子表紙式が始まる。


すると、、、世の中何が起こるかわからないもので、何故か三番目にぼくの名前が呼ばれてしまい、かなりテンパってしまった(笑)。


膝の痛みを堪え、表彰台へと向かう。

これは想定外だし、いかんせんあんな抑えた滑りで表紙台には上がりたくなかったというのが本音だ。

あぁ、情けない、、、なんて考えごとをしていると、当時サポートしていただいたJ社の板を持って行くことをすっかり忘れてしまっていて、ぼくは慌てて自分の板を取りに戻った。

これがお恥ずかしながらA級大会で初めての表彰台でした(ちなみに本当に情けない話ですが、ぼくは現役時代一度もA級で勝ったことがないし、北海道の大会で表彰台に上がったことがありません笑。世界の舞台を目指しながらそんなショボい選手だったのですよヽ(´o`;)。



表彰式が終わるとぼくはヒロタカとクールダウンをしてすぐ様アイスパックで膝を冷やす。

思い返せばこのシーズンは膝の痛みとの戦いで、滑走前にはガッチリとテーピングを施し、滑走後はアイシング。この二つなしでは滑ることができなかった。このように前十字靭帯再建手術後の一年は炎症が治まらず、もしも時間が許すのなら一年は競技復帰しない方が場合によってはいいかもしれませんね。



その後の埼玉県大会、札幌大会、宮様大会はイメージとカラダがマッチせず、三戦連続で予選落ちを経験。相変わらず膝の痛みに見舞われ、練習よりも休養している時間の方が長かった。

練習できない、皆のように滑れない、飛べないという葛藤はあったものの、全日本選手権大会に標準を合わし、『今の自分が出来る』ことに全ての神経を使っていた。

昨シーズン、決勝の舞台でゴール出来なかった自分へのリベンジ、そして残された僅かなチャンスを手繰り寄せる。

膝は本調子とは程遠いが、そんな強い気持ちは常に持ち続けていた。膝が痛いから、まともな練習をこなせなったから諦める。そんなことは簡単だ。だが、何があっても絶対に諦めない。どんなボロボロになろうがモーグルが好きだし、『結果』という形でお世話になった方々にお返しをしたい。この思いだけが当時の自分を突き動かしていた。

{3AE21D5F-A13C-4C8F-BE66-F811FCC02F8B:01}
細い左脚



そして3月11日。

北海道の精鋭たちと工藤さん、関さんのコーチ二人で小樽からフェリーに乗り込み、勝負の舞台である白馬さのさかスキー場へと向かった、、、。



もう少し続きます!(◎_◎;)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>