夏蜜柑の萌語り -148ページ目

【ぬい月】卒業

 既に夜の静寂を迎え始めた住宅街を、少し早足で歩いていた。手にはとっておきのプレゼントを持って。

「ただいま」

 そう言って俺たちの住まいの戸を開けば、中から待ち構えていたように、俺の愛しい人が出迎えてくれる。

「おかえりなさい…!」

 玄関先で、靴も脱がずに彼女に腕を伸ばす。
「遅くなって悪かったな」
「平気よ。こんなに息を切らせて帰ってきてくれて嬉しい」
 彼女はこうして俺を一瞬で喜ばせてくれるけれど、今日ばかりは俺に頑張らせてもらわないといけない。
 俺は彼女から顔を離し、額に軽く口付けた。

「大学卒業、おめでとう。月子」
「ありがとう、一樹さん」

 月子の腰に手を回して、家に上がってリビングへ向かう。
 月子をソファに座らせ、俺はキッチンへ足を向けた。
「晩飯は弓道部の連中と済ませたんだろう? 卒業式はどうだった?」
「感動的だったよ! 犬飼くんと白鳥くんが号泣してた」
「はは、あいつらはそうだろうな」
「そうそう、誉先輩もお祝いに来てくれたんだよ!」
「誉が? 元気にしてたか?」
「うん。一樹さんが来られないの、残念がってた」

 俺は持って帰ってきた袋の中身を広げ、戸棚からトレーやグラスを出しながら、月子へと視線をやった。
「悪かったな。お前の晴れ姿、見てやりたかったのに」
「社会人なんだもん、仕方ないよ。それに、袴は一樹さんの見立てじゃない。皆に誉めてもらえたんだよ」
 そうだったな、と笑顔を返す。
 悩む月子に付き合って、何ヵ月も前に袴を選びに行った。夜空のような紺色が鮮やかな、月子にピッタリの袴だった。
「あの可愛い月子を皆が見たかと思うと、悔しいよ」
「もう…一樹さん…」

 トレーを抱えて、月子の傍に座った。
「俺からも祝杯だ。うまいシャンパンを買ってきたんだ」
「わぁ…!」
 小さなグラスに注ぐと、炭酸が弾けて透明な宝石のように輝く。
「卒業おめでとう、月子」
「うん。支えてくれてありがとう…一樹さん」
 軽くグラスを合わせ、シャンパンを口に含む。
 月子の好みに合わせて選んだ甘口のそれは、やはり月子のように柔らかい。
「おいしい…」
「だろー?」
 目を合わせると、月子はアルコールのせいか、少しだけ頬を上気させ、目を潤ませていた。俺は慌てて目を逸らし、胸ポケットに手を突っ込む。

「月子」
「はい?」

 グラスを奪ってテーブルに置き、その手で月子の後頭部を捕まえ、深く口付けた。口の中に、さっきより甘味を増したアルコールが染み渡る。
「ふぅ…ん…」
 頭が痺れるほどの甘い吐息を漏らして、月子が俺の胸に手を添えた。
 空いた手で、その月子の手に触れる。

「ひゃっ…?」
 冷たさを感じたからか、月子が手を引っ込める。同時に唇も離れ、月子は目をぱちくりさせる。
「一樹…さん?」
「見てみろよ。左手」
 月子が引っ込めた手を目の前に出してきて、そして予想通りに涙を浮かべる。

「一樹さん…これ…」
「あぁ。約束通り、お前のすべてを俺のものにする」
 月子の左手を、そっと取る。薬指に、小さなリング。シャンパンみたいな宝石を煌めかせた左手。

「結婚しよう。これからは、何があってもずっと一緒だ」

「一樹さん…!」

 涙を溢れさせて、月子は俺の胸に飛び込んできた。そして、力強く何度も頷く。
「はい…! 私もずっと一緒にいたい…!」


 お前の門出である今日、この日に。

 俺は一番大切なものを、手に入れた…。